蜘蛛の糸の強度は鋼鉄をも凌ぐと聞いたことがあるがマジかもしれない。
お母さん蜘蛛の糸で新種のミノムシみたいになっている狼を囲んでの尋問タイムだ。捕虜は一匹で十分。残りの三匹は貴重なタンパク源としてお母さん蜘蛛の腹に収まった。安らかに眠れ。
さて、魔王城別支部からやって来たというミノムシ狼の言い分はこうである。
「魔王様を殺し、我らを日の当たらない地下へと追いやったのが誰か忘れたか。怨敵に誇りと魂を売って食う飯はそんなに美味いか」
バレてるじゃん。人間に情報を売って王都産の食料を手に入れてるのバレてるじゃん。
食料の恩恵を受けているここの魔物ならともかく、食うや食わずの生活をしながら人間への怨嗟の刃を研いでいる別の魔王城の魔物たちがその事実を知ったらどう思うか想像に難くない。
お母さん蜘蛛と共に駆けつけた悪魔神官が狼をじっと見下ろす。ゆっくり視線を巡らせ、やがて諭すように言う。
「袂をわかったとはいえ同じ祖先を持つ者。同士討ちなど魔王様も望んでいないはずだ」
「いいや、魔王様は裏切り者を許さない」
不毛な言い争いだ。魔王はとっくのとうに朽ち果て物言わぬ骨となっている。神のように崇めて綺麗な箱に飾っていてもそれにもはや思考する能力などない。そういえば大司教様が前に「魔王が増えている」とか言ってたな。魔王様は魔物たち一人一人の心の中にいる、ってか? まぁ己の中で都合良く練り上げられた虚像は醜悪な実像よりもはるかに魅力的なのかもしれない。“異教徒を殺せ”としきりに喚く我が主をぼんやり思いながら俺はそんなことを考えるのだった。
「ユリウス君、ちょっといいかな」
奥の部屋の扉を少し開け、クルトさんが俺の名を呼んで手招きをする。
己の心の内に存在する魔王様のお考えを思うまま吐き出す悪魔神官とミノムシ狼の衝突はまだまだ続きそうだ。俺は呼ばれるがまま部屋に入る。おや、ミノムシがここにも。
大量の包帯を取り払いながらアラーニェが声を張る。
「良いってば! こんなの放っておいても治るし」
「ダメだダメだ。バイキンでも入ったらどうする。ユリウス君、すまないが手伝ってくれるか」
アラーニェの肩口にこびりついた血。
さっきの戦いで狼に噛みつかれた傷だ。魔物の咬傷は見た目より厄介だ。適切に処置しなければ繁殖した菌が全身にまわり命すら落としかねない。
俺は両手を挙げ笑顔を浮かべて敵意が無い事をアピールしながらアラーニェにゆっくりと近付いていく。
「ええ。仕事ですからね。ちょっと見せてください」
拒絶されるかと身構えたが、意外にもアラーニェは動かなかった。やるなら早くしろとばかりに傷口を差し出す。
あれほど拒絶していた人間の手も借りたいほどに痛みが強いのだろうか。俺はアラーニェの肩の傷を回復魔法で処置していく。
クルトさんがその様子を眺めながら腕組みして呟いた。
「ユリウス君は魔力量が多いね。勇者でもないのにその量は破格だ」
「そうですか?」
教会では無限の魔力供給があるので自分の魔力量などあまり気にしたことが無かった。周りを見渡せばカタリナみたいな魔力お化けもいるし。
「魔力というのは使用と補充を繰り返すことによって体内に埋蔵できる量が多くなる。最初は固い風船も膨らませて萎ませてを繰り返すとゴムが伸びて空気が容易にたくさん入るようになるだろう?」
使用と補充……日々の労働の成果がそんなとこに現れていたとは。空気を入れすぎた風船がそうなるようにいつか破裂しないか心配です。
「技術も素晴らしい。アラーニェも回復魔法を教わったらどうだ? お前も昔は私の真似をして――」
「ごちゃごちゃうるさいな。治療は受けるから出てってよ!」
強い言葉で娘に追い出され、クルトさんは肩を落として悪魔神官たちのいる部屋へ戻る。
また捕食者と二人になってしまった。この恐怖心は多分生き物の本能だ。理性で押さえられるものじゃない。八つの目がジッとこちらを見る。俺を信用していないのか。処置に失敗したらそのままバクりといかれるのか。こ、怖い……
「外骨格が」
「え?」
アラーニェが八つの目を足元に向ける。先ほどまでの強い語気はなく、八本の脚に支えられたその体が非常に小さく見える。
「体にも外骨格があればあんな犬の牙で傷を負ったりしないのに」
