身を隠すように纏ったボロ布をはためかせながら少女が街を駆けていく。
速い。風のように駆ける脚力は見事の一言だ。しかしそれだけではない。走りながらも障害物や壁などに身を隠し、曲がりくねった路地をうまく使っている。追手を撒くことに長けた走り方だ。逃走に慣れている。あれはロクな人間じゃないな。そもそも人間かどうかも怪しいところだが。
しかし人間離れしているといえばあちらも負けてはいない。
少女を追跡する赤い影。アイギスだ。
甲冑を纏っているとは思えない身のこなしで少女を追跡する。脇目も振らず、猟犬のごとく鋭い眼光を獲物にだけ向けて。
くく……ふはははは!
俺の可愛い猟犬から一体どれくらい逃げられるかな?
お前の手を引いて一緒に逃げてくれる優しい男はもういないぜ。なぜなら人工触手生命体に巻かれて宿屋の屋根の上にいるからな!
「ユリウス君は放っておくとすぐに精神攻撃を受けるなぁ」
屋根の上に腰を下ろしたマッドがこちらを見上げて愉快そうに笑う。
俺はヤツから視線を逸らし、呻くように言う。
「……もう大丈夫なので下ろしてもらえませんか」
「大丈夫かどうかなんて自分では判断できないものだよ。“俺が絶対に君を守る”なんて相当錯乱してなきゃ出てこないでしょ」
やめろォ!
俺は頭を抱えて転がりまわりたかったが、触手に巻かれているのでできなかった。
クソが……くせぇセリフ吐かせやがって……
「眼がどうとか言ってたね」
マッドの言葉に俺はなんとか頷く。
「ええ。眼を見るなとかなんとか」
俺は眼下で山になっている教会の腕章を付けた男たちを見下ろし、ため息を吐く。
触手生命体に蹴散らされたりぶん回されたりしてみんな伸びてしまっている。ちょっと触手に揉まれた程度でこれじゃあ大したヤツらではあるまい。多分勇者じゃないな。
俺はマッドをじろりと見る。
「彼らならあの少女への対応策が分かったかもしれないのに」
「助けてあげたんだから文句言わないでよ。殺さなかっただけ褒めてほしいくらいだ」
なにが「助けてあげた」だ。あんなもんただの災害だろ。
マッドの手により投入された触手生命体は敵味方の区別なく、その場にいた全員を等しく触手で巻き取った。初めて見るクリーチャーに野太い悲鳴を上げる男たち。路地裏はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
しかし肝心の少女だけは冷静だった。錯乱する男たちを尻目にナイフで触手を断ち切って拘束を解き、混乱に乗じて早々に逃げてしまったのだ。
マッドは触手被害者のみなさんの死屍累々を見下ろし、つまらなさそうに言う。
「そんなヤツらの話なんて聞かなくてもなんとなく推察はできるよ。“眼”と“精神攻撃”って言ったら、まぁ魅了の魔眼とかそんなとこでしょ」
「魔眼って、魔物が持ってるヤツですよね。悪魔とか吸血鬼とか……人間も持ってるものですか」
「あんまり聞かないね」
なら、やっぱりアイツ人間じゃないのか?
