「断――」
「れないから諦めて。末永くよろしくね、デミトリ? 『迷える子羊よ、私と遊ぼう』」
悪神の纏っていた威圧感が増し、こちらに向かって流れ込んでくるような感覚に襲われる。
「何を――」
「デミトリ、大丈夫か!?」
先程まで硬直していた殿下が駆け寄ってくる。急な出来事に反応できなかった俺の横に立ち、悪神に向かって吠えた。
「デミトリに何をした!?」
「あら、ずっと黙ってると思ったら意外と根性があったのね? そういう子は嫌いじゃないわよ」
「くっ、答えろ!!」
震えがまだ収まっていない殿下を見ながら悪神がクスクスと笑う。
「愛し子の加護を授けただけだから心配しなくても良いわよ? これでデミトリは正式に私の愛し子第一号ね」
俺の顔から左手を離し、親指を上げながらドヤ顔で言い切った悪神に殿下が意味が分からないと言った様子で困惑する。
――愛し子か……確かグローリアが物語の中で俺は命神の愛し子だったと言っていたが……
理不尽に呪い、あの家に転生させた存在の愛し子になっている事を想像しただけで虫唾が走る。
「トリスティシア……様――」
「トリスちゃんとティシアちゃん、デミトリはどっちの方が好みかしら?」
期待を込めた眼差しでこちらを見るトリスティシアに発言を遮られてしまった。
――くっ……一旦この場は収まったが、無暗に刺激しない方が良いな……
「……ティシア、ちゃん……」
「ふふ、なーに?」
「確認したいんだが、複数の神の愛し子になる事はあり得るのか……?」
質問をした直後、トリスティシアが眉を八の字に下げながら首を傾げた。
「悪い子だと思ってたけど、私の愛し子になったばかりなのに早速浮気しようとしてるの?」
「!? ちが――」
俺の顔に未だに添えていた右手を引き戻し、手で口元を隠し腹を抱えながらトリスティシアが笑い出した。
「ふふ、冗談よ。命神のことでしょう?」
ひとしきり笑い、目じりに溜まった涙を拭いながら的確に俺の考えていたことを言い当てたトリスティシアに困惑する。
「何故……」
「ごめんね? さっき魂を覗いた時色々と見ちゃったの」
――あの時か……
急に名乗ってもいないのに名前で呼ばれ、魂を求められたのはあの心を暴かれたような奇妙な感覚に襲われた後だった。
「あなたは命神の愛し子じゃないし、私の愛し子になったから他の神の愛し子になってしまう事もないわ。末裔君の婚約者ちゃんが知ってる物語は、あくまであり得た世界線の一つなだけ」
「そうか……良かった……」
愛し子が具体的に何を意味しているのか分からないが、拒否権が無いのであればせめて他の神……特に命神に勝手に愛し子にされないだけ得をしたと考えるしかないだろう。
「デミトリ……」
「殿下、多分大丈夫だ」
「……私の愛し子になって『良かった』って感想が出るなんて、本当に面白い子ね。色々と気になる事があると思うけど……二人は王城に向かった方が良いんじゃないかしら?」
トリスティシアがそう言いながら指を鳴らすと異空間に大量の罅広がり光が差し込む。眩しさに目を細めていると異空間が崩壊してゆき、いつの間にか大聖堂に戻っていた。
「あー……ティシアちゃん?」
「末裔君はせっかく九死に一生を得たのに死にたいのかしら?」
「っ、トリスティシア様!!」
不快感を露にしたトリスティシアに対して、アルフォンソ殿下が慌てて敬称を付けて呼び直す。
「……何かしら?」
「その……ラベリーニ枢機卿の死体を譲ってもらえないか?」
「あら、それは私と取引をしたいって事?」
妖しく笑うトリスティシアがどこまで本気か分からないが、アルフォンソ殿下に何かされるわけにはいかない。
「ティシアちゃん……! 俺からも頼む。今回の件の首謀者が討たれた証拠が無いと、色々と面倒な事になる」
はっきりと愛称で呼ばれたトリスティシアが、満面の笑みを浮かべた。
「ふふ、愛し子にお願いされたら仕方がないわね。魂は地獄に堕としたから抜け殻だけど、これでいいかしら?」
「うっ……!? そ、その状態で、問題、無い」
トリスティシアの横に現れた闇の中から、全裸のラベリーニ枢機卿が放り出され大聖堂の絨毯の上を転がった。死体は人体の可動域を無視してまるで絞った雑巾のように捻じられ、壮絶な痛みで歪んだ枢機卿の表情に頬が引きつる。
――辛うじて顔見知りであれば、かつて枢機卿だったと気づけるかもしれないが……
首謀者の首なしに事態を収められないと思った殿下の考えは理解できるが、果たしてラベリーニ枢機卿の亡骸がその役割を果たせるのか疑わしい。
殿下が枢機卿の悲惨な状態を目の当たりにして狼狽えている内に、枢機卿を収納鞄に仕舞った。
「俺達はこのまま王城に向かうが……ティシアちゃんは……?」
「私もやらないといけない事があるから後で合流しましょう? その前にちょっとこっちに来てくれないかしら?」
――今度は一体何だ……?
身構えながら手招きをするトリスティシアの元まで一歩近づく。
「えいっ」
「な!?」
「デミトリ!?」
目にもとまらぬ速さの突きで胸元を貫かれ、体から何かを抜かれた。あまりにも一瞬の出来事で反応できず、慌てて体を確認するが傷がない。
痛みを感じなかったことに違和感を覚えてトリスティシアに視線を移すと、彼女の手の中に見覚えのある光が握られていた。
「ラス!?」
「ちょっと鍛冶神の所に連れて行くわ。それじゃあまた後でね」
「待っ――」
咄嗟に手を伸ばしたが待ってくれと言い切るよりも早く、トリスティシアは闇の中へと消え去ってしまった。