俺は生唾を飲み込んだ。
目を擦り、改めてそれを見る。
八本の長い脚。全体を覆うふさふさとした毛。頭に並んだ八つの目が俺を捉えて離さない。生粋の捕食者の目だ。その気になれば簡単に俺を殺せる。
振り払っても振り払っても頭から離れない「死」というワード。
平静を装っていても体の震えが止まらない。
これは本能的な恐怖。理性で押さえられるものではない。なのに、どうして。
「――その時も、彼女は私を食べようとしたんだ。でもお土産に持って行った勇者の肉片のお陰でご機嫌取りに成功してね。ほら、蘇生時にちょっと余るヤツ――」
デカい蜘蛛の脇にいながら、クルトさんは穏やかな笑みを浮かべて惚気とも恐怖体験ともつかない話をしている。色んな所で繰り返し披露しているのだろう。その喋りはよどみなく滑らか。内容もよく整理されていてとても聞きやすい。だからその話がまったく頭に入ってこないのは多分聞き手である俺の方に原因がある。
「――魔族は生殖しないが、魔物は子を産み増やすことができる。とはいえ彼らのそれは不完全で――」
クルトさんの話を聞き流しながら、俺は唖然としていた。
蜘蛛だ。
どこをどう見ても蜘蛛だ。それを――妻だと?
王都から魔王城へ人肉を含む物資が運ばれていたり大司教様の名前が出てきたり、クルトさんには色々聞かなくちゃいけないことがある。頭では分かってる。頭では分かっているが今の俺がそちらへ意識を向けるのは非常に困難であった。
異常性癖。その一言で片づけるのは非常に簡単だ。しかしあまりにも異常の度が過ぎていやしないか。
「――魔物は世代を経るごとに弱体化していく。人の肉にはそれを押さえる効果もある。だから魔物たちは躍起になって人を襲うんだが――」
いいや! 他人の性癖を異常と切り捨てる権利など誰にもない。大人と成虫が合意を持って結ばれたのならもう他人が口を出すべきでは……
「――神官、ユリウス神官。聞いてる?」
俺は慌てて表情を作り頷く。
クルトさんはにこやかな表情のまま、蜘蛛――もとい彼の妻に顔を向けた。そしてまだ仕事が残っているから先に戻っているよう伝える。
きちんと意思疎通はできるらしく、デカい蜘蛛は音もなく俊敏な動きで部屋を出て行った。
部屋に残されたのは人間二人。俺は胸をなでおろした。襲ってこないと分かっていても、捕食者が部屋にいるのは落ち着かないものだ。
「で、さっきの話の続きなんだが」
えっ、蜘蛛との惚気をまだ聞かされるのか? 勘弁してくれ。
クルトさんはいたって真剣な表情で言う。
「ユリウス神官にこの仕事を任せたいと思っている」
その短い言葉を理解をするのに数秒の時を要した。
この仕事――つまり情報と引き換えに人間たちから物資を受け取り魔王城へ運ぶ仕事。
「私はいずれ引退し、妻と二人のんびり隠居生活がしたいと思っている。問題は後継者だ。この仕事は人間じゃないと務まらない」
情報を引き換えに物資を得る人間との裏取引。そりゃあ人間同士で交渉をした方がスムーズにいくことが多いだろう。大司教様が絡んでいるなら交渉の相手は教会の人間なのかもしれない。だから神官である俺が適任だと。
しかし魔王城に暮らしながらその情報を人間に引き渡し、物資を得る――魔物と人、どちらの道にも外れる行為だ。神官として、いいや人間としてそんなことに手を貸すわけには。
「交渉の時は少し大変だけど、基本はその日の物資を各部署に配給するだけだ。午前中に少し仕事をしたらあとは遊ぶなり寝るなりしていて構わない」
思わず生唾を飲み込む。
人としての矜持が溶けて消えていくのを感じる。
クルトさんは変わらず穏やかな表情で俺の肩にそっと手を置く。
「フェーゲフォイアー教会での仕事は辛いだろう?」
なんて甘美な言葉。悪魔の囁きであることは分かっている。
でもそれをすぐに跳ね除けることができるほど俺の精神は強靭じゃない。
今の俺はバイトの身。まだ目処は立っていないが、いずれフェーゲフォイアーに戻されてまたあの地獄の日々を送るに違いない。
でも、もし、今、彼の申し出を受け入れれば。
いや、しかしこの仕事は道徳に反している!
とはいえ道徳と倫理に目を背けるのはいつものことだ……
「ところでユリウス神官。君、結婚は?」
「え? いえ……」
なぜそんなことを。嫌な予感がする。
クルトさんは倉庫に並ぶ箱の一つに腰を落とし、値踏みするようにこちらをジッと見る。
「新入りであり人間である君に私の跡を継がせる理由が必要だ。ここのことを他の魔物たちに疑われるような事態は避けたい」
「……つまり?」
クルトさんは箱の中から冊子を取り出した。こちらに差し出し、言う。
「うちの娘と結婚し、婿入りしてほしい」
思わず息を呑む。
言いたいことは分かる。娘婿に仕事を継がせるという話は人間の世界でも良く聞く。
しかしここは人間の世界ではない。
動けずにいると、クルトさんは立ち上がって俺の胸に冊子を押し付けながらこちらをジッと覗き込む。
「みんな祝福してくれるさ。うちの娘との結婚は魔王城全体の利益にもなるんだから」
……利益?
