耐えられない……
静寂に包まれた空間。しかし頭の中では絶えず警鐘が鳴っている。本能がこの空間にいることを拒絶している。
俺は机の上に広げた包帯やガーゼ、消毒液を救急箱に戻していく。返り血に赤く染まった捕食者には無用の長物である。
「行かないの? アンタのこと探してたのに」
アラーニェが八つの目でこちらを見る。捕食者の視線に肌が粟立つ。
俺だって今すぐこの部屋から逃げ出したい。
しかし「人間の神官」を探してる魔物とかち合うのも避けたい。
前門のアラクネ後門の謎魔物。
俺は密かに頭を抱えた。誰でも良いから早く帰ってきてくれ……
俺の祈りが届いたのだろうか。扉が開いた。開いたというかぶっ飛んだというか。
誰か入ってきた。一人じゃない。四人……いや、四匹。
「いたぞ!」
黒い狼の群れ。生臭い息と刺すような視線をこちらに向ける。輪唱のように遠吠えが響く。
魔物だ。出入口を塞ぐようにして立ち塞がり、牙をむいてこちらを睨む。その姿に見覚えはなく、敵意はありそう。
腹ペコかな? 俺は笑顔を浮かべて親切心を叩きつける。
「食べ物なら倉庫にありますよ」
迫る魔物が生臭い息と共に唸るように吐き捨てる。
「そんなのはここだけだ」
……この魔王城の魔物じゃない?
魔王城はいくつかに分裂しているとクルトさんが言っていた。別の魔王城から来たのか?
しかし考えている余裕はない。
風が頬を撫でる。
背後にいたはずのアラーニェが俺を飛び越えて目の前に降る。四匹を相手に八つの好戦的な瞳を向けた。
「私の縄張りに入って五体満足で帰れると思うな」
体勢を低くし、牙を剥いた狼たちが唸るように言う。
「誇りを捨てた裏切り者め」
前門のアラクネと後門の狼がぶつかり合う。
文字通りバケモノ同士の戦いだ。下手に動くこともできず、俺は部屋の隅でバケモノ大戦を呆然と眺めることしかできない。
アラーニェは強い。俊敏さに加え、糸を天井や壁に引っ掛け命綱のように使った多彩な動きが狼共を翻弄する。人間性を否定した蜘蛛の戦い方。
風を切って狼に飛び掛かり、八本の脚でのしかかりながら叫ぶ。
「私は人間みたいに弱くない!」
本人の言うとおり、母譲りの戦闘力だ。強靭な外骨格を持つ脚が八本もある。とはいえ、向こうは四本脚×四匹。十六本も脚がある。
狼が跳躍し、正面からアラーニェに飛び掛かる。八本の脚は動かない。下敷きになった狼、そして仲間の狼たちが噛みついて封じている。最初の戦闘で仲間一匹を失ったかわりに、彼らはアラーニェとの戦い方を学んだのだ。そして気付いた。彼女の弱点は上半身。
払いのけようと腕を振るうが、父親譲りの人間の腕は細く非力だ。その柔らかい肌に狼の牙が食い込む。
アラーニェは悲鳴を噛み殺すように歯を食いしばり、苦痛に顔を歪める。肩のあたりから流れる血の色は紛うことなき赤色。狼が強靭な顎に力をこめる。骨の砕ける音がする。狼が嘲笑うように言う。
「でも味は人間だ」
アラーニェが八つの目を見開く。
八本の脚はとてもうまく使うのに、たった二本の腕を彼女はまったく使いこなせていない。
こうしている間にもアラーニェの血は失われていく。
どうにかしなければ。しかしどうやって。俺は自分の腕をジッと見る。爪もなければ鱗もない。鋭い牙も鋭敏な嗅覚もない。あるのはなんとも頼りない肌に覆われた二本の腕。
だがリンゴを砕く腕力や固い爪が繰り出す斬撃だけが強さじゃないよな?
俺は救急箱からおもむろに瓶を取り出す。
人間の投擲能力はすべての動物の中で最強だ。
「オラッ!」
命中。アラーニェに噛みついた犬の脳天に瓶が当たり砕け、中の液体がぶちまけられる。
無色透明の液体を浴びたアラーニェがこちらを睨んで声を上げる。
「余計なことしないで。大した力もないくせに!」
「そう邪険にしないでください。仕事なんです」
アラーニェに噛みついた犬が横っ腹を蹴られたような情けない悲鳴を上げて転がり落ちた。
「おい、どうしたんだよ!」
ガフガフとくしゃみをしながら前足で顔を擦る狼に、アラーニェの脚を押さえ込んでいた仲間たちも動揺している。その好機を見逃さなかった。
八本の脚を跳ね上げ、狼共を壁にたたきつける。
素早く跳躍し狼共から距離をとったアラーニェが息を切らしながらこちらを見下ろす。そして自分の腕にかかった無色透明の液体を指ですくった。
「これ、ただの消毒液でしょ?」
その通りだ。器具消毒用の高濃度アルコール。
「突出した能力は弱点にもなり得る。鈍い人間にはなんでもなくても、彼らの鋭敏な嗅覚にあれの刺激臭は耐え難い。さらに言えば、犬にはアルコールを解毒する能力が無いのです」
まぁそれに関しては俺も偉そうなことは言えないが。
俺はアラーニェを見上げる。バランスの悪い二本の脚で地面を踏みしめ、弱々しい二本の腕を広げて胸を張る。
「あまり人間を侮らないでください」
アラーニェが八つの目を見開く。そしてそれをスッと細めた。
「消毒液ってまだある?」
アラーニェの問いかけに俺はしたり顔で答える。
「もうありません」
「あと三匹いるんだけど」
そうだね。どうしようか。
まぁこういうのは不意打ちだから効果があるのだ。消毒液が潤沢にあったとしても素直に食らったりはしないだろう。
結局強いのはデカくて力のあるヤツなんだよな。
なので、今回のMVPは遅れてやってきた一番デカくて強いヤツがかっさらっていった。
アラーニェが死ななくて本当に良かった。
そうじゃなかったら八つ裂きにされていたのは俺だったろう。
駆けつけたお母さん蜘蛛に蹂躙される狼共を眺めながら俺は密かに胸を撫でおろした。