この街で暴れる魔物ってのはどうしてこう変な能力を持ってるヤツばかりなんだ。
しかし幸い、今回は今までの事件より小さな被害で済みそうだった。
『神官が男で良かった』
馬鹿め。アイツは自分で自分の攻略法を晒した。
魔眼は同性には効かないんだ。
邪魔な男共を街から一掃し、有志の女勇者たちが謎の少女の追跡にあたっている。
「止まって! 大人しくしなさーい!」
カタリナだ。アイギスと挟み撃ちになる形で狭い路地を塞ぐように立つ。杖を手に、しかし魔法を使おうとはせず投降を呼びかけた。
「断言します。逃げるのは絶対に無理です。今ここで私に捕まるのがあなたにとって最良の選択です。まだ間に合います。五体満足なうちに!」
なんかめちゃめちゃ不穏なことを言っているな……
しかしカタリナの懇願するような言葉を少女は単なる脅しと受け取ったようだ。
スピードを緩めることなく路地を駆け、その勢いのまま地面を蹴って跳躍する。ボロ布をはためかせながら空中で壁を蹴り上げ、さらに高く飛び上がった少女はカタリナの頭上を飛び越えて逃走を続けた。
「待って!」
「大丈夫だカタリナ。私に任せろ」
狼狽えるカタリナへ、追跡を続けるアイギスが追い抜きざまに言う。
「私が必ずあの不届き者を血まつ……捕まえてみせる」
「殺しちゃダメって言われたの覚えてますか!?」
カタリナを置き去りにし、逃亡劇はまだまだ続く。
俺はマッドにゆっくりと視線を向けた。
……勇者たちにあの少女を捕まえるよう要請したのはこの男だ。俺は触手に巻かれていたのでやり取りは直接見ていない。恐る恐る尋ねる。
「あの、勇者たちになんて言ったんですか?」
「あったことをそのまま言っただけだよ。変な術を使う女が逃げ出したから捕まえてくれって。それから、色々調べたいからできれば生け捕りにしてっていうのと、あとは――」
マッドがヘラリと笑って続ける。
「術にかかったユリウス君が“俺が絶対に君を守る”とか言ってて面白いから後で見に来ると良いよ、って」
やめろォ!
それ別に言わなくていいだろ!
このネタしばらく引っ張られるぞ……それもこれも全部あの女のせいだ……
しかしアイギスはなかなか謎の少女のひらめくボロ布を掴むことができずにいた。
甲冑を纏い、自慢のプラチナスライムの剣を片手に走るというハンデを負っているとはいえ、アイギス相手にここまでやるとは。あの少女もなかなかやるな。
っていうか甲冑はともかく、剣を手に走る必要はないだろ……殺意が漏れ出てるぞ……
だが少女確保に動いている勇者はアイギスとカタリナだけではないようだ。
屋根の上を風のごとく走る影。何の躊躇もなく屋根から飛び降りたそれは彗星のごとき勢いで少女の背中に飛び乗り、そのまま二人して地面をごろごろと転がっていく。
倒れ伏した少女の上で、柔らかな頬を砂で汚したルビベルが満面の笑みを浮かべ可愛らしい歓声を上げる。
「捕まえた!」
「ッ……!」
さすが獣人は恐ろしく身軽だ。
しかし少女も往生際が悪い。
ルビベルを跳ね除け、素早く地面を蹴る。幼いルビベルにとって「捕まえる」とは鬼ごっこのそれと同じ――つまり体に触った時点で完了するものらしい。
「あっ、ズルい! 捕まえたのに!」
頬を膨らませて怒りをあらわにするルビベル。
しかし数歩も進まないうちに少女の足は自ずと止まった。張り巡らされた蜘蛛の巣にかかった蝶のように。
「うぅ……なによこれ……」
自らの体に纏わりつく白銀の糸に少女が呻き声を漏らす。
そこへゆったりとした足取りで近付いていく白装束。メルンだ。
穏やかな笑みを顔に張り付けたまま、糸で雁字搦めになった少女の前で足を止める。そしてボロいフードに覆われた顔をじっと覗き込む。噛んで含めるように言った。
「お前はママじゃない」
初対面の人間の第一声としては強すぎる言葉に少女が動揺したのは明らかだった。
「え~、ズルいよぉ。ルビベルが先に捕まえたのに」
口を尖らせるルビベルに、メルンはイタズラっぽく笑いかける。
「これは最後に捕まえた人が勝ちってゲームだからね。私の勝ちだよ。きっとパパに褒めてもらえる」
「そっかぁ。だからかぁ」
ルビベルが納得したように呟きながら、ゆっくりと振り向き視線を背後に向ける。
