「この扉の鍵は常にかけておくようにしておいてくれ」
喜色満面で部屋を探検していたカレンに、ユリウスは内鍵のついた扉を示して言った。
「この扉の向こう側には、夫婦が共に使う部屋がある。私の部屋ともつながっているのだよ。さすがに、まだ結婚もしていないうちから使うものではないからね」
「キャーッ!」
「喜び勇んで開けようとするのではないよ、カレン」
「今はセプルおじさんとウルテもいますから! ねっ!」
目を輝かせて扉に取りつこうとするカレンを押しとどめていたユリウスは、のんびりとソファに座って部屋にあったブドウ酒を飲んでいる二人のサポーターを見やって呆れた顔をした。
「君たち、それでカレンを守れると?」
「イチャついてる姪っ子みたいなカレンちゃんとあんたの間に割って入れと? 勘弁してくれ」
「夫婦の寝室にまで入ってサポートしろとでも? アハハハハハ!」
ウルテは膝を打って笑っている。酒に弱いのかもしれない。
「ユリウス様、見るだけですから! ちょっと探検するだけですからっ、ねっ?」
「仕方ないな。くれぐれも普段は鍵をかけておくのだよ? 決して中に入ったり、まして鍵を開けておくことなどないようにしてほしい」
改めて前置きをすると、ユリウスはカレンが夫婦の部屋に入るのを許してくれた。
カレンはしゃいで内鍵を開けて中に入った。
その部屋は廊下の突き当たりにある部屋で、向かい合ったカレンとユリウスの部屋とそれぞれつながっていた。
カレンの部屋にあったものより大きな天蓋付きのベッド、暖炉や居心地のよさそうなソファ。
それと――。
「わたしとユリウス様の、肖像画……」
去年、エーレルトの画家イリーネに書いてもらったのと似ているが、違うものだった。
「わたしの服、錬金術師の服装になってる……?」
以前に書いてもらったユリウスと寄り添うカレンの絵は、ドレス姿だった。
新年祭に出席する時にはエーレルトが用意してくれたドレスを着ていたので、それしか見ていないイリーネはカレンをそのまま描いたのだ。
だが、寝室にかけられた絵の中のカレンは錬金術師の服装で、ユリウスは騎士服を身につけている。
「この服装がもっともカレンらしく、また私らしいとも思ったのだよ」
そう言って、ユリウスは悪戯っぽく微笑んだ。
「気に入ってもらえただろうか?」
「……とっても!」
錬金術師である自分こそがもっとも誇れる自分であり、そんなカレンだからこそユリウスは側にいて、共に戦おうとしてくれている。
二人がそれぞれ別の服が似合うような人生を送っていたなら、決して出会うことはなかっただろう。
カレンはしばらく肖像画に魅入っていた。
最後に、ユリウスはもう一つの扉を示した。
「こちらの扉は私の部屋に続いている。――私の方には鍵がないのだよ。だからいつでも開いてはいるが、決してこちらから訪ねてはこないように」
「わたしが鍵をかけなくたって、そもそも、ユリウス様が入ってこなければいいだけじゃありませんか?」
「……魔力酔いしている時の自分の理性を信じられないのだ。君も知っているだろう?」
「キャーッ!」
「カレン、そこは歓声をあげる場所ではないよ」
ユリウスはカレンの頬をむにっとつまんだ。
痛くはないものの強制的に変顔にさせられ渋い気持ちになるカレンに、ユリウスはくすりと笑った。
「君を大事にしたいと願う私のために、厳重に身を守ってほしい」
影のある微笑みを浮かべるユリウスに、頬を解放されたカレンは緩んだ口許をきゅっと引き締めた。
「君の言う通り、私が自制すればよいだけの話だというのにすまないね」
ユリウスは綺麗すぎる笑みを浮かべた。まるで内心を押し隠そうとするかのように。
カレンはもう、その美しさにコロッと誤魔化されることはない。
けれどユリウスの笑みを見上げ、カレンはその笑みに見惚れるふりをしてあげた。
誤魔化そうとしているということは、知られたくないと思っているのだろうから。
カレンにとってはどちらに転んでも問題はない。
だが、ユリウスにとっては理性を失った自分が理想とかけ離れた行いをしてしまうのが、耐えがたいのだろう。
「ユリウス様がそう言うなら鍵はかけておきますね。ただ、別に平民は婚前交渉とか普通ですけどね。ねー? 授かり婚のセプルおじさん」
