なんか上司ができた。
周囲が不穏なこと言っていたのが気になるが、まぁ連行は免れたし教会のめちゃめちゃ偉い人の直属の部下になれたって考えれば結構よくね?
「そうは思わないかねルッツ君」
「そうだろうか……」
埃っぽい屋根裏部屋に設置された簡素な椅子で項垂れるルッツからは辛気臭いオーラが漏れ出ている。
どうやら急な人事異動に落ち込んでいるらしい。俺は首を傾げた。
「王都の本部勤務、しかも大司教の元で働けるなんてハチャメチャな栄転だぞ。なにが気に入らないんだ」
「本部ってギスギスしてそうでさぁ。俺、勝ち負けとか競争とか好きじゃないし……出世とかどうでも良いし……」
さすがボンボン。逆ハングリー精神が凄いな。
ルッツが汚ぇ屋根裏部屋を見回し、なにやらセンチメンタルにため息を吐く。
「ここを離れるのも寂しいよ。短い間だったけど、色んなことがあったな」
「……そうだな」
コイツがこの街に来たときは驚いたし、なぜか街に居ついて大した仕事もせずぶらぶらし始めた時はぶっ殺してやろうかと思ったが、まぁいなくなると思うと多少寂しい感情も湧いてこなくはない。
窓を通し、眼下に広がる通りを見下ろしながらルッツがふっと笑った。
「思い出すなぁ……婆ちゃんやリリーとバーベキューしたり、商店街メンバーと釣り大会したり、アルベリヒと川に飛び込んだり」
俺はルッツの尻を蹴り上げた。
「イタッ!? えっ、なに?」
「全部知らねぇ! お前の楽しい思い出なに一つ知らねぇよ! なに楽しそうに遊んでんだカス」
「ごめんごめん、誘ってほしかった? でもお前忙しそうだしさぁ」
は? 自惚れも大概にしろよ。俺は首を横に振る。
「違うね。全然本質が見えてない。俺は別にお前とバーベキューや釣りや遊泳がしたかったわけじゃない。俺が血塗れで働いている中、お前だけが楽しそうに遊んでいたという事実にクッソ腹立ってる。働かないならせめて俺の見えないところでは暗い部屋の隅で埃でも食いながら死んだように過ごしていてほしかった」
「お前よくそんな性格悪いこと堂々と言えるよな……」
まぁ本人の心情など関係ない。末端の神官が上からの命令に逆らえるはずもないのだ。
俺たちは本部の決定に従って粛々と準備を進めるだけである。
にしても、相変わらずルッツの部屋は汚い。
掃除してないのもそうだが、余計なモノが多すぎるんだ。よく床が抜けないな。ここの街の勇者は基本信用できないが、大工は信用できる。
「ドタドタうるさいね。荷造りはちゃんと進んでるかい?」
床の出入り口が開き、宿屋のババアが怪訝な顔を覗かせた。
もちろん作業などさっきから全く進んでいない。ルッツが頭を掻きながらヘラヘラ笑う。
「いやぁ、なんか感傷的になっちゃって……」
「そんなことだろうと思ったよ。全然片付いてないじゃないか。本当最後の最後まで世話が焼けるよ……ほら」
ババアがその巨体を押し込むようにして小さな出入口から屋根裏へ這い上がってくる。
大きな手に持ったパンの皿を汚ぇ机の上に置く。
「差し入れ。食べたら気合い入れて荷造りするんだよ」
ババア……優しすぎんだろ……
俺は思わず目頭を押さえる。
ババアはルッツの恩人だ。屋根裏を貸し与え、飯を与え、時々アルバイトを任せては小遣いを渡していた。アイツの悠々自適生活の八割はババアのおかげである。言い換えるとババアとルッツを引き合わせた俺のおかげである。
歓声と礼の混じった声を上げながらパンに飛びつくルッツに温かい視線を向ける。
「うるさかったし、全然部屋の掃除しないし、腕力もないし、大して役に立たなかったけど……いなくなると思うと寂しくなるもんだね。アンタが向こうできちんとやれるか心配だよ。なにかあったらいつでも戻っておいで」
「婆ちゃん……」
汚ぇ屋根裏にしんみりした空気が流れる。
ババアが鼻をすすりながらこちらに背を向けた。スイッチを切り替えるように威勢の良い声を上げる。
「ここは埃っぽいね! せめてちゃんと綺麗にしてから返すんだよ。まったく、どうやったらこんなに散らかせるんだい」
言いながら、乱雑に敷かれた埃っぽいカーペットをまくり上げる。
世界だ。世界がそこにはあった。
鮮やかなコロニーを形成する菌類。蠢くのは名も知らぬ小さな多足の生命。独自の進化を遂げた生態系。繰り広げられる食物連鎖。多様な生物たちの織り成すマリアージュ。このカーペット一枚分の小さな世界の中でおびただしい生命が一生懸命に生きている。案外、世界というのはこうやって始まったのかもしれない。
生命の息吹を目の当たりにし、俺は悲鳴を上げた。
「汚ぇ!!」
繁殖してしまったアレコレから視線をそらすようにしながら、ルッツは口をもごもごさせる。
「あの……あれだよ。ビオトープ」
これ敷金戻ってこねぇヤツだな。
しかしルッツはそもそも敷金を払っていない。さぁどうなる?
