分かっていた。
そんなのは分かっていたことだった。
魔族に人間は敵わない。生物としての造りが違う。
だが、こうまざまざと見せつけられると。
それは目も当てられない一方的な虐殺だった。
屈託のない笑顔で。一切の悪意なく。時には歓声すら上げて。子供がアリの巣穴を踏みにじるように。
勝てるビジョンが一切浮かばない。
つくづく思う。俺たちが湖の魔族に勝てたのは運が良かっただけだ。
「こんなのにどうやって勝てっていうんだよ……」
あまりの戦力差に駆けつけた勇者たちから覇気が失われていく。
マズいぞ。魔族が勇者に飽きて街の破壊でも始めれば取り返しがつかない。ヤツが本気を出せばここを更地にすることなど容易い。
このままでは――
「彼女は言っていたね。これは遊びだと」
多くの勇者が尻込みし武器を振り上げることすら躊躇する中、魔族に向かっていく男が一人。
肩で風を切りながら颯爽と歩いていく。死地へ向かうとは思えない確かな足取り。
俺は男の背中に声をかける。
「なにか策があるのですか」
「子供が遊びたいと言っている。ならばそれに付き合ってやるのが大人の務めだ。そうだろう?」
肩越しに言いながら振り返る。
これから負け戦に臨むとは到底思えない眼力。一体何をする気なんだ。
――いいや、違うな。策などない。さらに言えばアイツに“負け戦”なんてものはない。マゾっていうのはつくづく恐ろしい。敵にすると厄介だし、味方にすると鬱陶しい。
血の雨を降らせ続ける人類の敵を前にして、ハンバートは舌なめずりをした。
「僕と最高の遊びをしようじゃないか」
そう言って駆け出したハンバートが魔族の羽ばたきによって生じた風の刃で輪切りにされて秒で死んだ。
はー、無駄にヤなもん見ちゃったわ。ペッ。俺は地面に唾を吐いた。こんな時に性癖の披露をしてんじゃねぇよ。
「で、そっちはどうですか」
「ダメです……全然起きません」
ぐったり脱力したウサギを抱えてカタリナが首を横に振る。
魔族を連れてきたのはこのウサギだ。話を聞けば魔族を追い払う突破口が見えるかと思ったのだが、ウサギは魔族を一目見て気絶したまま。揺すってもひっくり返しても起きる気配がない。
魔族も魔族で今は勇者殺しに夢中。ウサギにはさして興味もないようだ。
カタリナが静かに口を開く。
「今までの経験から魔族の倒し方は分かってます。別の魔族をぶつけて同士討ちを狙うしかありません」
「っ……」
俺は狼狽えた。
その考えは当然俺の中にもあった。この街であの魔族に対抗できる者がいるとすれば、それはマーガレットちゃん以外にはいない。しかし。
「そんなのダメだ!」
声を上げながら駆け寄ってくるのはオリヴィエだ。
俺たちの会話が聞こえたのだろう。激しくかぶりを振りながらカタリナの肩を掴む。
「マーガレットちゃんは強い……でも、相手は魔族なんだ。勝てる保証はない、どこにも!」
俺は視線を足元に向ける。
熾烈な戦いの末、もしマーガレットちゃんが負けるようなことがあったら。
リンが初めてこの街へ来た時の光景がフラッシュバックする。体が震えだす。背中を汗が伝う。
オリヴィエも同じような様子だった。震えるほど強く握り込んだ拳を壁に叩きつけ、項垂れる。
「こんなこと考えたくないけど」
オリヴィエの呟きに俺も頷く。
「もしマーガレットちゃんがあの魔族と戦って――」
言いながらカタリナを見る。オリヴィエもバッと顔を上げてカタリナへ鋭い視線を向けた。
俺たちが口を開いたのはほぼ同時だった。
「教会が壊れたらどうするんです!」
「マーガレットちゃんの体に傷でもついたらどうするんだ!」
……あれ?
俺はオリヴィエを見る。オリヴィエも俺を見ていた。どこか非難めいた眼差しだった。
「マーガレットちゃんそっちのけで建物の心配ですか……どうしてマーガレットちゃんはこんなヤツを……」
いやいや、ここで怒られるのおかしくない?
