雨がしとしとと降り続いている。
こんな日は冒険に出る勇者も少なく、教会も少しだけ静寂を取り戻す。
屋内にいるときの雨は大好きだ。屋根の下にいるというだけで優越感に浸れる。
俺は女神像で素振りをしながら雨音に耳を澄ませる。
「……ん?」
なんだ? 雨音に紛れて変な音が聞こえてくる。
ひたり、ひたり。
裸足の足音にも似ているが……
ま、まさかまたパステルイカれ女じゃないだろうな。アイツ最近殺しすぎだぞ。
俺は慌てて辺りを見回す。
……特に異常はない。
俺はゆっくりと息を吐く。そもそもヤツが足音を立てるなんて初歩的なミスをするはずない。来るなら音もなく、さもそこにいるのが当然のように、だ……
うう、怖くなってきた。ダメだ。神経質になってるな。落ち着け。ノイローゼになったって仕方がない。
俺は窓をあけて深呼吸しようとしてできなかった。
「がッ!?」
な、なんだ!? 息ができない。目もあけられない。
いやにヒンヤリしたなにかが……なにかが顔に張り付いてる!
「もがっ……」
隙間がない。空気を取り込めない。このままじゃ窒息だ。
くそがっ……なんなんだよこれ。雨だからって、なんで陸で溺れなきゃならないんだ!
こ、こんなとこで死んでたまるか!
「神官さん! 神官さん!」
はっ。この声!
刹那、急に視界が開ける。一瞬遅れて教会の扉が開き、黒ずくめの無能共が押し寄せた。
「神官さーん! こっ、ここにプラチナスライムきませんでした!?」
「プ……プラ……?」
そ、そんな場合じゃない!
俺は肩で息をしながら、消費した酸素を必死になって取り込む。
し、死ぬとこだった。……いや、まだ危機は去っていない。
例の冷たいヤツ、アイツはどこかへ行ったわけじゃない。俺の神官服の下……首周りにマフラーのごとく引っ付いてやがる。
この際無能どもでも何でもいい。俺は助けを求めてヤツらに手を伸ばす。
「あっ、あのっ……ちょ、ちょっと服の下に……ぃッ……!?」
ぐっ、首が! 締まる!
「あぁ、プラチナスライムってのは銀色したスライムなんですけど。そいつが滅茶苦茶素早くて」
「すぐに逃げるし攻撃もなかなか当てられないんですけど、そいつと戦闘して勝てば勇者として一皮剥けるって言われてるんですよ! あれを倒せば、俺たちきっとアイギスさんに近付けるんです」
プラチナスライムくらい知ってるわ!
……待てよ、この首のヤツ。まさか。
「そいつと追いかけっこしてたんですけど。どうもこの辺で見失っちゃって。神官さん知りませんか?」
スライムがジワリと首を絞める。
どう答えるべきか、分かっているんだろう? とでも言いたげに。
「しっ……知りません」
俺は上ずった声で答える。下手なことを言えば殺される……。
勇者達にとってプラチナスライムなど速いだけでそう強力な魔物ではない。だが俺のような一般人には十分すぎるほどの脅威だ!
「ほら言ったじゃん。教会に魔物が逃げ込むはずねぇって」
そうだ。本来魔物は教会には入れないはず。結界を張っているからな。
だがどういう原理か。結界は魔物が強ければ強いほど強力に作用する。スライムのような弱い魔物には忌避剤くらいにしかならないらしい。じゃあ強い魔物なら完璧に守ってくれるかというとそうでもない。強い魔物なら結界を仕込んでいる塀ごと物理的にぶち壊せば良いだけだからな。
なにが女神の加護だ。痒い所に手が届かない仕様。本当に使えないぜ。
そもそもなぜ街中に魔物がいる? 普通のスライムならともかく、プラチナスライムなどその辺にゴロゴロいる魔物でもないのに。
「どっかに隠れてるかもしれねぇだろ。神官さん、ちょっと探させてください」
クソッ、無能共め。首元だよ。俺の首元に隠れてんだよ!
俺は視線を自分の首元に向けてアピールするが、ヤツらは全く気付かない。カーペットの下だの、本棚の中だのを調べている。
クソ共が……秘密警察が聞いて呆れる。捜査もまともにできないのかよ。テメーらの眼は節穴か?
「お、おい!」
ぐっ!?
