人間の体は脆い。鱗も甲羅も毛皮も持たず、気を抜けば紙切れ一枚で出血する。しかしいずれ血は止まり、肉が盛り上がり、やがては治る。
勇者ならもっと凄い。バラバラに引きちぎられても、すり潰されても、炎に焼かれて灰になっても、腐り落ちて骨になっても根気よく蘇生すれば元通りだ。
しかし武器はそうもいかない。
「神話の時代、勇者は魔王軍との戦いに勝利し、人類は忌々しい魔物たちを退けることに成功しました。しかし勝利への道は決して生易しいものではなく、人類も多くの犠牲を払い――」
「カタリナ」
「激しく苦しい戦いにより暴食の杖は何度か破損。そのたびに修復を」
「カタリナ」
虚ろな視線を手元の本に落とし、覇気のない声で朗読を続けるカタリナの肩に俺は手を置く。
そしてゆっくりと首を横に振った。宥めるように、しかしハッキリと言う。
「貴方の杖は壊れました」
カタリナが顔を上げる。微妙に焦点のズレた目でこちらを見上げ、そしてまた逃げるように本に視線を落とした。
「激しく苦しい戦いにより暴食の杖は何度か破損。そのたびに修復を――」
「カタリナ! 現実を見なさい」
アカマナとの戦いにより杖を壊して以来、カタリナはずっとこんな調子である。
図書館で神話の時代の魔王軍との戦いについて記された本を借りてきては「暴食の杖」の記載がある部分に付箋を貼りまくっては覇気のない顔に壊れた笑みを張り付けている。
どうやら杖の修復方法を探しているらしい。まぁ気持は分かる。カタリナが杖を大事にしていたのも知っている。しかし、だ。
魔王と戦った勇者たちの数ある伝説すべてを作り話だと切り捨てる気はない。そうはいっても、真実をただ記しただけのつまらない記録が長い歴史の波間に消える一方、ドラマティックで大胆な脚色を加えて物語に仕立てた心揺さぶる英雄譚が人々の間に広まり今なお残っているのだろうことは想像に難くない。
問題は、どこからが「真実」でどこからが「真実を英雄譚に仕立てるため付け加えられた部分」なのか明確な判断ができない点だ。
そもそも、カタリナの杖は本当にお伽噺や伝説に出てくる勇者が魔王を退けるのに使った杖と同じものなのか?
それすら、確かな証拠はなにもない。
神話の時代のことなんて誰にも分からない。実際にその戦いを見た人間はもうこの世にいないのだから。
「そんなあやふやで不確かなものより、もっと頼るべき場所が貴方にはあるでしょう」
「頼るべき……場所……?」
カタリナが全く思い浮かばないとばかりにそう繰り返す。
俺はその虚ろな目をジッと見つめ、可能な限り明瞭な発音で言う。
「貴方の実家です」
カタリナが痙攣した。違う。震えているのか。ガチガチと歯を鳴らし、なにかに怯えるように見開かれた目を右へ左へ泳がせる。
「お、おとっ……お父さんに殺される……」
また言ってる。殺されるのは慣れてるだろうが。
杖の治し方など俺が知るはずもない。腕のいい職人なら修理できるのか、あるいは杖を治す魔法があるのか、もしくはそれ専門の修理人がいるのか。俺には見当もつかないが、少なくとも闇雲に動いたり図書館で真偽不明の神話を集めるよりはカタリナの家を訪ねた方が解決策が見つかる可能性は高い。なにせあの杖はカタリナの家が代々所有し守って来たものなのだから。
それに。
「カタリナ。先日アカマナを連れて行った神官――大司教様と面識はありますか?」
するとカタリナは首を傾げ、そしてそのままの流れでかぶりを振った。
そうか。本人同士が顔を合わせたことはないのか。でも、大司教様は確かに言っていた。カタリナの杖を見て。
「“あの人もたまに壊していました”」
「へ?」
「大司教様が言ってましたよね。その杖が何度か壊れているような口ぶりでした」
カタリナと会ったことはない。でも杖のことは知っている。ということは、カタリナの家の別の誰かと面識があるということだ。
