「カレン、ここは私に任せてくれ。直接私が断りを入れて来よう」
ユリウスはカレンを追いかけてきていたらしい。
そして、令嬢たちの会話も聞いていたらしかった。
「他領の令嬢からのハンカチだって受け取っていないよ、カレン」
ついカレンは怪しむような顔をしていたらしい。
ユリウスは空の手のひらをカレンに向けた。
ロジーネはハンカチを受け取るのがマナーであり、受け取ることがユリウスの処世術だと言っていた。
なのにカレンのせいで処世の邪魔をしてしまったのかと、今更カレンは焦りはじめた。
「本当に大丈夫なんですか? あの、ユリウス様が困った立場に置かれませんか?」
ユリウスは慌てるカレンにくすりと微笑んだ。
「大丈夫だよ、カレン。私は、エーレルトに受け入れてもらうために足掻いては、誤解を生んでいた頃の愚かな私とは違う」
ユリウスにとってエーレルトの社交界に受け入れてもらうために、その容姿は強力な武器となっただろう。
だが、そのせいで多くの女が惑って『ダンジョン連れ込み事件』だなんて冤罪を着せられてしまった……そういう節は、確かにあったのだろう。
子どもの時の自分を愚かと言うユリウス。
幼さゆえの過ちすら許されなかった頃のユリウスのためにカレンがむっと不服をあらわにすると、ユリウスは眩しげに目を細めた。
「私はもう、私のすべてを受け入れてくれるカレンさえいてくれればそれでいい」
顔を近づけられて、きらきらしい笑みと甘ったるい声でささやかれる。
カレンはぐっと下っ腹に力を込めた。
最近、ユリウスの顔には慣れてきていたはずだがいつも以上の破壊力である。
カレンは辛うじて正気をとりとめると、ユリウスがオティーリエのもとに歩み寄っていくのを見送った。
ユリウスがオティーリエにどんな対応をするのか、物陰からお手並み拝見である。
カレンの背後ではペトラがおののいていた。
「なんて顔をするの、あの男……! 人生が持ってかれるわよ、あんなのを直視したらっ!」
「あの顔のユリウス様を見てその感想を抱けるペトラ様は、カレンさんの案内係として優秀ですわね」
頭を抱えるペトラは青ざめているし、そんなペトラを呆れ顔で見やるロジーネの方も冷静である。
ペトラはともかくロジーネもユリウスに惚れているわけではないらしい。
カレンはほんのわずかにほっとしつつ、ユリウスに意識を戻した。
「君たち、話は聞かせてもらったよ」
「ユリウス様……!」
ユリウスに声をかけられた令嬢たちは、まずいことを聞かれてしまったという態度ではなかった。
恥じらいながらも、申し出が受け入れられることを疑っていない。
カレンが物陰からオティーリエたちを睨んでいるのを見て、ペトラが眉を跳ね上げた。
「もしかしてあなた、末席の妻がどういうものか知らないの?」
「どういうもの、って?」
敬語すら省いてカレンはじろりとペトラを見やる。
ペトラはまた眉をピクピクさせつつも、やがて溜息を吐き口許に手を当ててささやいた。
「末席の妻って、夫とその第一夫人に忠誠を誓う召使いのようなものよ? 妻としては何の権利もない存在なんだから、そんなに怒るようなことじゃないでしょ?」
「……なんですか、それ?」
「お二人とも、お静かに。オティーリエ様がユリウス様に末席の妻の申し入れをされるようですわ」
ペトラの言葉に怪訝な顔をしつつも、ロジーネに促されてカレンは口を噤んだ。
オティーリエが何を言うつもりなのかは、カレンもしっかり聞いておきたい。
「わたくしオティーリエ・ベルと申します。ユリウス様はすでにわたくしの気持ちをお聞きのようですので、端的に懇願させていただきますわ。どうかわたくしをあなた様の末席の妻にしてくださいませ」
「断らせていただく」
一刀両断されたにもかかわらず、オティーリエは一方的な求婚の申し出をした自分を恥じるどころか、ひどく不思議そうな顔になる。
「どういう意味でしょう? わたくしがユリウス様の末席の妻となることは、ユリウス様やいずれ第一夫人となられる――カレン様にとっても、利益となりますでしょう?」
「私はカレン以外の妻を持つつもりはない。たとえ末席の妻としてでもだ」
「末席の妻は、実質的には妻ではございません。ユリウス様もご存じでしょう?」
「だが、私の妻の名を冠することに代わりない。私はそのような者を持つ気はないのだ」
ここでようやく、ユリウスが本気でオティーリエを末席の妻にするつもりがないと気がついたらしい。
途端に弛緩していたその場の空気が凍りつき、オティーリエを囲う令嬢たちが顔色を変えた。
「末席の妻の申し出を断るだなんて……!」
「オティーリエ様は、ベル伯爵家の娘ですのよ?」
「罪人との関わりがあったからといって……エーレルトの古くからの臣の娘ですのに……!」
