吹き抜ける風が容赦なく体温を奪っていく。
俺は膝を抱える。小刻みに震えながら寒さと恐怖に耐える。
急ごしらえで作ったにしては頑丈な籠だが、人間三人の体重をかけた状態で長距離の飛行に耐えうるものであるという確証はない。俺は助けを求めるように天を仰ぐ。視界を彩る青空、ドラゴンの白い腹。そしてたった今パステルカラーがそれらを塗りつぶした。
「ユリウス、高いところ怖いの?」
こちらを覗き込むリエールがなぜか嬉しそうに言う。
怖いに決まってんだろ。なんならお前も怖い。
「神官様、空の魔族に攫われてたじゃないですか。それに比べれば穏やかな旅だと思いますが」
「冷静に周囲を見回せる分、こっちの方が怖いかもしれません」
首を傾げるオリヴィエの言葉にそう答える。
ドラゴンに吊られた籠に乗っての移動に、オリヴィエもリエールも顔色一つ変えていない。勇者は死への恐怖が鈍いからな。そう思おうとした矢先、勇者のものではないあどけない声が頭上から降ってくる。ドラゴンの背に騎乗したロンドだ。
「見えてきました。王都です」
わざわざドラゴンを使い、こんな恐怖に苛まれてまで王都を目指す理由は一つ。
攫われたカタリナの救出。
アイツとアイツの杖は魔王軍との戦いにおける切り札になるかもしれない。
が、正直に言えば俺にとってそれは建前にすぎなかった。
「そろそろ腹が立ってきました。いい加減にしろという気分です」
大司教様の人工的な笑みが脳裏に浮かぶ。
本来、彼は俺みたいな平神官が言葉を交わせるような立場の人じゃない。まして苦情を申し立てるなど論外だ。分かっている。分かっているがあの人の無茶苦茶には極めて温厚な俺をもってしても、もう我慢がならない。これ以上思い通りにさせてなるものか。
「でもなんでカタリナを攫ったんでしょう。ご先祖様と見間違えるほど似ているんでしょうか」
「さぁ。ボケてるのかもしれません」
オリヴィエの口にした疑問に吐き捨てるように答える。
不老不死とはいえ、長い年月が精神や記憶に影響を及ぼしていないとも限らない。リリーのことをアマリリスと勘違いしていた例もある。
「あるいは――」
俺は言いかけて口をつぐんだ。どちらかと言えばこっちの方がたちが悪い。
カタリナをかつての仲間であるベアトリーチェの代用品にしようとしている可能性。
俺はフェーゲフォイアーを出発する少し前――教会を訪れたルイのことを思い返していた。ぶるりと身震いをする。多分寒さのせいだけじゃない。
「こ、ころす……ころす……」
甲斐甲斐しい教育の成果だ。少し見ないうちに、チョッキを纏った哀れなウサギの語彙が激減してしまっていた。
しかしルイの評価は厳しい。恐怖の実家訪問から帰還したばかりのリエールに彼はこう縋りついた。
「ロージャがおかしいんだ。耳が伸びてきちゃったし、体毛も白くなってしまって、“コロス”の発音も少し違う。治してあげられないか?」
可哀想に。呪いのおしゃべりキツネぬいぐるみの代用品にされたウサギは、長い耳を縮こめるようにして震えていた。
するとリエールは平然とこう答えた。
「ごめんなさい。狂人のカウンセリングは専門外なの」
身も蓋もないが的確な答えだな、と思った。
その後は駆けつけたユライがルイを保護していった。ウサギも無事だ。そう信じたい。
しかし大司教様にはユライのようなストッパーがいない。
もしカタリナが何らかの術で“ベアトリーチェ”にされてしまっていたら……
急がねば。だからわざわざロンドに頼んでドラゴンを飛ばして貰ったのだ。
籠の縁を掴み、恐怖を押し殺して顔を覗かせる。眼下にミニチュアサイズの王都の街並みが広がっていた。
*****
「僕は姉様に会ってくるです」
そう言って王宮へと向かったロンドと別れ、教会本部へと向かう。
王室経由での抗議が大司教様に効けば良いのだが、まぁあまり期待はできないだろう。
もちろん力づくで、というのも難しい。相手も相手だし、なにより俺は社会人なので派手な反社会的行動は慎みたい。しかしやむにやまれぬ事情による地味な反社会的行動ならばきっと神もお許しになるだろう。
なのでこういう作戦を立ててみた。
「教会本部へ侵入し、囚われのカタリナを救いだす。そのまま誰にも気づかれないうちに逃走――これが理想です」
「潜入作戦ですね」
オリヴィエが胸の前で拳を強く握りしめる。
気合は十分――だが、一抹の不安が胸の奥で燻る。
俺は素早く視線を巡らせてあたりの様子を窺う。教会本部が位置するのは王都のど真ん中。警備の兵士も多い。辺りは行き交う人で溢れている。