だって自宅兼職場だぞ。そりゃ心配するでしょ。勇者にとっても教会は大事な拠点だ。どう考えてもマーガレットちゃんより教会の方が脆いし。リンに教会燃やされたことは今でも俺の中でトラウマとなって残っている。
でもそんなこと言うとまたオリヴィエの怒りに油を注ぎそうだ。オリヴィエのカッ開いた目の中に吸い込まれそうなブラックホールが浮かんでいる。
俺はスッとオリヴィエに背中を向けた。
「私は信じています。マーガレットちゃんに頼らずとも……神の加護を受けた勇者が力をあわせればきっと魔族を打ち倒すと。そう、私はそういうことを言いたかった」
俺は思ってもいないことを言った。
「二人ともなに呑気なこと言ってるんですか! このままじゃ街一つ丸ごと全滅ですよ」
クソッ、カタリナのくせに正論言いやがって。
とにかく今は俺にできることをやるしかない。勇者は次々死んでいる。一刻も早く教会に戻って蘇生をしなくては。
手際よく避難していく住民、魔族を倒すべく戦場と化した街の一角へ向かう勇者ども。流れに逆行し人ごみを掻き分けながら俺は教会へと向かう。そして飛び込んだ扉の向こうに築かれた膨大な仕事の山を前にして俺は頭を抱えた。
覚悟はしていたが、やはりそこには地獄が広がっていた。こうしている間にも輪切りにされた勇者の死体がビチャビチャと汚い音を立てながら降り注ぐ。
敵は強大な魔族、戦地はすぐそこ。死と蘇生のサイクルの速さが普段の大規模作戦の比じゃないことは考えずともわかる。
しかし嘆いていても仕事は増えるばかりだ。俺は降り注ぎ積もっていく勇者共の死体を睨みつける。戦っているのがお前らだけだと思うなよ。
俺は覚悟を決め、終わりの見えない戦いに身を投じた。
*****
どれくらい時間が経ったろう。
この勇者を蘇生するのはもう何度目だろう。
今戦況はどうなっているのだろう。
この戦いはあとどれくらい続くのだろう。
そんな考えが頭の中をぐるぐると回る。集中力が切れてきた証拠だ。疲労と血を吸った神官服で体が重い。先の見えない戦いに、戦場へ赴く勇者たちの足取りも重いように見える。限界が近い。
それでも足を止めることはできない。この街の命運は勇者たちの双肩にかかっているのだ。そして蘇生の利く体を持つ勇者に本質的な“全滅”はない。何度でも立ち上がれる。彼らと、そして俺の心が折れない限りは。
俺は朦朧とする頭で、また教会に降って来た死体の蘇生に着手する。輪切り死体の次は焼死体か。輪切りに飽きてきたところではあるが、焼死体は蘇生がより大変――ん?
俺は違和感に手を止める。焼死体? あの鳥の魔族、炎も使えるのか?
いいや、余計なことを考えている時間はない。俺は気を取り直して焦げたボロ布の燃えカスを纏った黒焦げ死体へ手を伸ばすが、今度は教会の扉から転がり込んできたアイギスの声が俺の手を止めた。
「神官さん! ご無事ですか!」
血相を変えて飛び込んできたアイギスが、俺の顔を見るなり緊迫した表情を少しだけ綻ばせる。しかしすぐに顔を強張らせて口を開いた。
「ここは危険です。魔族がそこまで迫っています」
「くっ……」
俺は拳を握りしめる。
勇者たちがマーガレットちゃんの元へ魔族を誘導したか。あるいは勇者との戦いに飽きた魔族が街中に興味を向けたか。
限界が近いとは思っていたが、とうとうその時が来たらしい。
「早く一時避難を」
「しかし私がここを離れれば勇者の蘇生が間に合わ――」
俺の声はドアの吹っ飛ぶ轟音に掻き消された。
教会の裏口から見慣れたツタが凄い勢いで俺の体を絡めとり裏庭へと引き込む。通常では体験できないすさまじい加速度に内臓が偏るのを感じる。アイギスの叫声がどこか遠くから聞こえてくる。
いつになく乱暴な扱いに猛烈な眩暈と吐き気が襲ってくる。しかし死なずにすんだだけ幸いだ。他の魔族ならこうはいかない。
俺は間近に迫ったマーガレットちゃんを見る。しかしその植物的無表情はこちらではなく教会を囲む塀の向こうへ向けられていた。
神官服を染める血の匂いに交じり、何かが焦げるような匂いが漂ってくる。
マーガレットちゃんの視線を手繰るようにして俺もそちらに視線を向ける。その眩しさに俺は目を細めた。
火柱だ。天に向かって高く高く渦を巻いた炎が空気を焦がして火の粉を散らす。
目を凝らすと火柱の中に人影が見えた。見覚えのある少女の形をしたバケモノ。荒れ地の魔族。リンだ。本気を出せばこの街を火の海にできるバケモノが泣いている。大粒の涙は目から零れるそばから渦を巻く炎にまかれて舞い上がり消えていく。
リンが片手に引きずっているその黒いのは一体。熱さに悶えるようにたまにビクリと震えるのが気になる。
……人間か? だとしたら誰だ? いいや、誰かなんて考えるまでもないか。
リンがこちらを見上げる。俺たち人間がどんな武器を使っても傷つけられなかったその顔に、苦痛に歪んだ表情が浮かんでいる。
炎の中でリンが呟いた。
「ルイが浮気した……」