それは、トールたち上級冒険者が集団野営地で暮らすのを嫌って、自分たちは寡兵でも問題はないからと、カレンや貴族たちが密集する岩場を離れている時に起こった。
まずは地響き。そして、ほどなくして空気が震えるような咆哮が響き渡った。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
「あれは……エルダートレント!?」
野営地に残っているDランク冒険者のうちの誰かが叫んで息を呑んだ。
「十階層のボスがなんで八階層にいるんだよ!?」
それは巨大な木の魔物だった。生い茂る葉、鈴なりの赤い実。大きな洞が口のようにぽっかり黒々と空いていて、そこから恐ろしげな叫びを上げている。
岩を越えることは本来魔物にさえできないはずなのに、狭い道を通ることのできない巨大な木の形をしたエルダートレントは、太い根をうねうねと動かし岩場を乗りこえてこちら側に猛然と向かってくる。人が多いせいだろうか。
魔物による階層の越境。
その要因はカレンが知る限りにおいては、大崩壊しか考えられない。
次の瞬間、エルダートレントが頭をブンとしならせるようにして振った。
「避けろ!」
冒険者の誰かが叫ぶ。反応できないカレンの体を誰かが抱えて飛び退いた。
次の瞬間、エルダートレントの木の実が大砲のように野営地に降りそそぎ、着弾したヴァルトリーデの天幕が一瞬にして燃え上がった。
「ヴァルトリーデ様!」
「お助けに参りましょう!」
カレンを助けたテレーゼが言う。
カレンたちは礼を言う間もそれを受ける余裕もないままに走った。
「ヴァルトリーデ様! 大丈夫ですか!?」
「意識がない……! 治癒魔法を使いますわ!」
天幕はひしゃげて燃え上がっていたが、ヴァルトリーデのいた場所は無事だった。
椅子に座った格好でヴァルトリーデは気絶していた。
見た目に怪我はないので、魔物の咆哮かトレントの実の着弾に驚いて気絶したものと思われる。
テレーゼが治癒の魔法を使うが、ヴァルトリーデは青ざめた顔で目覚めない。
「気付けの魔法を使います」
「いえ、ヴァルトリーデ様はこのままにしておいてください」
カレンは反射的に言った。十階層のボス。明らかにまずい魔物が現れた。
ヴァルトリーデはそれを知らないまま気絶したままでいる方が幸せだろう。
起きてしまえば王族であるヴァルトリーデは最前線に立たされかねないが、立つことはできない。
そんなカレンにテレーゼが軽蔑の眼差しを送った。
「このような時に何を言っているのですか? カレン様。もしや、王女殿下に嫉妬しておいでなのですか?」
「え? 嫉妬?」
「王女殿下はユリウス様との噂があったお方ですから、心やすからぬ気持ちがあるのはよくわかります。ですが、非常事態なのですよ」
嫉妬でカレンがヴァルトリーデを危険に晒そうとしていると思われたらしい。
しばしポカンとしたカレンが弁解の言葉を口にする前に、別の人間が反論してくれた。
「カレン様のおっしゃるようにしてくださいませ、テレーゼ様」
「そうですわ。カレン様のおっしゃるようにするのが、この場合は正しいのです」
「イルムリンデ様? ドロテア様?」
「護衛の冒険者であるあなたが知る必要のない、様々な理由があるのですよ、テレーゼ様。殿下の専属錬金術師であるカレン様のお言葉に従ってください」
ヴァルトリーデは面と向かって秘密を教えはしていないらしいものの、イルムリンデやドロテアたち側近の侍女たちにはなんだかんだ言って色々とバレているのだ。
彼女たちから見ても、ヴァルトリーデは気絶させておく方がいいのだろう。どうせ何もできないということをよくわかっているらしい。
イルムリンデがヴァルトリーデをシーツで包んで抱える。ドロテアが最低限の貴重品を箱に詰めていく。カレンも最近住み着いていたヴァルトリーデの天幕に散らばった仕事道具をかき集めた。
手早く作業をするカレンたちの姿を見守りつつ、テレーゼは頬を赤らめてうつむいた。
天幕を順番に出る中、テレーゼが小さな声で言った。
「……私、何か勘違いしていたようですわね。申し訳ございません、カレン様」
カレンは肩をすくめた。
「非常事態ですから、気が立つのも無理はないですよ……さっきは助けてくださってありがとうございます、テレーゼ様」
「いえ、仕事ですもの……」
モゴモゴと言うテレーゼたちと後方に下がっていく。
無力な使用人たち、怪我人たちと共に、安全を確保できる場所までヴァルトリーデを運んだあと、カレンは自分の仕事をはじめた。