「オティーリエ様は平民の下についても構わないとおっしゃっているのですよ!?」
まるでユリウスが非常識な振る舞いをしたかのように、令嬢たちは批難の眼差しと言葉をユリウスに向ける。
カレンはぽかんとした。
批難の眼差しがカレンに向くのなら、平民のカレンが侮られているということで理解できる。
だが、完全無欠の貴族と信じられているユリウスがどうしてそんな眼差しに晒されることになるのだろうか。
ただ、受ける気になれない求婚の申し出を断っただけだ。
ユリウスの第一夫人になる予定なのがカレンという平民だから、というには、彼女たちの批難はまっすぐにユリウスに向いている。
意味がわからず目を白黒させるカレンに、今度はロジーネが耳打ちした。
「末席の妻とは殿方にすべてを捧げてお仕えするという、戦う力のない女性なりの、騎士の誓いのようなものですわ」
「女性版の騎士の誓い……?」
「ええ、そうです。もちろん家格が違いすぎれば話は別ですが、同格の家の令嬢からの末席の妻となりたいという申し入れは、深い忠誠心の表れです。これを断ることは、騎士の誓いを断るのと同じぐらいの非常識な振る舞いとなるのです」
「ハンカチの受け取りを拒むのとどっちが非常識です?」
「ハンカチなどとは比べものにならないほど、ですよ」
ロジーネが少し呆れた顔をする。
カレンがあまりに物を知らないので驚いているようだったが、カレンをバカにしているという様子ではない。
「女でも戦う力があれば騎士になって、騎士の誓いはできるのよ。女が忠誠を誓いたい時に、誰もが末席の妻になるわけじゃないわ」
ペトラはロジーネの説明に付け加えた。
「オティーリエ様は騎士にもなれる実力のある魔法使いだから、そういう女が末席の妻になるって申し出るのは、更に深い忠誠心を示しているのよ。彼女を末席の妻にできるの、かなりお得よ? 断るだなんてもったいないわ。私が末席の妻に欲しいぐらいよ」
「ペトラ様、さっきは関わらない方がいいって言ってましたよね?」
「あら、末席の妻なら別よ。勝手な真似はできないよう、魔法契約で縛っておけばいいんだもの」
そう言って、ペトラは酷薄な猫のような顔をする。
ペトラの冷笑を見たカレンは思いだした。
そういえばカレンは以前、ライオスの末席の妻とやらにさせられそうになったことがある。
頭に血が上っていてカレンはすっかり忘れていた。
平民は基本一夫一妻だが、法律的に禁じられているわけではないので、平民でも金持ちは二人目三人目の妻を持つことがある。
だからライオスに末席の妻になれと言われた時には、立場の低い妻にさせられそうになっているのだと解釈していた。
まさか、ライオスに忠誠を誓わせられそうになっていたとは思わなかった。
あの時は確か、マリアンの勧めだと言っていたはずである。
商家は貴族と関わるので、貴族の文化を踏襲することがある。
カレンを末席の妻にするという案は、マリアンが持ち込んだ貴族の文化だったのだろう。
騎士の忠誠の誓いと扱いが似ているが、騎士の誓いよりも格が低いらしい、末席の妻。
「もしかしてカレンさん、彼女が魔法使いだとご存じないから断ろうとなさったの?」
「役立たずでも伯爵令嬢だし、忠誠を誓わせたらあなたにとってはきっと便利よ? 今からでもユリウス様を止めてきたら? そもそも、なんでユリウス様は嫌がってるわけ?」
ペトラやロジーネはカレンを平民だと軽んじているわけではないのかもしれない。
どうやら末席の妻というものは、持ちたいと思うのがここでは常識のようだった。
持ちたくないと主張するユリウスが非常識だと批難されてしまうくらいに。
一体どういう存在なのか――カレンが戸惑っているうちに、オティーリエは周囲の令嬢たちを鎮め、ユリウスに向き直ると平静さを保って問い質した。
「どうして断られるのか、理由をお聞かせくださいませ」
「末席の妻を持てば、私はカレンが末席の夫を持つことを止められなくなる」
ユリウスの答えに、オティーリエだけでなくその場の大半が目を丸くした。
「だから私は末席の妻を持つ気はない」
カレンだけはユリウスの言わんとしていることを察した。
以前、カレンはユリウスにされたことをやり返したことがある。
他の女と関係を隠してやけに親しくするユリウスに対抗し、カレンも他の男との関係を隠して親しげに振る舞った。
あの時のユリウスは激怒していた。
自分だって同じことをしたのに、自分の行為がカレンに嫌な思いをさせていると気づいてすらいなかった。
あの時カレンがべたべたして見せたその男は弟のトールだったので、当然カレンは無罪である。
末席の妻が貴族にとってなんであれ。
どうも、あの時の出来事が今、利いているらしかった。