ルイが荒地へ出発してからどれくらいが経ったろう。
魔族との和平交渉――人類にとって、少なくとも俺の知る限りでは初めての試みだ。吉と出るか、凶と出るか。
とりあえず、荒れ地から教会へ戻ってきたルイは黒焦げだった。
「…………」
いや、まだだ。まだ分からん。
俺は纏わりつく最悪の想定を振り払おうと頭を振る。
これだけで交渉が失敗だったと断定はできない。別れの抱擁の可能性もあるし、なんなら荒地から街まで戻るのがダルいから移動手段として死んだ可能性すらある。最近死者蘇生の奇跡を公共交通機関と勘違いしている連中がいるからな……
しかし面倒だ。ただでさえ焼死体は普通の蘇生より時間も技術も余計に必要なのに、今日はいつもより念入りに焼かれている。これは復活に時間がかかる……
はやる気持ちを抑えて、ルイの死体をせっせと修復する。
復活したルイは俺を見てヘラっと笑った。その目に絶望と恐怖を湛えて。
「へへっ……ダメだったよ。彼女怒っちゃって」
だよね!!!
分かってたわそんなもん!!
交渉ってのは対等な立場の者どうしだからこそ成り立つ。
ウジ虫と人間が交渉できないのと同じだ。俺たちと交渉したって、魔族側に何の得もない……
クソが! 力関係がおかしすぎるんだ!
「あのぅ、神官さん」
「ええっ!? なんですか!!」
キレ気味に聞き返すと、ルイは恐る恐ると言った感じで尋ねる。
「まだ来てない?」
「……え?」
なにを、言っているんだ?
なんだか嫌な予感がする。口が乾き、汗が吹き出る。
ルイはしきりに周囲、そして窓の外を気にしている。
「死んだら教会へ転送されること、リンに話しちゃって。それで……死に際に会いに行くって聞こえた気がしたから」
「……は?」
血の気が引いていくのを感じる。
そして窓の外から聞こえてくる声に、俺はびくりと飛び上がった。
「出てこい!! ルイ! いるんだろ!」
少女の、あるいは声変わり前の少年の声。
俺たちは錆びついた人形のような動きで窓の方を見やる。教会のそばの大樹の上に立っているのは、紛れもなく荒れ地の魔族だった。
見間違いだったら良いのに。俺は一応目を擦ってみる。しかし炎を纏った子供がそうどこにでもいるはずはない……。
俺たちはあわあわとした。
大の大人が揃ってガタガタと震えるさまは滑稽に違いない。だが俺たちはそうせざるを得なかった。
「どどどどどうするんですか!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
頭を抱えてそう繰り返すルイ。
ダメだ、使い物にならん。くそっ、厄介ごとを教会に持ち込みやがって。
結界のお陰か、ひとまずリンが襲ってくる様子はない。しかしそれもいつまでもつか。結界などあてにはならないし、また放火でもされたらたまらん。
俺は窓を開け、声を上げる。
「お、落ち着きなさい。ルイならいます。ここに」
しかし魔族はにべもない。
「誰だお前は!! 話があるのはルイだけだ、早く出せ」
俺だって出してぇよぉ。
だがルイは女神像(大)に抱き着いて動かない。一応引っ張ってみるが、まるで巨大な岩のようだ。
仕方がない……
俺は窓からひょこっと顔を覗かせる。遠目でもリンの怒りの形相が分かる。バックに炎が見えるみたいだ……いや、実際燃えてんだよな……
あの炎がこちらへ向かないようにしなくては。新築を燃やすわけにはいかない……。
「ルイはまだ喋れる状態じゃなくて。な、なにをしに来たのですか?」
「なにしに来たって!?」
リンの纏う炎が一層勢いを増す。天を突くような炎が大樹を焦がす。くそっ、ミスったか?
しかし樹が燃え落ちるより早く火の勢いは弱まり、じわじわ漏れ出るような炎を燻らせながらリンは口を開いた。幾分落ち着いたようだが、冷静とは程遠い。怒りを咀嚼し、吐き出しているようだった。
「ロージャって人間を見に来た。どこだ?」
ひっ……
俺は女神像(大)の影で震えるルイに掴みかかった。
「ロージャのこと馬鹿正直にしゃべったんですか!?」
ルイは口を堅く結び、激しく頷く。
コイツ……
俺は頭を抱える。バカかよテメェはよォ~? 他にもっと言い様があっただろ。アタマ空っぽかよ。俺はスイカの中身を確認するようにルイの頭をコツコツ叩く。
しかし困った。差し出そうにも、ロージャはすでに……いや待て。これはむしろチャンスでは?
