夜のフェーゲフォイヤーの治安は最悪だ。
日が沈むと街の酒場には明かりが灯り、冒険から帰還した勇者たちがどんちゃん騒ぎを始める。さらに夜が深まると、金が無くなって酒場を追い出される者が出始める。
だが奴らはどんちゃん騒ぎをやめず、店の外でそれを続けるのだ。
俺は勇者が叩き割って回っている壺の破片を踏まないよう注意しながら、酔っ払った勇者たちの小競り合いの現場を迂回し、跋扈する秘密警察の脇をコソコソとすり抜け、店主の制止を振り払って壺屋の壺を割りまくる勇者を横目にズンズン進んでいく。
できるだけ厄介事に近付かないよう巻き込まれないよう慎重に慎重に街を進んでいく。
良いぞ、意外と順調だ。この調子この調子……
「やぁ、神官さんじゃないか!」
うぐっ……
人混みを掻き分け、こちらへ歩いてくるマゾヒストの厄介事が笑顔を浮かべて手を上げる。ハンバートだ。
クソッ、面倒なのに捕まった!
「あの、すみません。今日はちょっと約束が」
「ちょうど良いとこに来た! 見てくれ」
なんだよもう、ホント人の話聞かないな。しかも妙にテンションが高くてウザい。
ハンバートは手提げの中からところどころ赤いシミのついた白い布を取り出し、広げる。見覚えのあるデザインの服に戦慄した。
神官服だ。コイツマジか。男の服なんか盗んでどうするつもりだったんだ……この男の性癖はとどまるところを知らない。ロリから成人男性までイケるとしたら、この男はこの街の住人ほとんどをそのストライクゾーンに収めることになるのではないか。
「良くできているだろう? レプリカだよ」
「……レプリカ?」
俺は改めてハンバートの差し出した神官服を手に取る。
ううむ、凄く似ている。似ているが、よく見れば俺の神官服とは微妙に違うようだ。生地の肌触りとか、あちこちに施された金糸の刺繍の微妙な光り方とか。それは毎日この服を着ている俺にしか分からない程度の微かな差。
とにかく、俺の家から盗んだものではないらしい。俺はひそかに胸を撫で下ろす。
ハンバートは俺の纏った神官服とレプリカとを見比べ、満足げに頷く。
「うんうん、やはりそっくりだ。神官さんも驚いたろう? うちの職人は優秀なんだ」
「なにに使うんです、こんなもの」
するとハンバートはとても良い笑顔を浮かべてハツラツと言った。
「神官プレイだよ。この服を着ると、彼女はとても積極的になるんだ。僕もなんだか新鮮な気分になれるしね」
コイツ本ッ当気持ち悪いな!
どうやら胸を撫で下ろしたのは時期尚早だったらしい。俺は鳥肌の立った腕をさすりながら早々に変態の元から逃げ去る。
っていうかなんで神官服が血塗れなんだよ。アイツの血……じゃないよな。神官服自体に傷はなかったし。
まさか俺の神官服の血の染みまで再現したってのか?
なんでそんなとこ再現するんだ……まるで、まるで“神官”というより俺を模倣したようじゃ――
……いや、やめよう。変なことを考えるのは。
目的地に着いた。
オレンジの光に照らされた酒場。店内に入って辺りを見回すと、先に席に着いていたオリヴィエが俺に手を振った。
「神官様! こっちですよ」
手を上げて挨拶をし、オリヴィエの対面の席に座る。いつもと雰囲気が違うのは酒場という場所のせいか、あるいは彼の服装のせいか。夜ともなれば肌寒い。オリヴィエは薄手の外套を纏っていた。
他の勇者からの誘いだったら絶対に来なかった。でもオリヴィエは別だ。割と長い付き合いだし、カタリナに引き合わせたのも俺で、そのつもりはなかったがリエールがパーティに入ってしまったのも俺のせい。
そしてマーガレットちゃんの種を庭に埋める許可を出したのも……
「神官様、神官様! なにボーっとしてるんです? 飲み物決まりました?」
「あ? ああ、すみません。ええと、じゃあ」
飲み物の注文を済ませ、軽い挨拶と世間話などをする。とはいっても、オリヴィエは頻繁に教会を利用するからそれほど積もった話もない。
料理の注文は先にオリヴィエがやっていてくれたらしい。
しばらくすると飲み物と一緒に大皿に乗った料理が運ばれてきた。
「酒場でもそれですか……」
オリヴィエが苦笑する。それを眺めながら、俺は背の高いグラスに注がれた葡萄ジュースを手に取る。
俺はオリヴィエにニヤリと笑いかけた。
「こういう時は相手の注文と足並みを揃えた方が良いでしょう?」
オリヴィエの掲げた茶に俺の葡萄ジュースを軽くぶつける。
「……で、今日はどうしたんです」
オリヴィエは酒を飲んでワイワイ騒ぎたいタイプでもあるまい。話なら教会でだってできる。
わざわざこんな場所に呼び出したのは、なにか理由があるはずなのだ。
切り出すと、オリヴィエはぐいっと茶を呷り
「僕の何がダメなんでしょう。他の勇者は殺さないのに。……神官様のなにが良いんでしょう」
うっ……俺は逃げるように葡萄ジュースに口をつける。
すぐに分かった。ヤツがマーガレットちゃんの話をしているのが。
やっぱその話か。覚悟はしていたけど……。
コップを机の上に置く。オリヴィエのジトっとした視線から逃げるように厨房の方を見やる。
オリヴィエと同じ、鳶色の髪のウェイトレスがこちらを見ていた。顔は良く見えないが、可愛らしい感じの娘だ。
オリヴィエと一緒にいると、度々こういった視線を感じることがある。オリヴィエの容姿は女装しても全く違和感がない程に整っている。紛れもない美少年だ。女子の視線を集めるのも無理はない。