うちわのようにデカいババアの手がルッツをはっ倒した。壁に叩きつけられたルッツを見下ろし、鬼の形相で言う。
「うちはペット禁止だよ」
*****
ババアのビンタにより重い腰を上げたルッツがようやく清掃を始める気になったようだ。しかしその手にはなぜか箒が二本握られている。
「ユリウス手伝ってくれ~」
俺は押し付けられそうになった箒を断固として受け取らなかった。
「絶対イヤだ。それよりそのカーペット下の新世界をさっさと処理しろよ」
「わかったわかった。でもさ、最初はキモいけど見てるとだんだん面白くなってこない? 神様ってこんな気持ちなのかもな」
んなわけねぇだろ……んなわけないよな?
ルッツがしゃがみ込み、小さな生命の蠢く新世界を見下ろす。
「ほら見ろよ。可愛く見えてきたろ?」
「ふざけんな。そんなもんまじまじ見たくねぇよ。ほら、もう鳥肌が」
……あれ?
俺は新世界をまじまじ眺める。
「どうしたユリウス」
「可愛く見えてきた」
「あ、そう? ……ユリウス? おいユリウス」
ルッツの怪訝な声が頭上から降ってくる。
這いつくばり、頬で床の冷たさを感じながら目をカッ開いて新世界で蠢く生命たちを見つめる。
溢れる慈愛の心が生理的嫌悪を真っ白に塗りつぶしていく。
眼下に広がるおびただしい命の塊から目を離すことは非常に難しかった。
「可愛いなぁ……可愛いなぁ……」
「どうしたユリウス!? なんかおかしいぞ。おいしっかりしろ!」
ルッツの手が伸び、俺の服を掴んで揺する。
なにすんだよ。やめろよ。しかしルッツの手を振りほどく気力すら湧かない。
どこからか声が聞こえた。
『ちゃんと効くのか』
「誰だ!?」
ルッツが弾かれたように立ち上がり、辺りを見回す。
だが部屋の中には誰もいない。いや、誰もいなくはないか。目の前にはカーペット一枚分のわずかな世界に大量の生命たちがそのたくさんの脚を動かし蠢いている。うわめっちゃキモいな。
急に襲い掛かって来た生理的嫌悪に突き動かされ、俺は飛び上がった。
「ヒイッ」
「よ、良かった。正気に戻ったか」
ルッツがこちらを覗き込み、安堵の声を漏らす。
な、なんだったんだ今の。誰かいた? 幻聴か?
……まさか。俺はヤツをジッと見上げる。
「この部屋さ、掃除しなさすぎて変なガスとか出てない?」
「そんなわけないだろ……一応換気しとくか」
そう呟いたルッツの手により、小窓が開け放たれた。長らく閉め切られていたのだろう。金具がさび付いているらしく、ギシギシ音を立てながらぎこちない動きで開いた。
窓から新鮮な空気が流れてくる。瞬間、新世界に潜むルッツの小さなルームメイトたちが一斉に大移動を始めた。
「ギャッ!?」
「ひえっ」
短い悲鳴を上げる俺たちをよそに、多足生物たちが生理的嫌悪を惹起させる独特の動きで床を這い、壁を伝い、窓の外へ出ていく。
退治の必要がなくなったのはありがたい。が、どうして急に今までの住処を捨てて新天地を目指し移動を始めたのか。
嫌な考えが脳裏をよぎる。ひとりでに言葉が口を突いて出た。
「沈む船からネズミは逃げ出す」
翌日、ババアやリリーをはじめとした街のみんなに見送られ、ルッツは馬車で街を発った。
次に会うとき、お互い変わらずにバカ話ができような状態でいられれば良いのだが。