クルトさんは変わらず穏やかな表情で、淀みなく話し続ける。
「魔物は魔族に作られた始祖が一番強く、世代を経るごとに弱体化する。人の肉にはそれを押さえる効果がある――が、より正確に言うなら肉ではなく遺伝子だ。産み、殖え、歴史を積み重ねるという生存戦略を選んだ君たちの遺伝子が魔物の弱体化を防ぐ」
言いながら俺の肩に手を置く。手に持った冊子を強く押し付ける。
「魔王城に本当に必要なのは肉ではなく血だ。人の血が混じった新世代の子供こそが魔王城の救世主となり得る」
クルトさんが俺の目をジッと見る。反応を窺っているのだ。
俺は視線に耐え切れず、クルトさんから目を逸らす。
「いや、でも――」
「神官である君が魔物の未来のために身を捧げる決断を下すのは辛いものがあるだろう。でもこれは人類のためでもある。人の血が魔物に入れば彼らは人を食わなくて良くなるんだから」
俺の言葉を遮るようにしてクルトさんは矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。
逃げ道を塞がれているような感覚にじんわりと焦燥を覚えるが、俺に否定的な言葉を口にさせる余裕をクルトさんは与えない。
俺の肩に置いた手に力を込め、力強く言う。
「君の決断は人類と魔物双方の未来を救うんだ」
促され、俺は震える手でクルトさんから冊子を受け取る。
いわゆる釣書だ。クルトさんが自らの手で書いたのだろう。俺に理解できる人間の文字で書いている。そのはずなのに、俺の目は紙の上を滑るばかりで内容が一切入ってこない。
予想はしていた。俺はこの娘の両親の姿を見たのだから。そしてその予想は概ね当たっていた。
写真の中で澄ました顔をした少女。
クルトさんが俺をジッと見ている。様子を窺っている。そして感想を求めている。
俺はなんとか声を絞り出す。
「お、お母さん似ですね」
ふさふさした毛に覆われた八本の脚。それに支えられた上半身は人のものであるが、顔には八つの赤い目が並んでいる。
アラクネだ。
俺は大きく深呼吸をし、目をつむる。
母親よりは随分と初心者向けになっている。完全な蜘蛛ではない。ちゃんと顔は人間。モンスター娘ってヤツだ。
ど、どうだ? いけるんじゃないか? モンスター娘って言ったら愛好者も少なくない。あまり触れてこなかったが、食わず嫌いだったかもしれない。
俺はゆっくりと目を開く。ふさふさした毛に覆われた八本脚が視界を埋める。
「うちの娘はなかなか器量が良いだろう?」
クルトさんが写真の中の娘を愛おしそうに眺めながら柔らかな笑みを浮かべる。心からそう思っているのだ。
彼がこの場所で幸せを掴んだのは分かる。でも幸せの形は人それぞれだ。この人にはこの人の、俺には俺の形がある。
なにより、俺とこの人とでは決定的な違いがある。それは種族の壁よりも大きなものかもしれない。
「ッ……」
言いかけ、しかし俺は言葉を飲み込んだ。
口に出せばきっと俺はこの人の大切なものを否定することになる。でも、ハッキリ言わなくちゃいけないんだ。きっと彼に誤魔化しや先延ばしは通用しない。いや、時間をかければむしろ逃げ道を封じられて後に引けなくなってしまう。言わなくては。言うんだ。
「人外、は――」
「ん? ごめん、もう一度言ってもらえるかな?」
感じる。強い圧を感じる。気圧され、言葉が喉から出てこない。
目の前のクルトさんがとても遠い存在に感じる。
同じ人間なのに……いや、同じ人間だからこそ、自分と違う嗜好が受け入れられないのかもしれない。性癖の壁は時に種族の壁より厚く高い。この返答は、化け物だらけの魔王城におけるたった二人の人間である俺たちを決定的に隔てる一言になるだろう。
でも言わなくては。「人外は、八本脚は無理だ」と。言うんだ。言え!
俺は乾ききった唇を舐め、締まった喉からむりやり言葉をひねり出す。
「せっかくの申し出ですが――」
「おお、噂をしていれば」
言い終わるより早く、クルトさんが俺に背を向けてそう呼びかける。
八本の脚が音もなく動いて部屋に入ってくる。奥さんがまた戻って来たのかと思ったが、どうやら違う。人間の上半身。あれは娘だ。
俺は息を呑む。クルトさんがこれ幸いとばかりにアラクネの娘に手招きをする。多分俺が断りたがっていることに気付いているんだ。
マズい! 父親だけじゃなく本人を目の前にしたらますます断りづらくなる。相手はハーフとはいえ魔物だ。無理に断れば糸に巻かれて吊られたり食われたりするのでは。蜘蛛は獲物に消化液を注入して溶かしてから食べると聞いたことがあるがアラクネもそうなのかな……
「アラーニェ、来なさい。紹介したい人がいる」
クルトさんが意気揚々とそう呼びかける。マズい。もう逃げられない。
クルトさんが娘になにやら話しているが頭が真っ白になってなにも分からない。
卵生の生物である母と胎生の生物である父の間に生まれた奇跡の子。クルトさんが彼女を非常に可愛がっているのが彼の仕草から伝わってくる。
アラクネの目がギョロリとこちらを向いた。感情の読めない蜘蛛の目。俺は声も出せず震えあがることしかできない。八つの目が獲物を吟味するように視線を這わせる。アラクネが口を開いた。
「二本足とかキモすぎ。お父さんみたい」
静まり返る倉庫。
アラクネは父親の運んできた物資の中から肉を手に取り、音もなく部屋を後にする。
クルトさんがゆっくりと振り返った。穏やかな笑み。しかしその瞳に悲しみの色が浮かんでいることに気付かないほど鈍感ではない。
「ユリウス神官。この話に関しては少し時間を貰っても良いだろうか」
俺は静かにうなずいた。
父娘の関係は種族を超える。魔王城に逃れても、娘の反抗期からは逃れられないようだ。