やがて後宮の部屋掃除を終えたナディーネも合流して、カティンカとともに指示した写本の作業に入った。
そうして少し経った頃。
慌ただしいノックとともに、返事を待たずドアが開いた。
気忙しい様子で入ってきた王太子が、室内に告げる。
「ヴァルター、ルートルフを、こっちの椅子へ」
「はい」
「それから、侍女たちを連れてしばらく外に出ていろ」
「はい」
即座に返事して、文官は指示に従う。
僕と向かい合って座った王太子は、扉が閉じられるまで腕組みで目をつむったままだった。
部屋の中に静寂が満ちる。テティスもザムも、微動だにしない。
僕も、向かいが口を開くまで沈黙を続けた。
やがて、静かに溜息が漏れ。
「さっき……」
「は」
「女官長を呼んで、話を聞いた」
「ん」
「ルートルフの待遇に何か不備はなかったか、と問うたところ、平伏して詫びてきた」
「………」
「護衛がついていなかった。当初ついた侍女は一人だった。赤子用の設備が用意されなかった」
「………」
「それで、まちがいないか」
「は」
王太子の平坦な低声に、短く応える。
瞼を閉じ、息を吐き。
また目を開いて、その声は一段高まった。
「お前、何故、最初に言わなかった?」
「こうきゅうの、ひょうじゅん、しらない」
「く――」
一度顔を俯け、それから改めて王太子は椅子の背に深く凭れた。
その口に、またまた大きな息が漏れる。
「これでは、陛下のご配慮も台無しではないか」
「………」
「それも、女官長だけの責任なら、責めを負わせればよい。しかしはっきり言おうとしないが、あの者の一存とはどうも思えん」
「ん」
「だがしかし、大きな声では言えないし、申し訳ないのだが」
「ん?」
「今、その裏を追求することはできない。影響が大きすぎる。これからしばらく国内の貴族たちに協力を募って、結束していかなければならないときなのだ」
「ん」
つまりは、やんごとなき方々の後ろ盾に配慮しなければならない、ということだろう。
僕としても、現時点でそこは同感だ。
今開発している新製品にしても、この先、国中からできるだけの人手を求める必要が出てくる。
「だから今、後宮に必要以上の刺激を入れたくない。ルートルフの周囲には、早急にもっと改善されるよう配慮する。当面はこれで納得してくれ」
「かいぜん、いらない」
「ん、どういうことだ?」
「じじょふたり、ててすとざむ、いればじゅうぶん。これいじょういらない。きがいくわえるなど、ぼうがいこうい、ないようにしてもらえれば」
「もちろん、危害を加えるなどはないようにさせるが。それで、いいのか?」
「ん」
「では、そういうことで手打ちだ。そのオオカミを認めることと、相殺ということでいいのだな?」
「ん」
もとより、王族に頭を下げさせるなどというところまで要求するつもりはない。
というより、そんなことさせたら、後が怖すぎる。
なお、女官長たちについては、厳重注意に留めてそのまま仕事は続けさせるつもり、とのこと。
すぐに替わりが見つからないほど、元々能力はある人材だという点が一つ。
さらには、王太子側が事情を把握しているという前提で、今後ルートルフに何かあれば責任を問う、と釘を刺して続けさせる方が、裏の勢力への押さえにもなるだろう、ということだ。
その点については、僕にも異論はない。
他にザムに関しては、一日一回裏の森で運動する許可をもらった。
食事は調理場から調達できそうだが、オオカミに運動は必要だ。裏の森はもともと野生の生態系のままになっているので、定住させるのでなければ構わないということだ。
いろいろ確認をし、頷いて、僕はごそごそと椅子の上で姿勢を正した。
膝前に両拳をつき、腰を折る。
「でんか、さくじつはぶれいをいたしました」
「ん?」
「ごはいりょ、かんしゃいたします」
「やめろ。お前がその格好をすると、今にも転げ落ちそうで怖い」
「は」
「それに、相殺の約束だ。お前が頭を下げるなら、こちらもそうしなければならなくなる」
「でも、かんしゃ」
「分かった。それは受ける」
「ありがと、ぞんじます」
「では、これで終わりだ。テティス、ヴァルターたちを入れてくれ」
「はい」
テティスが扉を開くと、真っ先に入室してきたのはゲーオルクだった。
つかつか踏み込み、向かい合う王太子と僕を見て、鼻を鳴らす。
「人払いして、いったい何をしていたんだ?」
「もちろん、人に聞かせられない密談だ。お前にも聞かせられない」
「そう、ですか。で、それは済んだということだな」
「そうだ」
「じゃあ、失礼」
断って、いつもの指定席に腰を下ろす。
ちらり机横のザムを見て「そいつが噂のオオカミか」と呟いているが、元来好きな動物のせいか忌避感はないようだ。
その後ろから侍女を連れて入ってきたヴァルターが、こちらの脇に立って話しかけてきた。
「ルートルフ様、クヌートが参っております」
「そ。おふたり、あたらしいりょうり、ししょくする?」
「料理? また新しい食材かよ」
「しょくざいはあたらしくないけど、ちょうりがあたらしい」
「ふうん。まあせっかくだ、味見させてもらおう」
いつものように、不貞腐れ姿勢のゲーオルクに比べて、王太子は好奇心を押し出してくる。
僕が頷き返すと、ヴァルターは見習い料理人を招き入れた。
やはり王太子たちを見て緊張の顔だが、驚きの様子はない。
持ち手のついた鍋二つと、小さな壷のようなものを抱えている。
「ごくろうさん。ながむぎのりょうり、でいいのかな?」
「はい。ルートルフ様のご指定の通り、何とかなりました」
「じゃあ、おねがい」
「はい」
最初の鍋から、小型の深皿に白っぽいものが山型に盛られる。
まだ湯気が立ち昇る、やや大きめの粒々だ。
「何だ? ナガムギにしちゃ大きめ、というか妙に膨らんでいないか?」
「何というか、変わった香りだな」
口々に第一印象を言葉にして、ゲーオルクと王太子は皿を受けとる。
匙で口に入れて、さらに奇妙な表情になっている。
「何だよ、味がついてないんじゃないか。まあ、食えないことはないが」
「ふうん。珍しい食感だね。熱くてふわふわしている、という」
僕も受けとって、一口だけ試してみる。まあまあ軟らかいが、たくさん食べられそうにはない。それでも、予想通りのできだ。
ヴァルターも味見して、微妙な表情をしている。
「ながむぎ、おかゆにするのがふつうだって。それより、たべごたえがある、おもわない?」
「まあ、そう言えないこともないな」
「なるほど、粥の代わりか。パンの代わりでもある、ということか。これの他に味のついたおかずがつくのなら、まあ分かるな」
「ん」
「ナガムギの粥よりは、食べやすいかもしれませんね。粥より調理は面倒なのかな?」
ヴァルターの問いに、クヌートは首を振った。
ややつっかえながら、返答を口にする。
「いえ、その、慣れない調理法なのですが、慣れたらそうでもない、思います。少なめの水で煮て、水気がなくなったら蓋をしてしばらく蒸らす、それだけで」
「ふうん、確かに面倒というほどではないようですね」
「それで、これをさらに料理した、次の鍋、です」
僕の顔を見て頷きを確かめ、クヌートは二つ目の鍋の蓋を取った。