外骨格――節足動物の表面を覆う硬い殻がそうだ。薄い紙一枚で血が出る人の軟弱な皮膚とは強度が違う。なまじ下半身にそれを持っているだけに、アラーニェは父譲りの柔らかい皮膚が疎ましいのだろう。
しかし外骨格がすべての面で勝っているかと言えばそんなことはない。
肩口の傷に手を当て魔力を込める。淡い光が食い破られた皮膚を繋ぎ合わせていく。
「外骨格は丈夫ですが傷がついても治癒しにくい。人の皮膚は脆いですが……ほら」
手をどけ、すっかり塞がった傷を見せる。
勇者ほどではないがやはり人の体は治しやすい。まだ完治ではないが、きっと時間と共に痕も消える。しかしこの経験は消えない。
「傷つきやすいが修復ができる。柔くて脆いがしなやか。五本の指は細く折れやすいが繊細な動きができる。貴方はまだその体の一面しか知らない」
俺は救急箱から取り出した包帯でアラーニェの肩の傷を覆っていく。
「あらゆる物に短所と長所があります。ご両親はお互いの自分と違う部分を長所と捉えて惹かれ合ったんでしょう。あなたはきっとそれを受け継いでいる」
「……今ならそれが分かるかも」
うん……うん?
八つの目が俺を見上げている。輝く赤い目それぞれに俺の顔が映り込んでいる。しかし恥じらうように視線を逸らし、アラーニェはまたうつむいてしまった。
「ねぇ、人間の街には私と同じ混血の子がいるんでしょう? 白ウサギはその子を探して街へ行ったの」
混血。リリスのことだ。
あのウサギはとんでもない危険を冒し、魔族に殺されかけながら街にたどり着いた。その理由があの性悪小娘だと? アイツにそこまでする価値が……いや、あるのか。
「純粋な魔物と人間の間には子供ができにくいんだって。私にも兄妹いないし……でも混血ならどちらとも子供が作れる、らしい」
こいつら本気で人の血筋を取り入れようとしていたのか。
気の遠くなるような時間がかかる長期的な計画だぞ。食料が潤沢にあるが故の余裕か? そんなのが上手くいくとは到底思えないが。
「でもそんなの関係なく、その子に会ってみたいんだ。街へ戻るなら私も連れて行ってほしい」
「ま、街に? いや、でも、人間ばっかりの街ですし」
「私は大丈夫だよ、人間のこともう少し知りたくなったし。あなたも急にこっちに来たから一度戻って色々整理することあるでしょ? 私も手伝うよ」
……なんだ? 話が見えない。
言葉を選んで選んで選びきれず結局何も言えないでいると、アラーニェは締まった喉から絞り出すように言う。
「だって、その、婚約者……だし……」
「こっ」
息が吸えない。口が急速に乾いていく。
なんだいきなり。どういうことだ。二足歩行とかキモすぎって言ってたじゃん。その話なくなったんじゃないの? そもそも婚約を承諾した覚えはない。クルトさんが勝手に話進めてアラーニェに喋ったのか? 蜘蛛と人のクオーターがどんな風貌になるのか興味がないと言えば嘘になるが自分の遺伝子で実践したいとは思わない。
アラーニェの八つの目に呆然とした俺の顔が映り込む。
どうしたら良い。なんて答えたら。下手なことを言えば死――
「なにを言ってるんだ?」
扉を半開きにして中を覗くのは悪魔神官だ。
俺は心の内でガッツポーズをした。渡りに船とはこのこと。やったぜ。ひとまずはこのまま有耶無耶にしてしまおう。
「ちょ、ちょっと! 勝手に入ってこないで」
顔を赤らめて慌てふためくアラーニェの言葉を遮るようにして、悪魔神官が怪訝な顔で呟く。
「そいつ既婚者だぞ」
部屋の時間が止まったようだった。
アラーニェがこちらを見る。表情の読みにくい八つの目。しかし今は彼女の感情が手に取るようにわかる。縮こまる俺を映す八つの目に湛えられているのは、全てを焼き尽くさんとする怒り。
俺はふっと息を吐く。
あ、死んだ。
「うわっ、どうした!?」
壊れた扉と悪魔神官を巻き添えに吹っ飛んできた俺を見下ろし、クルトさんが悲鳴にも似た声を上げる。答えたのは壊れた出入口の向こうから現れた彼の最愛の娘である。
「今からそのクズを解体するの」
どうやら俺のアドバイスをしっかり自分のものにしようという気はあるらしい。八本の脚でゆっくりと歩みながら、その二本の腕には処置用のメスが握られている。人間の器用な腕が持つ機能を遺憾なく発揮するつもりかな?