俺は王都には不慣れであろう勇者二人に小声で忠告をする。
「教会本部の中にいるのはみんな神官です。絶対に殺さないでくださいよ」
「分かってますよ」
「私たちをなんだと思ってるの?」
オリヴィエとリエールが顔を見合わせて苦笑する。
「敵に見つからないようにする動き方は心得ています。万一見つかりそうになったら、こう、背後から首をトンッて」
オリヴィエが指を揃えて手刀を作り、近くにあった街路樹にトンッと打ち込む。
雷鳴のような激しい音が響いた。真っ二つにへし折れた街路樹が無残にも倒れる。あちこちから悲鳴が上がり、王都の皆さんの視線を独り占め。俺たちはサッと木から顔を背けた。
「王都は木まで軟弱なんですね」
オリヴィエが王都生まれ王都育ちの木を非難するように吐き捨てた。
もしかすると彼は神官の首をへし折っても「神官の頚椎って軟弱なんですね」と呟くのかもしれない。俺は得体のしれない寒気を感じて両腕をさすった。
「そんな顔しないでユリウス。見つからなければ良いんだから」
よほど酷い顔をしていたのだろうか。リエールが気の毒そうな顔をして慰めの言葉を口にする。おもむろに教会本部の建物の脇へしゃがみ込んだ。覗き込んでいるのは壁に開いた穴――とはいえ、猫が通れるかも怪しいサイズである。それに笑みを向ける。
「ここにオリヴィエの肉片を押し込んで中で蘇生させれば簡単に侵入できる」
俺は頭を抱えた。
それを簡単とするなら世の中のあらゆる事が“簡単”だ。
確かにカタリナの家に侵入したときはその手を使った。しかしカタリナの家があったのは人気のない森の中。ここは人だらけの王都のど真ん中。肉塊を教会本部の穴に詰め込んでいる不審者を捕まえない兵士など税金泥棒以外にどう形容すれば良い?
先ほどの街路樹へし折り事件のせいか。なんだか通行人からの視線を感じる。あるいは勇者が珍しいのかもしれない。俺は声を潜めた。
「ここはフェーゲフォイアーじゃないんですよ。肉片とか血というワードの出てくる作戦は有無を言わさず却下です。とにかく目立たないようにしてください」
「ユリウス。言いにくいんだけど――」
リエールが心底困ったように神官服の裾を持ちあげる。
「その恰好、すごく目立ってるよ」
ああ? 教会本部の近くに神官服の人間がいるのは極めて自然だろ。俺は自分の服を見下ろし――そして気付いた。通行人たちは俺の神官服を彩る血痕に視線を向けているのだと。
あぁ……血塗れの服で出歩いてはいけないという意識が抜けていた……
頭を掻きむしりながら崩れ落ちるようにしゃがみ込む。
「ダメだっ……私たちはフェーゲフォイアーに毒されている! 潜入なんて無理です」
「ここまで来たのになに言ってるんですか。服なんかどうにでもなりますよ。その辺の神官捕まえて身ぐるみ剥ぐとか……」
「そういうとこ! そういうとこが毒されてるって言ってるんです!」
クソッ、人選をミスったか。もっと隠密行動に長けた勇者を連れてくれば良かった。俺たちだけでは鍵開け一つできない。扉をぶっ壊すことならできるだろうがそれじゃあ目立ちすぎる。
能力を鑑みればルイなんかは適任だったはずだ。まぁアイツは狂っているのでダメだが。ルイには劣るがユライあたりでも悪くなかっただろう。まぁ狂人の世話があるのでダメだが。
それに今更後悔したところでもう遅い。せめて人死にが出ないようにだけ気を付けよう。
諦めにも似た思いを胸に顔を上げる。そこに一筋の希望の光が見えた。
「神官様?」
ふらりと立ち上がる俺にオリヴィエが怪訝な表情を向ける。リエールは無言のまま、顔からスッと表情を消した。足元に広がる影が揺らめいた気がする。多分気のせいだ。
俺はそれを無視して歩き出す。
ツキが回って来た。日頃の行いがようやく実を結んだともいえる。神はまだ俺を見捨ててはいなかった。
妙に懐かしい後姿。実際のところ最後に彼女を見たのはそれほど前ではないのだが。多分“この姿”を見るのが久々だからだろう。
煌めく褐色の肌。魅惑のグラマラスボディ。“元”星持ち勇者の紅一点。俺はその肩に手を置いた。彼女が振り向く。
「なぁに? ナンパなら――」
「元気そうでなによりです、ロージャ」
ロージャが肩越しに琥珀色の目を見開く。震える唇を開閉させたが、「ひゅっ」という隙間風みたいな音が喉から漏れただけだった。まるで通り魔にでも刺されたような顔をして俺を見ている。
「へへ」
“元”とはいえ、隠密行動に長けた星持ちがいれば心強い。
思わぬ再会に俺は爽やかな笑みを漏らした。