……大きな音を立てるんじゃねぇ。スライムがびっくりして俺の首を絞めるだろうが。
俺はドタドタと乱暴に飛び込んできたグラムを睨む。
だがグラムは俺の様子を気にする素振りも見せず、血走った眼で教会内をギョロギョロ見回す。
「俺の! 俺のプラチナスライムはどこだ!」
「……“俺の”?」
「俺のだよ! せっかく生きて捕まえたのに、逃げられちまったんだ。クソッ……あいつのせいで」
グラムは吐き捨てるように言いながら、手に持ったカゴを床に叩きつける。
「良いか!? アレは俺のもんだ。見つけたらすぐ俺に手渡せ!」
チンピラ然とした、周囲を威圧するような言動に秘密警察達が気圧されるのが分かった。
だが秘密警察たちも負けてはいない。数では秘密警察の方に利がある。
「ふ、ふざけんな。街中に魔物を連れ込むなんてルール違反だ!」
「そうだそうだ。へへっ、魔物は退治しねぇと」
「あ゛ぁ゛!? じゃあ金払えよ! 俺がどんな思いして捕まえたと思ってんだよ」
コイツ……壺カジノで借金したな。プラチナスライムを勇者に売りつける気だったのか。このクズめ。
睨み合う秘密警察とチンピラ。一触即発といった雰囲気である。
だがこの争いに意味など無い。なぜならプラチナスライムは俺の手の中……というか服の中にいるからな……どっちでも良いから早くコイツどうにかしてくれよ……
「神官さーん! スライム見ませんでした!?」
ぐうっ!?
な、なぜだ。スライムが今までで一番力強く俺を締め上げる。
俺は呻き声を上げそうになるのをなんとか堪えながら、目線だけで扉を見る。
……カタリナだ。
「あっ、死にたがり! こっち来るんじゃねぇよ」
「そんなぁ。私どうしてもプラチナスライムが欲しいんです」
どうしたというんだ。スライムが俺の首でガチガチと震えている。
秘密警察やグラムが来た時には見せなかった反応だ。
カタリナは虫も殺さないような柔らかい笑みを浮かべて言う。
「プラチナスライム、ぜひ一度食べてみたかったんですよぉ」
なっ!?
こ、こいつこの水銀みたいな体した魔物を食う気なのか!?
とても信じられない。正気か?
秘密警察とグラムもドン引きしている。
「さ、さっきも言ったろ。あんなもん食えねえよ。っていうかお前のせいで逃がしたんだろうが! もうお前こっちくんな」
「さっきは興奮してつい……プラチナスライムの生け捕りなんてそうそうお目に掛かれないですもん。スライムって殺しちゃうと溶けてすぐ消えちゃうんですよ。生きたまま釜茹でにすればきっとおいしく食べられます。皆さんにも分けますからぁ」
マジか……本気だコイツ……
緊張とカタリナの狂気に当てられて汗が止まらない。
……ん? 汗、じゃない?
俺は首元にそっと手を当てる。ぬるっとした感触。
手を見ると、銀色の液がべっとりと付いていた。これは……スライムの血?
「あぁ……」
なるほどな。俺は察した。
プラチナスライムなんて素早い魔物、ただ倒すのだって大変だ。プラチナスライムを倒せば勇者として一皮むけるというのは、コイツを逃がさず倒すのにはそれだけの技量と工夫が必要になるということだ。
そんなのをグラムごときが生け捕りにできた理由。それはこのプラチナスライムが手負いだったからに他ならない。
心配することはなかった。なんのことはない。コイツはこのまま放っておいてもじきに力尽きる。
俺はふっ、と息を漏らす。
「……ここにプラチナスライムは入ってきていませんよ。中を探しても良いですが、散らかさないでくださいね」
「も、もちろんですけど。神官さん、どこ行くんです?」
「ちょっと散歩です」
俺は勇者たちに言い残し、雨の降りしきる外へと出かける。
「――勘違いするなよ。これはお前じゃなくて人類のためなんだぜ」
手負いのプラチナスライムなどと戦ったところで経験など積めはしないし、街中でドンパチやられても困る。カタリナに料理させたところで食中毒患者が大勢出るだけだ。
だからこいつは治療して野に返すことにした。
そうすればいつか勇者たちと自然な形でエンカウントし、彼らの糧となるだろう。
「ほら、行けよ」
一応傷は塞いだ。スライムの治療などしたことがないから、どの程度元気になったかは分からない。だがとりあえず動けるまでには回復できたようだ。
街の外の草原に降り立ったスライムは一瞬だけ立ち止まり、こちらを振り向くような仕草をする。
……いや、実際にこちらを向いたかは分からない。ヤツらに目はない。ただの生理反応だったのかもしれない。
だがなんとなくこちらを見たように感じたのは、俺自身をあのスライムに重ねてしまっていたからなのかもしれない。
「見ろ、プラチナスライムだ!!」
「うへへ、待てやコラァ!」
「ぶっ殺してやる!!」
瞬く間に勇者が集まり、大群となってプラチナスライムを追い駆けていく。
スライムは勇者たちの間を縫うようにし、凄まじい速度で逃げていく。
……生きている場所も種族も違うけど、勇者に振り回されているという点では近いものを感じる。
お前も頑張れよ。俺も頑張るからさ。
俺は遠くなっていくスライムと勇者の群れを眺めながら小さく笑う。
姿が完全に見えなくなると、俺は空を見上げて傘を畳んだ。
雨はいつの間にか止んでいた。