なんだか深く眠りたい気分だったが鎮静剤を打たれることはなかった。
白装束に呼ばれて牢を出たメルンが、戻って来るなり肩を落としてこう言ったからだ。
「ごめんパパ、教会に蘇生の依頼がいっぱい来てるんだって。もうちょっとメンタルケアしたいけど、とりあえず戻ってあげて」
願ったり叶ったりだ。
神のために働ける。こんな喜びがあるだろうか。
教会に戻った俺はちょっと見ない間にドッサリ溜まった仕事の山を崩しにかかりながら歓喜の声を上げる。
「労働最高! 労働最高! ゲホォ!」
体を支えきれず、血塗れのカーペットを転がる。
蘇生を終えたばかりのカタリナとオリヴィエがこちらに駆け寄ってきた。
「うわぁ! 神官さんが吐血した!」
「体が拒否してるんだ……」
口元についた血を神官服で拭いながら、俺は静かに首を振る。
「どうも体調が良くない。きっと破門者と関わったからです」
「無理しないでください。顔色が悪いですよ。少し休んだらどうですか?」
「いいえ。私は神から奇跡の力を授かり、勇者たちの聖なる戦いを支援させていただいているのです。この程度でへばるわけにはいきません。奇跡を我々に授けてくださった神に申し訳が立たな……神ッ!!」
俺は堪えがたい衝動に駆られ、ろくに動かない体を引きずるようにカーペットの上を這う。
力を振り絞って顔を上げ、眩しさに目を細めた。窓から差し込む光が女神像(大)の白い肌を眩く輝かせている。俺は光に集まる虫の気持ちをこれほどまでに理解したことはなかった。
「はあぁぁぁっ! 神ィィ! 貴方はどこにいるのですか? 私はこんなにも貴方を求めているのに!」
「落ち着いてください神官さん!」
オリヴィエが神官服の襟を掴み、俺の進行を阻止する。
俺は必死に床を掻くが、今の俺では――いや、万全の時だろうとオリヴィエの腕力に俺はかなわない。これも勇者に与えられし神の加護によるものだ。なんて素晴らしい! なんて素晴らしい! 神の奇跡に心を震わせていると、オリヴィエが毛虫でも踏んだような声を上げた。
「ど、どうしたんですか。すごく気持ち悪いです」
遠巻きに俺たちを眺めていたカタリナがいつになく冷静に呟く。
「オリヴィエもこんな感じのときあるよ。裏庭の植物に会いに行くときとか」
「嘘だ」
「自分の事を客観視するのって難しいね。目は外側に付いてるから」
憐れみを含んだ言葉だった。
それがオリヴィエにどう作用したのかは知る由もないが、とにかく俺の神官服の襟を掴む手が緩んだ。
床を蹴る。女神像(大)に手を伸ばす。差し込む光に目が眩む。誰かが俺の手を取った。酷く冷たい手だった。
神が降臨なされた?
一瞬でもそう考えた俺の脳をミキサーにかけてペースト状にしたい衝動に駆られるほどの酷い勘違いだった。
「神様とはいえ、別の女にそんな顔向けてほしくないな」
一体どんな顔をしていたのか。俺には知る由もない。なぜなら目は外側に付いてるから。外側についた俺の目はしっかりと女神像(大)と俺の間に入り込んだパステルイカれ女の姿を捉えた。
強い光は暗い闇を作り出す。女神像(大)が作り出す影は、窓から差し込む光溜まりを切り取った穴のようだった。異界と見まごう影溜まりの中でイカれ女の目が獣のごとく輝く。ギョロリと動いたパステルカラーの瞳が女神像(大)に向く。
「なんで神様って女なのかな? 女じゃなくても良いよね?」
神の性別のことなどを俺に言われても困る。神は全知全能かもしれないが神官はそうじゃない。世の中には知らないあれこれで溢れている。新しい発見に目を見張ることもしばしばだ。
例えば、俺は今リエールがその手にトンカチを持っていることを発見した。コイツの装備はよく分からない。ナイフだったり、妙に生温かいぬいぐるみだったり、シャベルだったり、鍋でカタリナの頭部を煮ていたこともあったな。だから今更トンカチ程度では驚くに値しないかもしれない。が、それでもやっぱり目の前で鈍器を振り上げられると平静ではいられないものだ。
「嫉妬しちゃうな。でも女の顔がついてなければ平気かも。試してみても良い?」
リエールが足を引き、女神像に体を向けた。
俺はしりもちをつき、声にならない悲鳴を上げる。リエールを止められるだけの力を、フィジカル的にもメンタル的にも持ち合わせてはいない。
が、さすがはパーティメンバーだ。すぐさまカタリナとオリヴィエが駆け寄ってリエールからカナヅチを取り上げた。
「ダメダメダメダメ! モノに当たったらダメ!」
「女神像を壊すなんてバチ当たりにもほどがあるよ。それに今の神官様は錯乱してるだけだ」
しかしリエールは動じなかった。取り上げられたカナヅチに執着する様子はなく、口元に手を当ておかしくて仕方がないとばかりに笑う。
「冗談だよ。本気だったらもうやってる」
「まぁ、だと思ったけど」
「ビックリするからやめてよ~!」
パーティメンバーで輪になって笑ってやがる。なにがおかしいのか。全く分からない。コイツらの笑いのツボは一体どこにあるんだ。
まぁそんなことは大した問題ではない。問題は、わざわざトンカチを持参して女神像の頭部を破壊しようとしたこのイカれ女のイカれた行動である。なんてバチ当たりだ。世の中には許される冗談と許されない冗談がある。
俺は膝の皿を割らん勢いで跪き祈りをささげる。神よ、今こそパステルイカれ女に神罰を!!
