見上げた空には雲一つなく、澄んだ冷たい空気が眠気の残った頭をクリアにしてくれる。
旅立ちにピッタリの日だ。
重いカバンを背負いなおし、俺は改めて集まった勇者たちへ視線を向ける。
「本当に行ってしまうんですね……」
見送りに来てくれたカタリナがしみじみ呟く。
俺は笑顔で頭を振った。
「そんな顔しないでください。ちょっと休暇を取るだけですから」
「神官様の方が寂しくなっちゃうんじゃないですか。実家なんか楽しいのは数日ですよ。退屈で、早く帰ってきたくなっちゃうかも」
オリヴィエの言葉に、俺は思わず笑みを漏らす。
「ふふ……そうかもしれませんね。とはいえ、想定外のトラブルが起きないとも限りません。私が留守の間はあまり無茶をしないように。アイギス、貴方がいれば大丈夫だとは思いますが」
秘密警察を従えたアイギスが、ゆっくり顔を上げる。なんて覇気のない顔してるんだ。
「ここで神官さんの帰りを待っていますから……どうかご無事で……」
郷里までの護衛を断ってからずっとこんな感じだ。
俺だってアイギスについてきてもらえれば安心ではあるが、俺の帰省にそこまでの迷惑はかけられない。
「それじゃあ行ってきます。街のことは頼みました」
勇者たちの声を受けながら、俺は馬車に乗り込む。
フェーゲフォイアーに物資を運んできた荷馬車が王都に戻るため、それに乗せてもらえることになった。馬車の中はフェーゲフォイアー産の魔物の革やら怪しげな干物やらでいっぱいだ。
俺はなんとか座る場所を確保し、出発の準備ができたことを伝える。
「長旅になりますからね。お二人とも、狭いですが楽な姿勢を取ってください」
御者のおっさんの気さくな言葉に引っかかりを覚え、俺はあたりを見回す。荷物だらけとはいえ、すぐ見渡せる程度の狭い空間だ。他に乗客がいない事はすぐに分かる。
「この馬車には私しか乗っていないようですが」
「ん? あれ、見間違いかな。これは失礼」
馬車が揺れ始める。
俺は窓から身を乗り出し、小さくなっていく街を眺めた。
確かにここでの生活は刺激的で飽きるということはない。
もしかしたら、多少は寂しいなんて感情が湧くこともあるのかもな。
*****
全ッ然寂しくね~!!
実家って天国だわ。本当帰りたくない。やっぱもう一日休暇延長するか……
事前に作ったスケジュールなど生理的欲求の前では悲しいほどに薄く軽い。
気になるとすればマッドに着けられた首輪だが……まぁ死にはしないってアイツも言ってたし大丈夫でしょ……
睡魔に導かれるがまま頭の先まで毛布を引き上げると、視界がバッと明るくなった。
あたりを見回す。俺を優しく包んでいた毛布がどこにもない。枕もない、ベッドもない、机もない、なんなら壁も床も天井もない。真っ白な不思議空間。
言いようのない不安に襲われ、頭から血の気が引いていく。これはヤバいかもしれない……
俺はとっさに首をガードすべく上げかけた腕を蹴り下ろされた。
「なっ!?」
刹那、肩に感じる重み。
上からだと!? こ、こいつ重力を無視して……!?
細い脚が素早く首に巻き付き、ギチギチと締め上げる。
頭上から甲高い、しかし低いトーンの声が降ってきた。
『私に無断で休暇だなんて……いい度胸していますね……』
ロリである。
しかし振り返ってその顔を見る度胸が俺にはなかった。その声に神が本来持っているとされる慈悲なんてものが微塵も感じられなかったから。
しかし俺にだって言い分がある。締められて狭くなった気道から、なんとか言葉を絞り出す。
「ちゃ……ちゃんと教会は別の神官に任せました。仕事を投げ出して帰ったわけではありません。魔族だって殺したじゃないですか! これくらいの休暇を貰ってもバチは当たらないのでは!?」
『そう思って大目に見てましたよ最初は。でも長すぎです。当初貴方が立てた計画と違うじゃないですか』
まぁね。ズルズルと帰る日を先延ばしにしちゃったのは否定できない。実家って沼だね。
死角から叩きつけられた正論に俺は成すすべを持たなかった。
話を変えよう。俺にできるのはそれだけだった。
「そ、そうだ。最近街の周辺で魔物の活動が活発になっていて……参考までに神話の時代の、勇者と魔王との戦いについて教えてください」
俺は急遽作ったシリアスな表情を顔に貼り付け、同じくシリアスなトーンで尋ねる。
しかしロリの返答は笑っちゃうぐらい間の抜けたものであった。
『は? 魔王? なんですかそれ』
予想外の反応に俺は思わず言い淀む。
「えっ。神話の時代の戦いで……魔物との戦争に勝ったんですよね。そう聞いてるんですが」
『あぁ……なんかありましたねそんなこと』
ロリが苦い声を上げる。
人類が魔物を退けた栄光の歴史のはずなのだが、ロリからすれば満足行く戦いではなかったらしい。吐き捨てるように言う。
『あんな異教徒の絞りカスと戦って負けるなんてあり得ません。あんなに苦戦していたのが情けないくらいです。もしあんなのに負けてたら……』
緩んでいた絞め技がまた激しさを増す。
俺はロリの脚をタップしてギブアップを宣言するが、一向に攻撃は止む気配を見せない。そしてこの空間は敗者を保護するレフェリーがいないという致命的な欠陥を抱えている。
「関係ない! それに関しては私関係ないじゃありませんか!」
俺は首をねじってロリを見上げ、密室での理不尽なパワハラに対し声を大にして抗議する。
が、目に入ったそのあどけない顔に俺は思わず呟いた。
「ま……眉毛……?」
油性ペンで塗りつぶされたようなカモメ型の眉毛がロリの小さな額を埋めていた。
なんのつもりだ……?
