『行くのですね』
無機質な白い空間。やや離れたところから俺を見下ろすのは、女神を自称するロリである。
俺はさりげなく首をガードするが、どうやら今日は説教をされるのではないらしい。
『方法は気に入りませんが、大きな進歩です。ここまで来るのに一体どれだけの時間がかかったか。いや……貴方たちにとってはこれでも早すぎるのかもしれない』
あどけない声に落ち着いた口調。その真意まではうかがい知れない。
ロリは昆虫の観察でもするような目でジッとこちらを見下ろした。
『この選択が間違いでないことを願います』
*****
「神官さん! 神官さーん!」
激しいノックの音に叩き起こされベッドから這い出た俺を出迎えたのは、元星持ち勇者二人……いや、二人と一匹だった。
玄関に突っ立ったユライが俺の顔を見るなりギョッとする。
「うわっ……酷い顔してるな。なにかあった?」
「縁起でもない夢を見ました。それよりなんですかこんな時間に。貴方たちも作戦参加するんでしょう?」
姫救出作戦の決行がとうとう明日に迫っていた。
フェーゲフォイアーすべての勇者が作戦に参加するわけではないが、元星持ちのコイツらは当然参加するはず。さっさと寝て明日に備えるべきだ。しかしそうできない理由があるらしい。ユライがルイの抱えたキツネぬいぐるみを指して言う。
「突然で悪いんだが……俺らが遠征行く間、ロージャを預かってくれないか」
シンプルに嫌だ……
月光に照らされたぬいぐるみを前に、自ずと口がへの字に曲がるのを感じる。うちは教会だが人形供養はやってないぞ。
「ほら、ルイもちゃんと頭下げて」
俺が文句を言うより早く、沈んだ表情をしたルイの背中をユライが押した。落ち着かないようにロージャのふわふわの毛並みを撫でまわしながらルイが口を開く。
「……ロージャはすごく繊細なんだ。ちょっとワガママだけど、できれば優しくしてやってほしい。それで、世話の方法なんだけど」
ぬいぐるみの世話?
俺が首を傾げていると、ルイが巾着を取り出した。なにやら色々入っている。
「毛が伸びるから少なくとも週に一回はカットして整えてあげてくれ。ハサミとクシはこの中に入れてある。あ、それからちゃんと風呂にも入れて。ロージャはキレイ好きなんだ。水じゃダメ。熱すぎてもダメ。石鹸はお気に入りのヤツがあるんだ。バラの香り。持ってきたから、これ以外は使わないでくれ。洗い方も丁寧に頼む。乱暴にしたらダメだ。ロージャはデリケートだからな。ぬるま湯できちんと泡立てて、こう撫でるように――」
口を挟む余地のないマシンガントークの最中、ルイが急にハッとした表情を浮かべて口を閉ざした。じろりと俺を睨む。
「今エロいことを考えたな」
「考えてません」
俺は即答した。心からの言葉だった。
しかし俺の言葉は妄執に囚われた狂人には届かなかったようだ。
ロージャを俺から隠すように半身を捻り、ルイは子供のように喚く。
「ダメだダメだ! ロージャを他の男に預けるなんて。なにをするか分からない」
「なに言ってんだよ。神官さんなら大丈夫だって」
ユライが慌てたようにルイの説得に当たるが、当人は頑として首を縦に振らない。
「いいや、聖職者ほど危ないんだこういうのは」
毛皮を被った肉塊に一体なにができるって言うんだ?