カレンは錬金術師。錬金術でポーションを作るのが仕事である。
「カレンちゃん! やっぱりここにいたか。無事で何よりだ」
「セプルおじさん!」
セプルはカレンの安否確認をしてほっとした顔をすると、手に持っていた鍋をどかりと置いた。
「ポーションを作るんだろ? この鍋を使っていいってよ」
「ギュンターさんもあの集団の中にいるの?」
セプルがカレンに差し出したのは、カレンがカレーを作る時に使わせてもらった巨大な白銀の鍋――恐らくは、ミスリル製だ。
錬金釜ではないが、錬金術の魔力効率は恐ろしく上がるだろう。
「ああ。ギュンター以外のCランクはみんなあっちに野営地探しに行っちまってるけどな」
「ありがとう、使わせてもらうね」
「おう。まるでトールたちがいなくなったのを見計らったように現れやがったよな、エルダートレント。そもそもなんでこんなとこにいるんだっていうよ」
「うん。セプルおじさん、気をつけてね」
「俺はCランクに成りかけのDランク冒険者だぜ? エルダートレントぐらいちょちょいのちょいよ」
本当にちょちょいのちょいなら、セプルはすでにCランクに昇級しているはずだ。
カレンは止めどなくあふれる不安を訴えかけたくなる気持ちをぐっと飲みこんでセプルを見送った。
即席の竈を作って、セプルが持ってきてくれた鍋を置く。
カレンにできることは錬金術師として、ポーションを作ることだ。
薬草ならそこら中に生えている。
慣れた作業をしながらカレンは前線の様子をうかがった。
前線に出ているのはDランクの冒険者たちと王国騎士たちだった。
「しばらく耐えろ! 耐えれば上級冒険者が戻って――!」
ギュンターが言いさした言葉は、遠くから聞こえた轟音にかき消された。
カレンの記憶が正しければ、轟音の方角は、トールたちが野営地を張ろうと向かった方角である。
あちらはあちらで何かが起こっている可能性が高い。
カレンだけでなく、誰もがその可能性に一瞬で気づいた。
「おい騎士ども! もし火が体についたら! 息を止めて後ろに下がれ! 服を脱げ! 土を転げ回れ! どっか行くなよ! ここにいれば俺たちが火を消してやる!」
セプルが誰よりも早く気を取り直し、指示を飛ばしはじめた。
「まずは枝を落とすぞ!」
「葉に触れるなよ! 怪我するぞ!」
ギュンター、セプルが指示を飛ばす。
ダンジョンの魔物に慣れた冒険者の指示だ。
騎士たちも、誰もそれに意を唱えようとはせずうなずいた。
ここに例の近衛騎士たちがいたら混乱は必至だったろう。いなくてよかった、とカレンは改めて胸を撫で下ろした。
しかし、安心するにはまだ早い。
エルダートレントは討伐ランクCの魔物だ。
冒険者の推奨ランクも当然Cだ。
しかも、パーティー以上での討伐を推奨されている。
Dランクの冒険者たちには荷の重い魔物だった。
そうなると、頼みの綱は騎士たちになる。
「テレーゼ様、騎士の強さって、冒険者のランクで言うとどれぐらいなんですか?」
「貴族の騎士団のほとんどはDランク以下ですわ」
傷病者の怪我を魔法で癒やしながらテレーゼが応えた。
カレンは巨大な鍋の隅々まで魔力をこめつつ、きょとんとした。
「え……そうなんですか?」
「もっと強くなるために、私は冒険者の道を選んだのですもの」
テレーゼの即答にカレンは目が点になった。
「じゃああれ、倒せなくないですか?」
エルダートレントの討伐ランクはC。しかも、エルダートレントの大きさによっては、クラン単位での討伐が推奨されることもある。
Cランクの冒険者が一人いても、倒せるものではない。
だから、エルダートレントのいる十階層を超えると冒険者はパーティー単位でCランクに昇級するのだ。
「討伐自体は可能だと思いますわ。彼らが倒すとなると被害は覚悟しなければなりませんが」
テレーゼは青ざめた顔をして、食い入るように入り乱れる討伐者たちの奮戦を見ていた。
その横顔を見て、カレンは思いだした。あの中にはテレーゼの実家であるフォラント男爵家の騎士団も参加しているのだったはず。
命がけの戦いに挑む者たちの中にいる知人や友人、もしかしたら家族を、青い顔で見つめつつ「でも」とテレーゼはつぶやいた。
「あっ」
テレーゼの続く言葉を、カレンはつい声をあげて遮った。
「ユリウス様!」
「――ええ、そう、私たちにはユリウス様がいますもの」
二十階層あるエーレルトのダンジョンを攻略した、Bランク相当の実力を持つエーレルトの騎士、ユリウス。
姿が見えないと思ったら、カレンが気づいた時にはエルダートレントの眼前にユリウスが立っていた。