瞬きするたび眼下に広がる街は小さくなっていき、空の青が近付いてくる。
太陽に近付けば暑くなるのかと思ったがむしろ逆だ。寒い。冷たい風が容赦なく体温を奪う。拉致慣れしている俺であるが、大空を翔るダイナミック拉致は初めてだ。さすがに戸惑いを隠せない。さらに人違いで拉致されたという事実に戸惑いが加速していく。
俺は全力で自分がルイでないことを主張したかったし、なんなら俺を解放するのと引き換えにルイを差し出すという交換条件を持ち出したかったくらいだがいずれも難しそうだ。急上昇、急降下、急旋回を繰り返す空の魔族の過激なフライト中、迂闊に口を開けば舌を噛みちぎること請け合いである。手足を拘束された状態での自殺の方法として“舌を噛む”というものがあるが、本当に舌を噛むだけで人は死ぬのだろうか。だとしたら人体はなんと儚く脆いのだろう。それに比べて見ろ、魔族の強さを。なんかもうなんでもアリだ。
「えええっ! なんでついてくるの!?」
空の魔族が上げる驚愕の声が頭上から降ってくる。
そうか、良かった。これは魔族の常識に照らし合わせても驚きで声が出るようなことなんだな。
俺は少しだけ首を捻って後ろを振り向く。肩越しに凄まじい速度で俺たちを追跡する細い緑の物体が見える。マーガレットちゃんのツタだ。
すでに街は目を凝らしても見えないほど遠く離れ、高くそびえるフランメ火山が目と鼻の先に見えてきた。
「しつこい!」
空の魔族が風の刃でツタを切るが、それでもマーガレットちゃんのツタは止まらない。どこまでも無限に伸びるのかと思わせる勢いだが、いくら魔族と言えど限界はあるようだ。マーガレットちゃんのツタの先が白っぽく萎びてきた。限界が近い。しかし先に音を上げたのは空の魔族の方だった。
「分かった分かった、返してあげる」
え? 本当? やったぜ。
空の魔族が俺を掴んだままぐるりぐるりと回る。内臓が遠心力で偏るのを感じる。なに? ジャイアントスイング? いや、どちらかというとハンマー投げだった。
「ほらっ!」
魔族の手が俺の体からパッと離れる。遠心力に従い、俺は大空に放り出された。しかし通常の人間に空を飛ぶ能力は備わっていない。人を地に縛り付ける“重力”という力に逆らえずぐんぐん落下していく。
俺は天に向かって手を伸ばす。神に助けを求めたわけじゃない。そんなのが無駄だってことは俺が一番よく知っている。
マーガレットちゃんのツタが近付いてくる。俺の落下速度を上回る速さで。ツタから緑色が抜け、どんどん白くなっていく。限界が近い。でももう少し。もう少しで……届いた! マーガレットちゃんのツタが俺の腕を掴む。が、手触りですぐに分かった。限界が近いなんてものじゃない。とっくに限界だったんだ。掴んだツタにいつものしなやかさはなく、硬く脆くなったそれは俺の体重を支えることすらできず枯れ枝のようにへし折れた。落下は止まらない。どこまでも落ちていく。意識が遠のいてきた。はるか上空から嘲笑うような声が降ってくる。
「あはは! バイバイ」
*****
人は死ぬとどうなるのか。
古今東西の神学者が様々な説を唱えているが、肉体を離れた人の魂はいわゆる天国と地獄に振り分けられるという話が現在の主流である。
善人は天国に、悪人は地獄へ落とされるというヤツだ。神より下される審判は絶対で、嘘も誤魔化しも通用しないと言う。
その話が本当なら俺はまず間違いなく天国へ行く。こんな善良な人間が天国へ行けないなら一体誰が行けるというのか。
とはいえだ。ふと周囲を見回すとこの世界は間違いに溢れている。悪人が人を騙して成り上がり、無垢な善人が割を食う光景など珍しくもない。なのに死後の世界に行った途端、本当にそれらは消えるものなのか。神は絶対に手違いや間違いを犯さないのか。俺の目の前に広がる光景はまさに今、神の犯したミスなのではないか。
監獄に似た無機質な部屋。重い鋼鉄の扉を全体重をかけてなんとか開けると、似たような扉がすぐ視界に飛び込んできた。俺は右を見る。そして左を見る。どちらも似たような景色だった。どこまでも続く薄暗い廊下に等間隔で扉が並んでいる。白装束共が街の地下に作った監獄に造りは似ている。しかしなんというか、空気が違う。フェーゲフォイアーではこんなに重苦しく、纏わりつくような絶望は感じなかった。
ここはどこだ。俺は一体どうなったんだ。空の魔族に投げ出され、マーガレットちゃんにも救い上げてもらえず、どこまでも落ちて落ちて落ちて落ちて、落ちた先がここなのか? 俺は廊下を進みながら辺りを見回す。窓はなく、頬を撫でる空気はヒンヤリと湿っている。地下だと言われればそんな感じはする。いや、ひょっとすると既に俺は死んでいて、ここは死後の世界か? 少なくとも天国じゃなさそうだな。そんな強がりの冗談もだんだん笑えなくなってきた。
悪魔だ。ランタンを持った悪魔の集団が十字路を歩いていく。なにを恐れることもなく、我が物顔で堂々と。ここは自分たちの領域だとでも言わんばかりに。
体から力が抜ける。俺は壁に手をつきながら座り込んだ。あぁ、やっぱりそうだ。神がミスりやがったんだ。寝ぼけてたか、あるいは別の事でも考えながら仕事してたんだろう。死者の魂の振り分けを間違えたんだ。俺を落としやがったな。善人であるこの俺を。口から無意識に声が漏れる。
「ここが地獄か」
すぐ後ろから声がした。
「日の光も神の視線も届かず、ここに希望はない。地獄というのは言い得て妙だがお前はまだ死んでいない」
俺は弾かれたように後ろを振り返る。
闇に溶けるような黒髪を掻き分けて生えた山羊の角。獣を思わせる金色の瞳。悪魔だ。地獄の悪魔がこちらを見下ろしている。悪魔のくせに黒い神官服など纏っているのはどういうことだ。
「遥か昔、神話の時代。人間との戦いに負け、フランメ火山を超えて魔族の領域に逃げ帰った魔王軍の残党は生きる場所を求めて地中深くに穴を掘り、城を作った」
魔物の……城? まさか。
神官服を纏った悪魔が自嘲的に笑う。両腕を広げ、芝居がかった大仰な口調で言った。
「ようこそ魔王城へ」