立ち振る舞いも年齢の割には落ち着いているが少年らしい爽やかさも持ってる。モテないはずがないのだ。
俺は噛んで含めるように、幼い子供を諭すように口を開く。
「逆に聞きます。マーガレットちゃんのどこが良いんですか。彼女は……というか“彼女”と呼んでいいのか。性別すら曖昧ですし、第一あれは人間ではありません。もっと年の近い、普通の女の子を見つけた方が良い」
「僕に諦めさせようとしてます?」
「なにを言ってるんです」
オリヴィエは机に腕を置き、体を前のめりにする。
「神官さんはマーガレットちゃんのことどう思ってるんですか?」
「どうって……庭に生えた魔族としか」
「それにしては仲が良いじゃないですか。抱きしめられても嫌がってないみたいだし」
「嫌がっても無駄だからです。学習性無力感ってやつです」
「ふうん……なら、リエールのことはどう思ってます?」
ひっ……
その名前に、俺の胸腔で心臓が飛び跳ねる。
なぜパステルイカれ女が出てくるのだ……
口を開けないでいると、オリヴィエは持ち前の美貌に天使のような笑みを浮かべた。
「神官様には感謝しています。良き友人だとも思っています」
そう言ってずいっと顔を近付ける。天使だなんてとんでもない。その目はブラックホールのように黒く、渦を巻いている。直視すると吸い込まれそうだ。
「僕の大事な仲間と神官様が結ばれてくれれば、こんなに嬉しい事はないのに」
ひとりでに体が震えだす。ガタガタと奥歯が鳴り響く。
こいつ、リエールになにか吹き込まれたのか?
恐怖のあまり席を立とうとする俺の腕をオリヴィエが掴む。
「まぁ待ってください。メインディッシュがまだですよ。ここの料理は絶品です。僕のおごりですから、ぜひ食べていってください」
「いや、私は……」
「お待たせしました」
俺の言葉をウエイトレスの声が遮る。
さっきの鳶色の髪のウエイトレスが、白く細い腕でテーブルに料理を並べる。
真っ白な皿に乗っているのは、完璧な楕円形をしたオムライス。なんの変哲もないただのオムライスだ。
しかしその黄色い楕円をキャンバスにケチャップで書かれたメッセージに思考が停止する。
『あいしてる』
「うっ……」
咄嗟に口元を押さえる。
俺の脳裏に浮かぶ、食事時に相応しくない記憶。
酒場のオレンジの光に照らされて妙に赤く見えるケチャップのせいか。あるいはオリヴィエが変なことを口にしたせいか。
以前目にした、リエールの体にナイフで刻まれたメッセージと目の前のオムライスとが重なって見える。
クソッ。俺は嫌なイメージを振り払おうと頭を振る。
第一、このメッセージはオリヴィエに向けられたものだろう。俺は無理矢理に笑みを浮かべ、顔を上げる。
「熱いラブコールですね、オリヴィ……エ……」
息が止まる。
パステルカラーだ。
なぜ? 理解が追いつかない。
俺の顔を覗き込むウエイトレスのパステルカラーの瞳をぼんやり眺めることしかできない。
ウエイトレスの口元が裂けるように開く。彼女はその鳶色の髪をずるりと“外し”た。
「召し上がれ、ユリウス」
パステルカラーの髪を煌めかせながら、ウエイトレスの衣装を纏ったリエールがにっこり笑う。
「ひぃっ……ど、どうして!」
俺は咄嗟にオリヴィエに助けを求める。
……コイツ、笑ってやがる。
くそっ、ハメられた! オリヴィエめ、お前も共犯者か!
「オリヴィエ……!」
「おっと。ごめん、そろそろ時間みたい。これからバイトなんだ」
ベルの音を響かせながら酒場に入ってきた男がオリヴィエの前で足を止める。
見え覚えのある男だった。……ハンバートのとこの従者だ。
「オリヴィア様、迎えに上がりました」
男に促され、オリヴィエはゆっくりと席を立った。
そしてオリヴィエは天使のような微笑みを浮かべながら俺を見下ろす。
「名残惜しいですが、あとはお二人で」
そう言って、オリヴィエは纏っていた外套を脱ぐ。
俺は目を見張った。
……ワンピースだ。レースがふんだんに使われた、子供が着るような可愛らしいワンピース。
ヤツは恥ずかしがるような素振りも見せず、リエールから手渡された鳶色の長い髪のカツラを被る。
「まさかバイトって」
俺は戦慄を覚えた。
これからハンバートのところへ行く気だ。確かに割のいいバイトには違いない。ヤツを刺し殺すだけで纏まった金が手に入るのだろう。マーガレットちゃんに殺されまくっているオリヴィエが蘇生費を滞納しない理由が今分かった。
問題はハンバートの持っていた衣装とヤツの言葉だ。
『神官プレイだよ。この服を着ると、彼女はとても積極的になるんだ』
オリヴィエはこれから神官服を着たハンバートを刺し殺しに行くのだろうか。
……もしかして俺、オリヴィエの中で恋敵ポジションなの? スゲー憎まれてんの?
い、いや。ヤツの言う“彼女”がオリヴィエと決まったわけじゃない。決まったわけじゃないが……
俺は真っ白になった頭で、どうにかこうにかぼんやりと思考を巡らせる。
困ったものだ。味方はなかなか増えず、敵ばかりが増えていく。
「はい、ユリウス。あーんして?」
とりあえず今は、俺の腰にガッチリ腕をまわしてスプーンを口に運ぼうとしてくるパステルイカれ女からどう逃げ切るかを考える必要がありそうだ……