しかし深く考える暇も容赦もなく、細い脚が俺の首を締め上げ、意識が真っ白に塗り潰されていく。頭の中に甲高い声だけが響いた。
『走れ! 走って帰れ!』
*****
「うわぁっ!?」
俺は被っていた毛布を蹴り上げて飛び起きた。
ひ、酷い夢を見た。寝汗でパジャマがぐっしょり濡れている。
こんな首輪着けてるから変な夢見るんだ。俺は忌々しい首輪を指でなぞる。ん? また傷が増えてる気がする。寝ぼけて掻き毟ってんのかな。
まぁいつまでもズルズル休暇を伸ばすわけにはいかない……
俺は渋々荷造りに着手する。休暇を迎えるときの荷造りは楽しいのに、帰るときの荷造りの気が重いこと重いこと。
持ってきたは良いが、結局これも重いだけで大した役には立たなかったな。甥っ子がオモチャにしていたが……ん?
「ああ……そういえば……」
俺は女神像(小)を手に取る。
甥っ子の手により前衛芸術的デコレーションを受けた女神の顔には、カモメを思わせる眉毛が描かれていた。
*****
ハイ、帰ってきました。
今冬はまだ積雪がないため問題なく馬車も動いている。そのため、王都でたまたま見つけたフェーゲフォイアー武器防具連合会の素材を運ぶ荷馬車に乗って街へ帰ることができた。
まぁここまでは順調だったのだが……
俺は馬車の積荷の木箱の中から外の様子を窺う。街に入る直前で木箱の中に飛び込んだのだ。なんか嫌な予感がしたから。
街に入るなり、その予感はますます強くなった。
「静かだ……」
街が綺麗すぎる。喧騒の声も聞こえなければ、血溜まりの一つも見当たらない。
俺は冷たく硬い木箱の中で震える。脳裏に最悪のパターンがよぎる。
まさか教会での蘇生が追い付かず、勇者の死体が教会で山になっているのでは。生きて歩いてる勇者の絶対数が減ってるから街が静かなのでは。
やっぱこのまま実家帰ろうかな……
というわけにもいかないので、俺は渋々馬車を降り教会へ歩いていく。全然勇者とすれ違わないのが不穏だ。マジで帰りたい。
しかしこういう時ほどスムーズに目的地へたどり着くものだ。
恐る恐る扉を開け、中の様子を窺う。
んん? 意外と片付いてるな。そんなにカーペットも汚れてないし、転がってる死体は一体だけ……いや、あれルッツか。
「遅い遅い遅い遅い遅い! なにしてんのマジで!」
死体が飛び起き、俺の服を引っ掴んで揺する。
指は……なんだ、折れてねぇじゃん。そう言えばマッドの指定したタイムリミットをとうに過ぎてしまっているが、俺の首輪も特に異常ない。やはりただの脅しだったか。
俺は落胆を悟られないよう細心の注意を払いながらルッツに謝罪する。
「ごめんごめん、盗賊に襲われたり橋が落ちた川を泳いで渡ったりしてたら時間かかっちった」
「すぐバレる嘘吐くな!」
ルッツが崩れ落ちるように長椅子に腰掛ける。随分お疲れの様子。頭を抱えて唸るような声を上げる。
「ユリウスいない間、大変だったんだぞ。先生は……連行されちゃうし……」
「連行? なんでまた……お、おい。ルッツ?」
ルッツが自分の薄汚れた神官服の袖に顔を埋め、肩を震わせている。
「みんな……みんな連れてかれちまった……俺を残して……」
ルッツの異様な様子に、俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。
背中に寒いものを感じる。こめかみの辺りを汗が伝う。
俺がいない間になにが起きた? この街で一体なにが起きているというんだ……?