俺は床を這い、アラーニェの凶刃から逃げようと藻掻く。
「ち、違うんです! 私はそんなつもりは――」
人間の父から譲り受けた器用な腕が俺の前髪を引っ掴む。八つの目がこちらを覗き込む。毎朝俺が研いでいたメスが銀色の輝きを放つ。
地獄の底から響くような低い声。
「まずはその二枚舌から」
全身の毛穴から汗が噴き出る。本能が警鐘を鳴らしている。
言わなければ。向こうがどう思ってるかは知らないが俺は魔族と結婚した覚えはない。なんなら君と婚約した覚えもないと。
しかし恐怖で声も出ない。耳鳴りがする。震えが止まらない。死ぬ? 死ぬ? 死ぬ? こんなとこで!?
「な、なんだ!?」
なんだじゃねぇよ、誰かこの娘を止めろ!
……いや。この震えは俺の体の震えじゃない。地面が揺れている。壁が軋んでいる。どんどん大きくなる。なにか大きなものが近付いてくるような。
「ククク」
声を上げたのは俺でもアラーニェでもない。
糸で巻かれ、完全に無力化された狼。文字通り手も足も出ず、今の俺を襲う危機と最も関係ないはずの狼。
「なぜ俺がべらべらとお前らとの不毛なおしゃべりに付き合ったと思う?」
巻き添えにされて床に伸びていた悪魔神官が弾かれたように起き上がる。
「まさか、援軍!?」
狼が裂けた口を釣り上げてこちらを見る。
「我々の目的はそこの神官だ。あまり手荒な真似はしたくなかったが、仕方がない」
そうだ。アラーニェも言っていた。こいつらは“人間の神官”を探していると。
フェーゲフォイアーにやってきた魔物たちも、みな俺を生け捕りにしようとしてきた。
狼が俺を見る。獲物を見る目とも違う。これは。
「理解できない。どうしてそれを遊ばせておくんだ。それは飢えに喘ぐ同胞を救う切り札そのもの。死者蘇生の奇跡なんていう不正行為を我らの手に収める千載一遇のチャンス」
確かに俺は蘇生ができるが、それは人間に対してだけだ。魔物を蘇生することはできない。ましてや飢えと蘇生に何の関係が。
……いや。頭に嫌な考えが浮かんだ。
強酸の沼で溶けた死体も、五十年間地中に埋められ完全に白骨化した死体も、魔物にあちこちつまみ食いされた死体も、俺は蘇生することができる。
狼が目を細める。縋るような目。
「勇者と神官と教会を手に入れれば食糧問題は解決する。飢えに苦しまず済む」
息を呑んだ。
冗談じゃない。食肉加工工場に転職する気はないぞ。
しかしこんな話をしている間にも部屋を揺らし軋ませる何かがどんどんと近付いてくる。
よほど自信があるのだろう。狼が嘲笑うように言った。
「終わりだ。何度も何度も足を運び、何度も何度も仲間を食われながら、ようやくスカウトした切り札。魔族の支配を強く受ける始祖でありながら親殺し」
揺れが止まった。いる。扉の向こうに。
狼が遠吠えをする。合図か。糸で口を塞いでももう遅い。すぐそこにいるのだ。得体のしれない何か。ここに居る誰よりも、なによりも、デカくて強いなにか。
扉が開く。いいや、その巨躯に扉が押し流されたと言ったほうが正しい。
部屋の中に流れ込み、足元に広がる不定形のゲル。銀色に輝き、うねる波。そこから伸びるいくつもの触手はまるで小さな子供の手のよう。見覚えのあるそれは糸巻きの狼を踏みつけ、怒りに震えるアラーニェを押しのけ、俺の体に巻き付いて再会を喜ぶ抱擁をする。
俺もそれにこたえるように両腕を高く高く上げ、歓喜の声を上げた。
「ジェノスラぁ!」