「カレン、顔が真っ赤になってしまっているじゃないか」
ユリウスが手袋を脱いでカレンの頬に手を当てる。
カレンの手とはまったく違う綺麗な手だった。
大きな手は熱いくらいで、カレンはホッと息を吐きつつ頬を委ねた。
そしてじわりと耳元が温かくなる。
ユリウスもまた、ピアスに魔力をこめたのだろう。
カレンとは違い、手加減しながら魔力をこめてくれるおかげで、耳からじわじわと体が温まっていく。
カレンの目からじわりと滲んだ涙が凍りつく前に、ユリウスがそっと親指で拭った。
「唇も割れてしまっている。回復ポーションは? 持っていないなら私が持ち込んだものがあるが――」
「持ってますけど、非常事態が起こっているなら飲まない方がいいかもしれないと思って」
「すぐに飲んでくれ。ひどい顔色だよ、カレン」
ユリウスがそう言うということは、特に何も起きていないのかもしれない。
ひどく心配そうにしているユリウスを横目に、カレンはポーチから取り出した中回復ポーションをくぴりと飲んだ。
苦さも気にならないほど、みるみるうちに体中の痛みが癒えていく。
騎乗竜に騎乗していたために、太ももの内側のあたりがズタズタになってしまっていた。
ユリウスに飛びつくために無我夢中で走ったために無数の傷がばっくり開いた感覚があったカレンは、癒えていく傷にほっとした。
回復ポーションというものは、魔法薬というものは本当にすごい。
薬草とは一体何なのか――カレンが楽しい思索に耽ろうとしている横で、ユリウスは剣呑な声を出した。
「リヒト、どうしてカレンを連れてきた?」
「俺が連れて来られたんだよ。な? カレン」
「そうですよ、ユリウス様。ユリウス様に会いたくてダンジョンに潜ろうとするわたしに、リヒト様がついてきてくださったんです」
「カレンの邪魔をするなと言ったのはおまえだろう? ユリウス」
ユリウスはリヒトを睨むのをやめて複雑そうな表情でカレンを見やった。
「リヒトを庇う必要はないのだよ?」
「庇ってなんていませんよ? そもそもはリヒト様を連れてくるつもりなんてなくて、騎士団の人たちがどうもお手すきだったので、交渉してわたしの意志で付いてきてもらえないかお願いしたくらいです……急ぎたかったので、途中で置いてきましたが」
「会いたがってもらえるのは嬉しいが無謀だよ、カレン」
「そうですね」
カレンはニカッと笑った。
「だけどわたし、ユリウス様を迎えに行きたくなってしまったんです!」
かつてユリウスがこのダンジョンの十階層、恐らくはボス部屋の扉の前に置き去りにされた過去にあえて触れず、カレンは自らの望みだけを言う。
ユリウスが目を見開き、はっと息を呑んだ理由を、カレンはやはりあえては問わない。
カレンは勝手に抱いていた怒りや悲しみを呑み込んで、笑顔でユリウスに寄り添った。
「だから、来ちゃいました」
「もうこのようなことはないようにしてほしい……と言っても、もしかして無駄かい?」
険しい顔でカレンを牽制しようとしたユリウスは、笑顔のカレンを見下ろし途中で諦めた顔になる。
「そうですね」
カレンは大きくうなずいた。
「ユリウス様がわたしのやることなすことを応援してくださるように、わたしもユリウス様のやりたいことを止めたりはしません。だけど、その結果心配になったらわたしは勝手にユリウス様を迎えにいったり、応援のためにポーションを作ったりするつもりです」
「私はエーレルト領都ダンジョンの二十階層の攻略者だから、心配などいらないと君も知っているだろうに」
「それにしては時間がかかっているんじゃないですか?」
「少しやりたいことがあり、留まっていたのだよ。ウェンディゴは何日も前に倒したのだけれどね」
倒れる魔物はウェンディゴというらしい。
確か、常に飢餓状態の、人を襲って食う鬼の魔物の名だ。
倒れるウェンディゴは青い肌をして、よく見れば確かに餓鬼のようにガリガリであばら骨が浮いていて、下腹が奇妙にふくらんでいた。
その魔物ランクはCランク。おおよその一般人にとっては災害である。
カレンはそんな魔物の亡骸の横を通ってきたことにぞくりと背筋が凍りついたが、ユリウスは平然としている。
魔物のランクとは、そのランクが一つ上がることに十倍、百倍と、一口には言い表せられないほど強くなるという。
それは人間にしても同じこと。
二十階層を攻略したユリウスにとって、十階層程度の魔物は大した強さではないのだ。
「おい、ユリウス。十階層のダンジョンボスを討伐したにしては攻略の兆しがないぜ? どういうことだい?」
「ああ、それは――」
リヒトの問いに答えようとしたユリウスの声をかき消すように、突如ダンジョン全体が地震のようにぐらりと揺れた。
カレンはビクつき、途端にリヒトは剣を構えたが、ユリウスは余裕のある立ち姿のまま微動だにせずに言う。
「下層から越境してきた強大な魔物が、十一階層の門を超えかけているからだろう。本来はSランクに相当する魔物の魔力がこの階層にあるために、ダンジョンが攻略したとみなされないのだろう」
「Sランクが越境だと!? 特大の大崩壊かよ! 一大事じゃないか! すぐに応援を呼ぶぞ! いやっ、ここから離れるのが先決か!?」
「落ちつけ、リヒト」
「これが落ち着いていられるか!?」
「大丈夫だ。これは普通の大崩壊とは違う」
ユリウスは妙に落ち着いた様子で、確信めいた口調で言う。
「魔物は女神の理に逆らって無理に階層を越境してきている。無理な越境のためには魂を壊す必要があるのだ。通常は五十階層にいるべき魔物が十一階層にいたるまでにどれほどに己を削らなければならなかったかを考えれば、その強さは恐怖するほどのものではないだろう」
「……ユリウスおまえ、そんなことをいつの間に『理解』したんだ?」
リヒトは畏れを込めた目でユリウスを見て言う。
自ら気づいたのではなく、知識を与えられただけでは階梯を昇れない。
だがそれでも、ユリウスの知識が女神によって与えられた『理解』であると聞く者にはわかるらしい。
ユリウスがいつの間に理解したのか、カレンには思い当たる節があった。
王都ダンジョンの異変を解決した後、ユリウスは階梯を上がった。
カレンにどこへでもついていくために階層を越境する仕組みを『理解』したからだ。
ユリウスはリヒトの問いに答えずカレンを見やった。
「しかし、君にとっては強すぎる魔物だ。この門を越えて十階層にまでやってきたところを討伐するので、カレンは近づかないように」
ユリウスの口調はどこまでも軽い。
本当に、ユリウスの理解の範疇ではさほどの危険はないのだろう。
だからカレンにポーションだって飲ませたのだ。
カレンはほっとしつつ訊ねた。
「Sランクの魔物って、どんな魔物が越境しかけているんですか?」
「ブラックドラゴン。かつてエーレルトの祖先が倒したという、本来は茨の森の先にいるという、黒竜だよ」
ユリウスがそう言った瞬間、二本の黒い柱の間から突然鋭い牙が閃く。
ダンジョンの門の向こう側からその鼻先を突き出したブラックドラゴンは、耳を劈くような咆哮を十階層のボス部屋に響き渡らせた。
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