まぁそれはそうと、俺だって勝手に毛が伸びる呪いのぬいぐるみの預かりなど願い下げである。
俺はニッコリ笑った。
「そうですね。素晴らしい毛並みですから、思わず撫でまわしたくなるかもしれないです。血で汚れた手を拭うのにも丁度良さそうだし、窓も拭けそうですし」
「ほら見ろ、やっぱダメだ!!」
キツネのぬいぐるみを抱きしめ、ルイが激しくかぶりを振る。
ルイを落ち着かせながらユライが耳打ちをする。
「ごめんってば。そんな意地悪言わないでよ神官さん。面倒なのは分かるけど、他に頼れるところもないんだ。頼むよ。ルイは色々言うけど、そこまでやんなくて良い。適当に話合わせてくれれば良いから」
さすが狂人の扱いに慣れてやがるな。
ユライが続ける。
「金なら払うよ。ロージャをどうにかしないとルイはきっと救出作戦に参加できない。だからといって連れていくわけにもいかないし」
その申し出に、俺は首を横に振る。
ここはペットホテルじゃない。教会だ。勇者のサポートが務め。チッ、仕方ねぇな。
俺は頭を掻きながら言った。
「……今回の作戦、私はなんの力にもなれません。荒地を通れるのは行きと帰りの一度ずつだけ。いつものように蘇生後戦線に戻るという手は使えない。なので、まぁこれくらいの手助けはしましょう。今回だけですよ」
「良かった。恩に着るよ!」
「嫌だァ! ロージャ!!」
ユライはまだ喚いているルイの手から強引にロージャを取り上げ、俺に押し付ける。そしてルイを引きずるようにしながら言った。
「大丈夫だって。神官さんにロージャは毛深すぎる」
*****
呪いのぬいぐるみを手に入れた!
さて、また変な同居人が増えてしまったな……
まぁ勝手に毛が伸びてたまに呻くことに目を瞑ればただの可愛いインテリアだ。とはいえさすがに枕元に置くのは怖いな。祭壇にでも置いとくか。
ずっしり重くて生温かいキツネぬいぐるみの位置を調節していると、背後からドチャッと湿っぽい音が響いた。恐る恐る振り返る。俺は頭を抱えた。オリヴィエだ。
……なんだってこんな深夜に死んでいるんだ。いや、愚問だったな。そんなの決まってる。俺はそっと裏口から庭を覗く。マーガレットちゃんは蕾にこもってスヤスヤ寝ているようだが、ツタがしっかり血に濡れていた。
「マーガレットちゃんに挨拶を、と思ったんです。しばらく会えなくなるでしょうから」
蘇生ほやほやオリヴィエが血に濡れた手で頭を掻きながらはにかむ。
「はぁ……それにしたって、よりによってなぜこんな夜に」
「昼間だとお別れ言う暇もなく死ぬので」
は? 寝込みを襲ったところですぐ死ぬだろ。たった数秒の寿命延長のために俺の睡眠時間を削るな。
俺は眠さも相まって普通にキレそうになったが、強靭な精神力でなんとか思い直した。
オリヴィエもまた明日の遠征に参加する勇者の一人だ。しばらく街を離れることになるだろうし、多少のワガママは許してやるか……
アンガーコントロールに励んでいると、背後からドチャッと湿っぽい音が響いた。恐る恐る振り返る。俺は頭を抱えた。カタリナだ。
外傷はないが体色が真緑になったカタリナを蘇生させると、ヤツは変な色の干し肉片手に首を傾げた。
「遠征のため保存食を貯めてたんですけど、こんなに持っていけないってオリヴィエが言うので仕方なく消費してたんです。で、気付いたらここにいました。なんでですかね?」
なんでですかね? じゃねぇよ。答えはテメェの手の中にあるだろ。いい加減にしろ。
オリヴィエもここぞとばかりに常識人ぶってカタリナに困り顔を向ける。
「頼むから遠征中に変なもの食べないでよ。棺桶引きずって何日も歩くの嫌だからね。とりあえずそれ捨てなよ」
「うーん……もったいないなぁ……」
この期に及んで手の中の毒物にまだ未練があるらしい。カタリナは考え込んだ挙句、なにを思ったか俺に肉塊を差し出した。
「神官さん食べますか?」
「それは私に死ねって言ってます?」
「冗談ですよぉ」