俺は頭の中でババッと展開を組み立て、意を決して息を吸い込む。
「――ロージャに会わせることはできません」
「だから、お前には聞いてない!」
噛み付くようなリンの言葉を無視し、俺は続ける。
「ロージャは死にました」
「……え?」
よし、良いぞ。怒りの炎に冷水を浴びせてやった。
俺は内心でほくそ笑みながら、そうとは悟られないよう細心の注意を払って言う。
「ルイの心は壊れています。貴方にルイがなにを言ったのかは知りませんが……そんな状態では貴方を幸せにできないと彼なりに考えて言ったんでしょう」
む?
女神像の影から這い出てきたルイが、俺の神官服の裾を引っ張る。
「な、なに言ってんだ神官さん。俺は壊れてなんか」
潜めた声に焦燥感が混じっている。
俺はへらりと笑った。
もうお前が壊れてるとか壊れてないとかはどうでも良いんだ。ただ、全てを犠牲にしてでも街を――そして自分の身の安全を守りたい。ただそれだけなんだ。
だいたい、俺に喋らせたのはお前だぜ?
さぁ、どう出る? 荒れ地の魔族。
俺は縋ってくるルイから窓の外へと視線を移す。
……いない。
どこだ。荒れ地の魔族はどこへ行った!
帰った? このタイミングで? いいや、ありえない。
俺の確信を裏付けるように、窓の外から轟音と砂煙が上がる。
塀を壊して敷地内に入ってくるつもりか。
いや、それにしては手ぬるい。ヤツが本気を出せば壁も結界も紙のように容易く破れるはず。
ならば、これは――
「やだやだ! 死んだ人間なんて……殺せない人間になんて、どうやって勝てばいいの!」
駄々だ! アイツ駄々こねて暴れてやがる!
ヤバいヤバい!
鎮火すべく窓の外へなんやかんやと言葉を投げるが、焼け石に水とはこのことである。まったく、どいつもこいつも俺の話を聞かない。
ああ……もうダメだ。俺は顔を上げる。目に飛び込むのは額縁の中の文字。
“いのちだいじに”
本当にいい言葉だよ。
俺が従うのは神でも勇者でも、ましてや魔族でもない。
この言葉だ。
「ちょっと、神官さん! どこに!?」
「逃げます。安全な場所に。命あっての物種だ」
するとルイは笑った。壊れたおもちゃのように。
「安全な場所? この街のどこにそんな場所が?」
こいつ……!
ふざけるな。俺の命はお前らのそれとは違う。かけがえのない尊いものなんだッ!
俺は意を決して窓枠を乗り越え、外へと飛び出す。
……飛び出した、よな? いつまで経っても着地しない。むしろ地面がぐんぐん遠くなる。
まさか俺、飛んでる?
俺は遠い地面と少し近付いた空を交互に見て、己の隠された能力に慄く。
お……俺に……こんな力が……!
はい、そんな訳ありません。
全身を包むしっとりした感触。俺は冷静になって横を見る。俺に頬を擦り付けてくるマーガレットちゃんが視界に入る。
マーガレットちゃんの体は花弁のようにしっとりと柔らかい。マーガレットちゃんなら、あの炎から俺を守ってくれるだろうか。
というか、まぁ俺に選択の余地などないのだが。
積み上げたばかりの塀が、まるで積み木のように易々と崩される。
燃え上がる炎を纏った少女がそこにはいた。激しい感情を薪にしながら、ぶつける先を失った炎をただ自分に纏わりつかせている。目から零れる大粒の涙が、零れる側から蒸発していく。
マーガレットちゃんが俺に絡ませた腕とツタに力がこもる。無数のツタが空に伸び、威嚇するように大きく広がる。臨戦態勢だ。
いやだなぁ。戦うのかなぁ。俺を抱いたままで? まぁマーガレットちゃんの腕の中が一番安全説はあるけど、彼女だって魔族だ。ついつい力が入って俺の軟弱な体をプチッ……とかやめてくれよ?
俺は力を込めて体を固くするという無駄な抵抗に勤しむ。
しかしどうやらその必要はなかったようだ。
マーガレットちゃんを前にしたリンの炎が弱まっていく。
「そうか、お前そいつの……」
なんだ? 良く分からない。分からないが、どうやらチャンスだ。俺は頷く。分からない。なにも分からないが、さも全部分かっているみたいな顔で頷く。
リンも何かを察したようだ。
俺がなにも分かっていないのに、一体なにを察したのかまるで分からないが、とにかくなにか察したらしい。
「そうだよな。私とルイだって上手くやれるよな……?」
マーガレットちゃんは相変わらずなにも話さない。植物的無表情だ。
しかしリンの様子にマーガレットちゃんもなにかを感じた様子。伸ばしたツタを窓に突っ込み、暴れるなにかを教会からひっこ抜いてきた。
ああ……ルイだ。
マーガレットちゃんに放り投げられ、弧を描くように飛んでいくルイ。落ちていく。燃え上がる炎を纏った少女の元に。
「ルイ……!」
「熱ッ! 熱い熱いッ!」
種族の壁を越え、身を焦がすような抱擁を交わす二人。
恋の炎はどこまでも激しく燃えて二人を包む……