「う……うぅ……ひぐっ……」
――チョロロ。
ガタガタと震える、ラファエロの細く白い足。
その太腿の表面を、湯気を帯びた液体が滴り落ちる。
二~三本の水筋がきめ細やかな肌に沿って流落し、足元の水溜まりが徐々に大きくなっていく。
だがおそらくラファエロ自身、自らのプライドが最も惨めな形で決壊していることの自覚すらないだろう。
己が有り様を見つめ直す心理的余裕なんて一ミリもないと、恐怖に歪んだ表情が物語っている。
そんな奴の姿を、俺は気の毒だともかわいそうだとも思わない。
ああ――ようやく〝折れた〟か、と。
俺が思うのはそれだけだ。
「ひぅ……ひぐっ……! ご、ごべ……ごべんなざい……! もう……もう許じで下ざいぃ……!」
嗚咽を漏らし、壁に背をもたれながら謝罪するラファエロ。
俺が何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も斬っては治し、斬っては治癒し、時々魔法でぶっ飛ばしては息を吹き返させ、さらに斬っては――を繰り返したお陰で、奴の衣服はもうボロボロ。
上半身なんてほぼ布が残ってなくて、ほとんど裸と変わらない。
文字通りの〝ボロ雑巾〟状態だ。
っていうかコイツ、こんな女の子みたいなほっそい身体で鉈振り回してたんだな。
マジでどういう鍛え方してんだか。
それに俺相手に約一時間〝折れなかった〟という点も、流石はレクソン家の人間だと評価してやってもいいかもな。
――ま、念のため最後にもうひと押し。
俺は剣を手にしたまま――コツ、コツと足音を立てて、ゆっくりとラファエロに近付いていく。
「ひっ……!?」
もう手で触れられるくらいの距離。
ラファエロを照らす月光を、俺の身体が完全に遮る。
俺の影が、小柄なラファエロを完全に覆い隠す。
今の俺は、まるで子ウサギを壁際まで追い詰めた肉食獣のように見えることだろう。
ガタガタ、ガタガタと先程にも増してラファエロは震え上がり、戦慄する。
まるで今際の際であるかのように。
俺はそんな子ウサギを上から見下ろし、
「……もう二度と、エイプリルやマティアスにちょっかいを出さないと誓うか?」
「ち、ちちち誓いまず……ッ!!!」
「じゃあもう一つ、二度と俺とレティシアの甘いひと時を邪魔しないと誓えるか?」
「誓いますッ!!! も、もう二度と、あなだ様にば逆らいまぜん……ッ!」
「よし」
ま、こんなモンだろ。
俺はクルリと180度方向転換し、
「お前の姉ちゃんが言ってた〝世の中の怖さ〟ってのが、よくわかっただろ」
剣を鞘に納めつつ、ラファエロから離れる。
「世の中なんてのは、面倒でバカバカしくて、上手くいかないことなんて山ほどある。それにお前より強い奴なんざゴマンといる」
そう言いながら、床に横たわるエイプリルの方へと歩み寄る。
そして気絶した彼女を抱きかかえ、
「お前、筋は悪くないよ。だが幾らなんでも世間を舐め過ぎ。今回は世間の広さを知るいい機会になったと思って……ちっとはストイックに自分を鍛えてみるんだな」
それこそカーラみたいによ――と言い加え、俺は倉庫を後にしようとする。
あーあ、終わった終わった。
帰ったらレティシアに褒めてもらおう、そうしよう。
それからそれから、あの綺麗なドレス姿を堪能して――。
などと夢想を巡らせていた俺だったのだが、
「――失敬、少々お待ち頂けぬかな?」
突如――目の前に、渋いおっさんの顔が現れた。
しかも、天地が逆さまになったおっさんの顔が。
「うおわあああああああッ!?」
「失礼、驚かせるつもりは少ししかなかったのだが」
黒眼鏡をかけ、長い黒髪を後頭部で大雑把に結わえた謎のおっさん。
このおっさん――宙に浮いてる。
それも直立姿勢のまま逆さまになって、むんずと腕組みをしたまま微動だにしない。
いや、だけど、そんなことはどうでもいい。
全く――全く、完全に、完璧に、気配がなかった。
俺は話しかけられて、今ようやくおっさんの存在に気が付けたのだ。
いつ――?
いったい、いつの間に――!?
いつの間に接近されていたのか、まるでわからない……!
俺の中に、久しく感じていなかった感情が去来する。
それは――焦り。
信じられないが――コイツ、俺の背後を取りやがった……!
幾らラファエロを相手にしていたとはいえ、このおっさんが近付いてきたことに完璧に気付けなかった。
つまりそれは、今の今まで背後を取られていたってのと同義。
気配を消す技術に関しては、カーラすらも上回っているだろう。
いや、それどころか、俺がこれまで見てきた誰よりも――。
この渋いおっさん……何者だ……!?
「そう警戒しないでほしい。俺は貴殿に謝りに来たのと――」
全身真っ黒の忍装束をまとい、首に鮮血のような真っ赤なマフラーを巻いたおっさんはヒラリと宙返りし、地面に着地。
「そこで震えてる、愚息を迎えにきただけだ」
「愚息……? ってことはアンタ、まさかレクソン家の――!」
「俺はバスラ・フィダーイー・レクソン。国王の懐刀にして、ヴァルランド王家が唯一正式に認可する暗殺一家……その当主を務めている」
自らを暗殺一家当主と名乗った、バスラというおっさん。
彼はうやうやしく頭を下げ、
「この度は愚息が多大な迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳ない。一保護者として謝罪させてほしい」
「は、はぁ……」
「それと、あのアルバン・オードラン男爵が直々に〝教育〟を施してくれたことを嬉しく思う。正直、あやつには苦い薬が必要だと思っていたのだ」
いい教訓になったことだろう、と言葉を続けたバスラはラファエロへと近付いていき、
「パ……パパ……!」
「帰るぞ、このバカ者め。レクソン家の教義と暗殺者とはなんたるかを、一から叩き込んでくれる」
ヒョイッとラファエロを持ち上げ、肩に担ぐバスラ。
ラファエロはバタバタと暴れて「ご、ごめんなさい! 許してよパパぁ!」と泣き叫ぶが、バスラは全く意に介さない。
そしてスタスタと倉庫の出口へと向かっていくが、
「……此度の一件、大きな〝借り〟ができてしまったな。マティアス殿の家督相続に関しては、順調に運ぶようレクソン家からも手を回しておく。それと――」
立ち止まって黒眼鏡を外し、黒い瞳で俺と目を合わせた。
「なにか困ったことがあれば、いつでもレクソン家を訪ねてくるといい。歓迎しよう」
さらに「ああ、娘のこともよろしく頼む」と言い残し――バスラは俺の前から姿を消した。
エイプリルを抱えたままポツーンと残された俺は、
「……なんだろう、なんか凄い味方ができちゃったのかも……?」
なんて呟くのだった。