なにヘラヘラしてやがる。お前らこんなことしてる場合じゃないだろ。こうしている間にも俺の睡眠時間はゴリゴリ削れている。俺は白目を剥きそうになるのを堪えて言った。
「出発は明日でしょう。心の準備も大事ですが、明日に備えて寝た方が良いですよ絶対」
「あー……そうですよね。分かってはいるんですけど、そわそわして眠れなくって。ね?」
カタリナがそう言って苦笑する。同意を求められたオリヴィエもまた似たような表情を浮かべた。
「いつもの戦法は通用しない戦いになるでしょうし、アリア姫の命もかかっています。緊張するなという方が無理ですよ」
まぁ、言われてみれば当然か。特にカタリナは魔王殺しと名高い杖を持っている。かけられる期待と圧し掛かるプレッシャーは決して少なくない。だからと言って夜中に死んで良い理由にはならないが……
俺は努めて明るい声で二人に言った。
「貴方たちならきっと大丈夫です。細心の注意を払って全力で戦って、もしダメなら一緒に別の手を考えましょう。転んでも何度だって立ち上がれるのが貴方たちの良いところじゃないですか」
だから早く帰って俺を寝かせろ。
「なるほど……そうですよね。いつも通り頑張ります!」
単純なカタリナが俺の言葉に明るい声で返事をする。
いや、お前はいつも通りじゃダメなんだけどな……頼むから火山越え前に死ぬのだけはやめてくれよ……
ん? なんか視線を感じる。振り返ると、肩越しに呪いのぬいぐるみと目が合った。
「うっ……」
思わず顔を顰める。
やはり呪いのぬいぐるみなんて預かるんじゃなかったか。
祭壇に置いたはずのぬいぐるみが床に座っている。まぁ呪いのぬいぐるみなんだから多少動くくらいのことは不思議じゃない。しかし血の涙なんか流されるとさすがの俺もギョッとするよね。
俺はぬいぐるみを両手でそっと抱え上げる。うわっ、なんかちょっと震えてるな。おいおい、お前一人で肩震わせながらめそめそ泣くような女だったか? それとも案外、ルイたちと離れるのが寂しいのか。いや、それはないか……
「あ、神官様それ」
オリヴィエがぬいぐるみを見て声を上げる。俺は頷いた。
「ええ、ロージャです。ルイたちに預かりを頼まれまして――」
言いながらふと気付いた。
ロージャの瞳の色が左右で違う。
左目はキツネを思わせるアンバーだが、血の涙を流している右目の方はもう少し赤味がかっているというか。涙のせいで充血してる? いや、充血するのは白目だけで虹彩の色までは変わらないはず。どうなってんだ? 俺はロージャの瞳に顔を近付け、じいっとそれを観察する。
血の涙を流した目がぎょろりと動いて俺を見た。
「ひっ」
「ユリウス」
すぐそばから俺の名を呼ぶ声がする。瞬間、視界がパステルカラーに染まった。
「来ちゃった」
来ちゃったか……
なんでこんな夜中に教会でパーティ集結するんだお前らは。待ち合わせしてたの?
今回は死んで転送されてきていないだけリエールが一番お行儀が良いのかもしれない。今日は誰も殺してないし、気配ゼロだった以外は変な術も使ってな――
いや。俺は息を呑んだ。
「……………………ものもらいですか」
腕を絡めてしな垂れかかるリエールが、こちらを見上げてパステルカラーの目を細める。とはいっても俺が確認できるのは左目だけだ。右目は眼帯に覆われている。お前は眼帯まで派手だな。真っ赤じゃないか。
俺は違和感から目を逸らそうと必死だった。
しかし逸らしても逸らしても、それは影のように俺を追ってくる。
「しばらく街を離れるけど」
眼から零れたしずくがリエールの頬を濡らし、顎から落ちたそれが俺の神官服の袖に赤い染みを作った。
――血だ。眼帯からにじみ出た血が頬にいくつもの筋を描く。
眼帯に覆われていない左目が俺を捉える。
「離れていても一緒だよ」
俺は手元に視線を落とす。抱えたロージャが震えている。ただ、色の違う右目だけが意思を持ったようにぎょろりと動き俺を捉えた。
すぐそばで、耳元で、吐息を含んだ声がする。
「見てるからね」