少女を捕まえたにもかかわらず、速度を緩めず鬼の形相で迫るアイギス。
その鬼気迫る勢いにメルンも思わずたじろぐ。
「ア、アイギスさん? もう捕まえましたから。大丈夫ですから」
しかしアイギスは足を止めない。それどころかますます速度を増し、そして自慢のプラチナスライムの剣を構える。
メルンが降参とばかりに両手を挙げる。
「アイギスさん!? さっきのは冗談ですから! 勝ち負けとか無……ひいっ」
目前に迫るアイギスに、メルンがとうとう悲鳴を上げる。
プラチナスライムの剣が日の光を受けて鋭く輝く。それは少女の袖から飛び出し、今にもメルンに振り下ろされようとしているナイフを弾き飛ばした。
「ひっ……あ……れ?」
「油断するな」
アイギスにちゃんと理性が残っていた。良かった良かった。
さて、色々あったがようやく少女を捕らえた。これでひとまずは一件落着である。
と思ったらまた一人、その場に女勇者が増えた。
「あれ? もう捕まっちゃってたかぁ」
エイダだ。珍しくにこやかな表情を浮かべながらお縄についた少女の元に近付いていく。
アイギスが剣を鞘にしまいながら頷いた。
「ああ、全部終わった。これから連行だ」
「そっかそっかぁ。へぇ、これが魅了の魔眼ね」
うつむく少女の顔を覗き込んでエイダが朗らかに言う。
ゆっくりと手を伸ばし、割れ物でも扱うような手付きで少女を覆うフードを払った。
あらわになった少女の眼を覗き込み、ため息混じりに呟く。
「本当、宝石みたいに綺麗」
長い睫毛に縁取られた紅い瞳。
魔性の力は同性には及ばないが、その美しさ自体は普遍的なものなのだろう。
エイダは片手をそっと少女の頬に添え、もう片方の手に握ったナイフを振り上げた。眼を見開き呟く。
「それちょうだい」
「いっ!?」
少女の顔が恐怖にこわばる。
しかし凶刃が鮮血を散らすより早く、アイギスがすかさずエイダを羽交い締めにした。
「なにやってるんだ! せっかく私が我慢したのに!」
「離せぇ!」
アイギスに関節を極められながらもエイダが喚き散らす。
「だって! だってこんなのズルいじゃん! 私がこんなに色々やってダメなのに。こんな、こんな眼一つで――」
エイダが急に静かになった。脱力し、アイギスに倒れかかるようにその身を預ける。頭からなにか生えてる。花を模したような、あのポップな色のなにかは……デカいまち針か?
「ねぇ、見て。可愛い」
ルビベルが無邪気な声を上げながら指をさす。路地に忘れ去られたように置かれた呪いのおしゃべりキツネぬいぐるみ。
どうしてここに。
そんな疑問を口にする暇もなく、女勇者たちの集った一角に影が落ちる。
俺は屋根の上から空を見上げる。雲一つない快晴。なのにどうしてあそこだけが暗くなるんだ。
「あぁ……」
ずいぶん遅れて、カタリナがようやく少女に追いついた。
彼女なりに全力で走ったのだろう。肩で息をしながら、とうに限界を迎えた足を引きずるようにして歩いていく。
しかしカタリナが少女に向けた視線は、痛々しいほどに悲しげなものだった。
「間に合わなかった」
瞬間、彼女たちの足元に大きな穴があいた。いいや、違う。穴じゃない。影だ。奈落と見紛う、すべての光を吸収するかのような影。
そこから無数の手が伸びる。黒い、影の手。地獄の責め苦から逃れようと藻掻く亡者の手のように、それらは激しく空を掻く。やがて手は何かに突き動かされるかのように一か所に集結していく。
拘束された謎の少女の元へと。
「やめろリエール! 殺すなと言われただろう」
アイギスが剣を抜きながら声を張り上げる。
しかしアイギスが切っても切っても、次から次へと影の手が伸びて彼女の体に纏わりついて足を引っ張る。“邪魔をするな”と言わんばかりに。
どこからか木々のざわめきにも似た囁くような笑い声が響く。
「もちろん分かってる」
聞き覚えのある声だった。
影の手は砂糖に群がるアリのように少女の体に集り、そしてその体を足元に広がった影の中へと引き込んでいく。
少女は未体験の恐怖に突き動かされるようにして声を張り上げる。
「なっ、なに!? なにこれ……なんで! なんで私がこんな」
少女の悲痛な叫びは、彼女の口が影に沈んだ瞬間に掻き消えた。
静かになった街の一角に、パステルイカれ女の囁きだけが響く。
「楽に死なせない」