ぐすぐすと鼻をすすって。涙を擦りつけて。
やがてミリッツァは顔を上げた。
へら、と。涙まみれで、真っ赤な鼻で、それでも嬉しそうな笑い顔。
「るーた……」
「みりっちゃ!」
端から見たら馬鹿みたいな、赤ん坊同士のじゃれ合いだろうけど。
抑えきれない衝動に駆られて、僕は妹を全力で抱きしめていた。
笑いたければ、笑え。
この子は、あの死地で僕が何としても護ろうとした大切な宝なのだ。
同時に、あの陰惨な地獄から共に逃れてきた、同志なのだ。
「だいじょぶ、みりっちゃ」
改めて、その頭を撫でてやる。
へら、と笑い。涙を擦りつけ。何度も何度も妹は、僕の顔を見直してきた。
もう一度、その身体をぎゅっと抱きしめる。
「うれしなき……」
「ん、どうした?」
「みりっちゃ、うれしなき、はじめて」
「そうか、嬉し泣きを見せるのは、初めてだったか」
今まで、泣いた直後に笑ったことはあっても、笑いながら泣いていたことはなかったと思う。
ミリッツァの感情が豊かになってきた証拠かもしれない。
一騒動を収めて、兄妹三人ともベッドの上に起き上がっていた。
すぐ脇の床に寝ていたザムも、嬉しそうに顔を上げている。
そこへ、扉にノックの音がした。
「お早うございまーす」
最大限に声をひそめて、忍び足でベティーナが入ってくる。
しかしベッドの上を見て、その目が丸くなった。
「ルート様!」
少し前の忍びようを忘れたように声を上げ、ばたばたと駆け寄ってくる。
「ルート様、よかったーー」
そのままこちらに抱きついてくるかに見えたが。
部屋の中央でその足が止まった。
そして、いきなり両膝をつき、大きく頭を下げていた。
「ルート様、申し訳ございませんでした!」
「へ?」
ほとんど土下座になって、その場を動かない。
困惑極まって、僕は兄を振り返った。
その兄は、大きく溜息をついていた。
「ベティーナ、昨日の件はお前のせいじゃない。そう言っただろう」
「でも、でも……」
「みんなそれぞれ油断があって責任を感じるべきだが、お前はその中でもいちばん責任はない。むしろ被害者だ。俺が二人を抱いて下がっていろと命じて、お前はそれに従っただけだろうが」
「でも……わたしがお二人を守れれば、あんなことにはならなかったです」
「お前に守りは求めない。二人と一緒に危険にさらした、他の者の責任だ。後悔するのはいいが、もう終わりにしろ。昨夜みんなで父上に謝罪しただろう。それ以上お前がそんなだと、護衛の二人など首をくくりたくなってしまうぞ」
「……はい」
べったり伏せていた顔が、ようやく上がる。
そこへ、ザムを踏み台にして降りていた僕は、ひょこひょこ近づいた。
そのまま届く高さの頭を、さわさわと撫でてやる。
「べてぃな、いいこいいこ」
「ルート様……」
「べてぃなはいいこ」
「うわーん――ルート様!」
いきなり、力一杯抱きしめられた。
その勢いで息が止まり、死にそうな思いをしたのは、秘密だ。
そうしていると、背中からべたりとへばりつくものがあった。兄が抱き下ろしたらしい、ミリッツァだ。
そのまま横に並んでくる、その感触に気がつくと、ベティーナは改めて二人一緒に腕の中に収めた。
「ルート様、ミリッツァ様、ほんとご無事でよかったですう」
「べてぃ、いいこ」
僕の真似をして、ミリッツァもその頭を撫でる。
ますます感激して、ベティーナはしばらくそのまま泣き続けていた。
さっきのミリッツァよりもさらに感情豊かに、涙と笑いを混ぜて。
この笑い顔に、また会えた。それだけで、あの死にそうな目から脱出してきてよかった、と思ってしまう。
ややあって、兄が声をかけてきた。
「二人の着替えを頼む、ベティーナ」
「……はいい」
のろのろと立ち上がり、ぐすぐすしゃくり上げながら、なんとかベティーナは務めを果たしてくれた。
今も兄が言っていたけれど。
昨日の件、全員で父に謝罪して、一応叱責で済んだ、らしい。
責任をいえば確かに、ミリッツァ以外の全員だ。
護衛二人は護衛対象から離れることがあり得ない。
兄とヘルフリートはそれぞれに全体を統括する務めがあったはずで、護衛が離れるのを見過ごすことが許されない。
昨日は、あの事態と農民たちの芝居が自然すぎて、思わずそれに応じた行動をとってしまったのだ。
ちなみに僕も、後悔というか自責の念はある。何故あのとき、不自然さに気がつかなかったのか。
あの商人を装った賊たち、あそこにただ立っているのはおかしいのだ。彼らは単騎に乗っていて、荷車の脇を抜けて通り過ぎることができるのだから。
よほどはた迷惑な野次馬か、別の目的があるのでなければ、手伝いもせずにあの場に立っている理由はないのだ。
そんなことを考えている僕を着替えさせ、ベティーナはミリッツァのおむつ替えに移っていた。
作業をしながら、その口からぽつりと声が漏れた。
「ウォルフ様……」
「何だ、どうした」
「わたし、強くなりたいです。少しでも、ルート様とミリッツァ様を守れるように」
「そんな必要はない、と言いたいところだけどな。それで気が済むなら訓練につき合うぞ」
「ありがとうございます」
僕たちの支度を終わらせると、「ルート様が起きたと、旦那様にお知らせします」と、ベティーナは駆け出していった。
イズベルガに見られたら大目玉を食いそうな、ドタバタぶりだ。
笑って、兄は大きく溜息をついた。
僕は床にしゃがんで、ザムの首に手を回す。
「ざむ、きのう、ありがと」
わしわしと首を撫で、頬に頬を寄せ。
「ざむ、だいすき」
全身で抱きついてやっていると、隣に物真似娘が寄ってきた。
「ざむ、ざむ、だーすき」
白銀の背中にのしかかり、わしゃわしゃ毛皮を撫で回す。
乱暴な仕打ちだけど、ザムの尻尾が大きく振られているのを見ると、大丈夫なのだろうと思う。
ひとしきりそうして戯れていると、兄が寄ってきて僕は抱き上げられた。
改めてミリッツァと二人、ザムの背中に落ち着けられる。
「行くぞ。父上が待ちかねている」
「ん」
王都の男爵邸も領地のものと似た作りのようだ。部屋を出ると絨毯の敷かれた廊下で、その先に下り階段が見えている。
降りた景色は、領地の屋敷よりわずかに狭いかという印象だ。
ソファの置かれた大きな部屋に入ると、慌ただしく父が立ってきた。