「大司教様は貴方の父君とお知り合いなのでは? だから杖のことを知っていた」
「まぁ……可能性はありますけど。お父さん、知り合いが多いので」
「ということは貴方の父君も何度か杖を壊してるんですよ」
カタリナが弾かれたように顔を上げる。汗が滲み、緊張で固まった顔。しかし口元はわずかに緩み、目には光が戻っていた。
「……なるほど!」
「血筋ですねぇ」
俺はしみじみ言う。
纏めるとこうだ。カタリナの父が以前、杖を壊した。しかも複数回だ。だがカタリナが持ちだした時には杖に損傷は見られなかった。ということは。
「案外簡単に直す方法があるんでしょう。家に戻ればちゃちゃっと直してくれますよきっと」
「確かに!」
カタリナが両手を振り上げて歓声を上げる。その顔にはいつものポジティブな笑顔が戻っていた。
緊張から急激に解放された影響でややハイになっているのだろう。いつもよりテンションが高い。
「お父さんも壊したなら娘の私が壊すのも当然ですよね。悩んでたのが馬鹿みたいです」
「そうそう。こういうのはさっさと済ませた方が良いですよ。そうだ、実家に行くならついでに大司教様のこと聞いてきてください。特に弱みとかあれば是非」
「分かりました! よーし、行ってきます!」
そう言ってカタリナが自身の実家へ向かうため街を発って早一ヵ月。
彼女はまだ戻らない。
「すぐに戻るって言ってたのに。おかしいですよ。なにかあったのかもしれない」
はじめは「実家の居心地が良くて帰りたくなくなったんですかね」なんて冗談を言っていたオリヴィエもさすがに心配になったようだった。
教会の長椅子についたオリヴィエが背筋を伸ばして俺を見る。
「領主様にカタリナの家の場所は教えていただきました。探しに行こうと思います」
カタリナも良いパーティメンバーを持ったなぁ。
ヤツをけしかけて実家へ行かせたのは俺だ。まぁこの件に関して俺に非は全くないが、とはいえカタリナの安否が気がかりと言えば気がかりだ。
俺は力強く頷く。なぜか当然のように俺の隣で腕を絡ませてくるパステルイカれ女も同じように頷いた。
「気を付けてねオリヴィエ」
リエールが視線を足元に向け、悲痛な面持ちで唇を噛んだ。
「……なんだか嫌な予感がする」
「えっ、リエールは来ないつもりなの?」
オリヴィエが心底驚いたように目を見開く。
一方、リエールはキョトンとしている。首を傾げて言った。
「私も行く必要ある?」
「あるでしょ! 嫌な予感がするならなおさら来てよ。なんで他人事みたいな顔してるんだよ」
「でも私、ユリウス見てなきゃいけないし……」
ストーキングを仕事であるかのように言うな。
しばらく押し問答が続いたが、結局リエールが折れる形となった。カタリナを探すため、二人して街を発つ。
これでしばらくは多少穏やかに過ごせそうだな。
そんなことを思って安心したのも束の間、二人は俺の想定よりも随分と早く戻って来た。街を出た時と同じく、二人で。
カタリナは見つからなかったのだろうか。それにしては帰りが早すぎる気がするが。俺が尋ねるより早く、オリヴィエが深刻な表情で言う。
「お願いします神官様。一緒に来てください。僕らだけでは……どうにも……」
嫌な汗が背中を伝う。
なにがあったのかは知らないが、二人の顔は決して明るいものではなかった。彼らでは対処できない何かがあったのだろう。オリヴィエとリエールが二人揃っていても対処できない何かが。
俺は拳を握りしめ、まっすぐな目で二人を見据える。力強く言った。
「嫌です」
「ありがとうございます。早速出発しましょう!」
オリヴィエとリエールがそれぞれ俺の両脇を確保し、ずるずると連行していく。
面倒ごとに首を突っ込みたくないという俺の意思は無視された。