カレンは軽い口調になるように努めつつ、隣の部屋で待つセプルに語りかけた。
今後何があろうと、ユリウスが傷つくことがないように。
カレンたちが寝室から戻ってくると、セプルは頬を掻きながら言った。
「やけに小綺麗な言い方だが、まあ事実だな」
「確かに、あたしも結婚の方が後だったねえ。結婚した後に相性が悪いだなんてわかっても困るからね」
「まあ、結婚する前に相性は確かめておいた方がいいよなぁ?」
ウルテとセプルが平気な顔で答えるものの、冒険者は平民の中でも身持ちが悪い方である。
だが、ユリウスの耳にはそれが平民の普通であるかのように響いたようで、ユリウスは顔色を変えた。
「確かめた上で相性とやらが悪かった場合には、婚約していても破談になってしまうということかい?」
「そりゃあそうだろうね」
「じゃなきゃ確かめる意味がないだろ」
「――君たちにとってそれが普通だというのであれば尚更、結婚まで決してカレンに手出しはすまい」
「それって結婚したらそう簡単には破談にできないからって意味ですか?」
つまりは逃がさないということ。
それだけ愛されているという意味で、キャッ、と黄色い声をあげるカレンに、ウルテが眉をひそめた。
「あんた、カレンを大事にしたいんじゃないのかい? それなのに簡単には離れられないようにカレンを囲い込もうだなんてどういうつもりだい? もしもあんたの男性機能に何か問題が――」
急に音が聞こえなくなったと思ったら、セプルがそっとカレンの耳を塞いでいた。
ウルテがカレンのためにユリウスに何事かをガミガミ言っているようで、ユリウスはそれにタジタジしている。
やっとカレンの耳が解放された時には、二人の言い合いは終わっていた。
ウルテは鼻息荒く、ユリウスは疲弊した顔つきである。
「カレンちゃんには刺激が強すぎる話だったからな」
「わたしもう成人してるよ? 新年で二十歳なんだけど??」
「カレン」
扱いの不当さに文句を言おうとしたカレンの名を呼んだのは、困惑顔のユリウスである。
「貴族と平民の常識の違いがあることはよくわかった。だが、私はやはり私の認識で、君を粗雑に扱っていると感じるようなことはしたくはないのだ。理解してもらえるだろうか?」
「はいっ! 大丈夫ですよ!」
「無論、君にばかり我慢をさせるつもりはない。君の不安を払拭できるよう、その時が来れば私はあらゆる努力を尽くすと約束する」
「どう転んでも美味しい未来……!」
自分こそ不安そうに眉をひそめていたユリウスだったが、全身で喜びに打ち震えるカレンを見下ろして眉間のしわをほどいて微笑んだ。
ユリウスの葛藤や苦しみとは無関係なところで勝手に幸せになっているカレンを見て、ユリウスは安心した顔になっている。
そんなユリウスを見上げて、カレンはきちんと鍵をかけようと胸に誓った。
カレンの中に静かな決意も生まれた。
ユリウスとの婚約からの結婚をつつがないものとするために、あらゆる傷害を排除したい。
--まずは、騎士団。
「ところで、カレンは私の部屋にも興味があるのではないかな?」
「もちろんですっ!」
「サポーターがいる昼間のうちに見ていくといい」
カレンの好奇心は止められないと観念したらしいユリウスに招かれて、寝室側からではなく廊下を渡って向かい側からユリウスの部屋を訪ねた。
そうしたら、あまりにも堂々と巨大な肖像画が飾られていた。
「ギャッ!? これって、わたしの描いたユリウス様!?」
一輪の薔薇を手に持ちウィンクするユリウスであるはずである。
一年前にはもっとマシな出来映えに見えていたのに、一年を経たあとで見てみるとこの絵の中の登場人物が全身の骨を骨折していることは疑いの余地もない。
「今すぐ! 下げてくださいっ!! 悪夢を見ますよ!?」
「それがむしろ、この絵を見るとよく眠れてね……あははは、ははははははは!」
「何を笑ってるんですかねえ!?」
「ふっ、くくっ。君のその顔を見られたからだよ、カレン」
誰かが廃棄処分をしてくれたのだろうと思っていた肖像画は、ユリウスの手に渡っていたらしい。
つい先程まで暗い顔をしていたくせに、悪戯を成功させ、何とも明るい顔をして笑っているユリウスに、カレンはかつて顔を近づけられた時のように何も言えなくなってしまった。