「ヘルフリート、馬車を停めて」
「どうした?」
すぐに道脇に寄り、馬の歩みが止まる。
ぴったり横に乗り馬を寄せて、テティスとウィクトルは後ろを窺っている様子だ。
横に身を乗り出して、ヘルフリートが問いかけた。
「何かあったのか?」
「分からん。が、妙な気配がする」
「何だ?」
ヘルフリートは、首を傾げる。
注意喚起の理由は、テティスの勘というだけらしい。
「何――」
「し――向こう、林だ」
「何だ?」
テティスの指す方向へ、ウィクトルの馬が数歩踏み出す。
そこへ。
がさがさと茂みを分けて、白っぽいものが飛び出してきた。
大型の、獣だ。
「何?」
「お前――」
一瞬身構えた護衛たちが、すぐに動きを止めていた。
姿を現した獣が、すぐ道の真ん中に座り込んだのだ。
それは何とも、見慣れた外見で。
「ザム?」
「お前、ザムか?」
「ウォン」
二人の呼びかけに、軽い声が返ってきた。
とたん、馬車側でも警戒の緊張を解いていた。
ウィクトルが馬を降りて、オオカミの頭を撫でている。
「お前、びしょ濡れじゃないか。ウォルフ様、どうします? 馬車に乗せますか」
「そうだな、そうしてくれ」
窓から首を伸ばしていた兄が、怒鳴り返す。
ザムが濡れているのも気になるが、街道にオオカミをそのままにしておくわけにもいかない。
扉を開くと、ウィクトルがザムを押し上げてくる。
騎馬のままテティスが寄ってきて、説明した。
「さっきすれ違った馬車が遠ざかった後に妙な気配がしたのですが、あれを避けてザムが林の中に逸れていたのでしょう」
「ずっと街道を走りながら、誰かに見つかりそうになったら隠れていたわけか。それにしてもザム、何だって追いかけてきたんだ?」
大きな布を被せて兄が濡れた毛皮を拭いながら問いかけても、ザムは大きく尻尾を振っているだけだ。
ウィクトルが肩をすくめて、溜息をつく。
「ウォルフ様に置いていかれると思って、焦ったんですかねえ」
「留守番は、こないだも経験したはずだが」
「こないだが置いていかれて寂しかったんで、今度は我慢できなかったとか」
「うーん……まあ、そんなところか」
納得半分で、兄は首を傾げている。
御者席から、ヘルフリートも苦笑いで声をかけてきた。
「それにしてもウォルフ様、そいつどうするんです? ここまで来て、連れて一度戻るっていう余裕はありませんよ」
「言い聞かせて一人で帰らせるっていうのも、少し無責任だよな。ちゃんと帰るか確認できないし、そこら辺の農家の家を騒がせたりしたら、大変だ」
「ですねえ。しかし、王都にオオカミを連れ込むっていうのも、考えものですよ」
「だよなあ」
大きな溜息で、兄は腕組みをする。
その長考も、溜息とともに終わりにした。
「連れていくしかないだろう。道中、馬車から出さない。王都でも向こうの屋敷から出さないってことにして」
「ですねえ。まあ、それしかないか」
兄の決定に、御者も護衛たちもとりどりに頷いている。
こちらではベティーナが、ごしごしとザムの全身を拭いてやっていた。
「ほらあザム、大人しくしてなきゃ、メッ、ですよ」
「きゃきゃ、ざむ、ざむ」
ザムが大好きなミリッツァは、ぺたぺたと嬉しそうにその毛皮を撫でている。
慌てて、ベティーナはその手を押さえた。
「わ、ミリッツァ様待って。まだザム濡れてますから、冷た、ですう」
「きゃきゃ」
ひと通り拭い終わるまで、僕がミリッツァを抱き押さえていることになった。
再び馬車が動き出すと、何事もなかったかのようにザムは床の上に丸くなってしまった。
「人騒がせして、呑気な奴だな」
「でも、こんなにウォルフ様を慕って、可愛いですう」
ある程度毛皮が乾いたところでミリッツァと僕は撫で回したり乗りかかったりして、残りの道中の退屈をかなり紛らすことができた。
西ヴィンクラー村から王都への旅程は、馬車で一日半を見込む。
王都側から来る場合はロルツィング侯爵領の領都デルツで一泊するのがふつうで、逆に王都に向かう場合は王領北部の宿場町ヘンクでの一泊を予定している。
この日も日没前からかなり暗くなった街道を、ほぼ予定通りヘンクに入った。
ベルシュマン男爵家の定宿だという建物に入り、馬車を預ける。ザムには宿屋の従業員に知られないように車内で荷物と化してもらい、こっそりウィクトルが世話をすることになった。
翌朝はまた、早いうちに宿を発つ。
雨は上がっていたが五の月の終わりとは思えない冷え込みで、僕らは念のためにと用意していた上着を羽織ることになった。
ミリッツァは、僕が秋頃まで着ていた茶色の上着を着せられる。何とも女の子に似つかわしくない地味色だが、いつもにもまして上機嫌なはしゃぎようだ。自分の袖口をくんくん嗅いだり、ぱたぱた僕の腕を叩いたりしてくる。
「もしかして、袖とかにルート様の匂いがついているんでしょうか」
「かもしれないな」
ベティーナと兄は簡単に納得しているみたいだけど。
――妹が変態じみてくるようで、怖い。
僕にとっては初めてロルツィング侯爵領を抜けて王都に入る旅路だけど、前の日は暗くなってほとんど景色も見えず、この日も朝霧で見晴らしは望めない状態だ。
ヘンクの町を出ると、まだ朝早いせいか、他の馬車も人の姿も見えないまま道が続く。
それでもロルツィング侯爵領北部などよりは、ところどころ見える農家家屋の数が多い気がする。このまま家並みが増えていって、大きめの町を二つほど過ぎて王都に至るらしい。
王宮を護るために街ごと高い防護壁で囲まれていて、その壁を抜けるととたんにすごい賑わいになっているんだ、と兄がベティーナに説明している。
この一行の中で、僕とベティーナ(と、おそらくザム)が王都は初めてだ。ミリッツァは王都生まれらしいが、おそらく何も覚えてはいないだろう。
というわけで、ベティーナがそろそろ初めての都会を見る期待に胸の弾みを抑えられなくなっている様子だ。
二度目の兄にしてもやはり同じようなもので、いつになく興奮混じりに声を高めている。
そうしてしばらく進んだところで。
「おや」と御者席でヘルフリートが声を上げた。
両側から護衛たちの馬が寄ってきた。
兄が、前へ身を乗り出す。
「どうかしたのか?」
「何かあったんですかね。どうも、荷車が停まっているようです」