しかしなにもおこらなかった。
「神官様、なにしてるんですか?」
オリヴィエの冷ややかな言葉がどこか遠くから聞こえる。
俺は愕然とした。
なぜだ。なぜ俺の祈りが届かない。俺に……俺に信仰心が足りないからか? いいや、いいや。そんなはずは。しかし。俺は髪を掻きむしった。
「もっと神を喜ばせないと。ど、どうすれば……」
はっ。俺は顔を上げる。
唐突に気付いた。むしろなぜ今まで気付かなかった。灯台下暗し。いつだって重要なことはすぐそばに転がっているものだな。
神が最も喜ばれるのは魔族の抹殺である。
俺は舌なめずりした。魔族なら庭にいる……
「うなあああぁぁ!」
「えっ、神官さん!?」
カタリナの呼び掛けを置き去りにし、俺は床を蹴って駆け出した。
マーガレットちゃんに罪はないが、神を喜ばせるためだ。許せマーガレットちゃん! 半ば飛び込むようにして裏口を通り、庭に飛び出した俺はなすすべなくマーガレットちゃんのツタに雁字搦めにされてふわりと浮かび上がる。
「離せぇ!!」
中でめちゃくちゃに暴れようと身をよじるが、マーガレットちゃんのツタは人間の力でどうにかなるものではない。結果、ただ肩を揺らしただけに終わった。己の無力を呪わずにはいられない。
神のため心を新たにした俺の熱い気持ちが魔族には理解できなかったのだろうか。植物的無表情でこちらをジッと見つめ、微かに首を傾げる。そして俺の顎をガッと掴んだ。
「いっ!?」
マーガレットちゃんの植物的無表情が近付く。と思うと、彼女は急にそっぽを向いた。いや、違うな。こちらに耳をそばだてているのだ。なんで? 答えはすぐわかった。
マーガレットちゃんはあいているもう片方の手で俺のこめかみの辺りをコツコツとノックする。まるでスイカの中身を確かめるかの如くだ。それで一体何が分かったのか。
マーガレットちゃんの行動はいつも唐突だ。そして機敏である。とても俺の目には追えない。しかし味覚は案外鋭敏だ。マーガレットちゃんの指が口にぶち込まれたのだと気付くより早く、強烈な甘味が喉を焼いた。胃のキャパを全く考えていない量の蜜が消化管を伝っていく。
俺はカッと目を見開き叫んだ。
「うめぇ!!」
はっ。
……ゆっくりと辺りを見回す。頭の中のあれこれが整理されていく。
“憑き物が落ちたよう”とはこういう時に使う言葉なのだろう。
俺は視線をマーガレットちゃんに移す。この蜜のお陰か? いや、ただ単に時間経過で信仰の実の効果が切れただけかもしれないが。尋ねてもきっと答えてはくれないだろう。彼女は今も植物的無表情のまま観察するようにこちらをジッと見つめている。
足元から声がした。地獄の底から響いてくるような声だった。
「神官さま~? いつまでそうしているつもりで」
呪詛の言葉を吐き終えるのを待たずぽーんと刎ね上がったオリヴィエの首が恨みがましく俺を見ている。
重力に従い落下していくオリヴィエの首を追って視線を動かすと、視界にカラフルなぬいぐるみが映り込んだ。おびただしい数だ。菜の花にたかるアブラムシを彷彿とさせる。マーガレットちゃんはこちらに向かってよじ登ってくるぬいぐるみをツタでたやすく振り払う。そのたびに破裂したぬいぐるみの“中身”が嫌がらせのようにマーガレットちゃんのツタや葉に赤い染みを作った。
「人間じゃないから。大根だから。先端が二股になった大根だから」
地獄の底から響いてくるような声だった。
問題は、足元ではなくすぐ後ろから声が聞こえたことだ。
俺は振り向かなかった。見なくて済むならわざわざ地獄など見たくはなかった。
マーガレットちゃんはそんなこと気にもしていなかった。