ゆっくりと、額に小さな痛みが刺し込んでくる。
そのせいか、ひととき足の動きも止まっていた。
数呼吸間の静寂の後。
もたれていた扉が、いきなり内向きに引かれた。
「誰だ?」
はるか頭上に、鋭い声。
その下で、支えを奪われつんのめった僕は、立ちはだかる足の脇をすり抜けた。
そのまま、意志に反した足の運びが戻って。
とことこ、とことこ。
正面奥、目映い照明の点った一角が、近づく。
「何だ?」
「何をしている、其方」
とことこ、とことこ。
とことこ、とことこ。
いきなり足がもつれ、躓き。
近づく正面の目標物に、両手で縋りつく。
柔らかな布の感触。
何処か心安まる香り。
そのまま。
僕の意識は、深く沈んでいた。
目を覚ますと。
ぎろり。
頭の上から、横目で睨み下ろされた。
金色の髪を頭の上に盛り上げた、大人の女性。知らない顔だ。
仰向けの姿勢で手足を動かそうとすると、違和感があった。
両手足とも、動くような、動かないような。
とりあえず上下左右、擦り揺することはできるのだけど、何処かで限界、阻まれているような。
「あの……」
発しようとした声は、いきなり押し止められた。
無造作に、ぎゅう、と頬をつねられて。
「ひゃわ……」
「赤子が喋るでない。薄気味の悪いこと」
低い、冷ややかな声が落ちてきた。
何となく、他人を意に従わせることに慣れた、ような響きの声音だ。
本能が囁きかけるところに従って、質問の発声は呑み込むことにする。
代わりに、上下左右視線を回して、状況確認を試みる。
今僕が横たわっているのは、ソファの上のようだ。
冷ややかな声の女性がゆったり座り、その存在感のある腰脇に頭を寄せる形で、横向きに寝せられている。
首から下がすっぽり、薄手の布の袋のようなもので包まれている。
護衛や騎士たちがよく使っている寝袋のような格好だが、むしろ赤ん坊用としては『おくるみ』と呼ぶのが近いのかもしれない。僕は使った記憶がないので、正確には知らないけれど。
とにかくそのせいで、両手足の動きが制限されて起き上がりも移動もままならない現状だ。
現在地は、豪華に広い私室のようだ。
僕のものより一回り以上広いだろう、そこそこ華やかな明るい飾り付けの居間と思われる。
頭の上の女性の服装佇まいと合わせ考えて、妃の居室と判断してよさそうだ。
足の方向、大きなガラス窓の外は、明るい。日の低さからすると、早朝と思われる。
そうして観察の視線を回して、ようやく見慣れたものを発見した。
こちらからすると右横、ソファ前のテーブルを超えた先、向かいの壁際に、二つの影が沈み込んでいる。
テティスと、ザムだ。
女護衛はまず見たことのない姿勢、折りたたんだ両膝を揃えてその上に座り込んだ格好――頭の奥に『正座?』という囁きがあった――だ。両拳も膝の上に揃え、顔を伏せ、見るからに神妙さを伝えてくる。
オオカミの方はさすがに『正座』ではないが、後ろ足をたたみ、前も屈み気味で、どこか隣の仲間と同様の印象を醸し出している。
「主が目を覚ましたようだぞ」
「は。返す返す、ご面倒とご無礼を――」
「何度も同じ口上、聞き飽きたわ」
頭を下げたテティスの言葉は、たちまち推定妃に切り捨てられた。
「申し訳ございません」と、護衛の頭はますます低められる。
『ご無礼』の元はまずまちがいなく僕の行動によるものだろう、と察せられ、黙っていられない思いが募る。
「その、ごぶれい――ふにゃ……」
「気味悪い口を聞くな、と申すに」
今度の声は、鼻を摘ままれ阻まれた。
服従の必要を、学習するしかない。
何しろこちらは『おくるみ』で両手足の動きを封じられ、推定妃からは頬をつねるも鼻を摘まむも、やろうと思えば目を突こうが首を絞めようが、何でもやり放題なのだ。
全面降伏、絶対服従、以外の選択のしようがない。
それを誓おうにも、発声さえ禁じられているのだけれど。
穏やかな足音が、近づく。
精一杯頭上に視線を向けると、妃(?)の向こうに年輩の侍女が寄ってきていた。
無表情のまま、テーブルに湯気の立つティーカップを置く。
頷いて、妃は静かにカップを口に運ぶ。
ほう、と満足げな息が漏れる。
隣に、おくるみの赤ん坊。正面に、正座姿勢の護衛とオオカミ。
そうそうあり得ないだろう非日常風景の中で、悠々と一人、喫茶が続いた。
そうするうち、抑えめながら慌ただしげな複数の足音が聞こえてきた。
部屋の、外らしい。
こちらからは見えないが、女護衛が二人立つ陰になるらしい入口扉が開かれたようで、やや若い侍女が入ってくる。
「連れて参りました」
「うむ」
主の頷きを受けて、その身がわずか脇に寄る。
後ろから現れたのは僕には見慣れた、三人の侍女たちだった。
まだ幼い少女たちの目が、こちらを認めてまん丸に瞠られる。
すぐに慌てて、壁際に並んで膝をつく。
「お妃殿下、ご機嫌、うるわしゅ――」
「口上はよい」
「三人とも、そこの護衛の隣に並びなさい」
ナディーネの挨拶を半ばにして。
妃の氷のような声に続き、その隣に立っていた年輩の侍女の指示が飛んだ。
「は、はい――」
「し、失礼します」
三人ともほとんど転がるような動作で、テティスの横に寄っていく。
じろり見やる様子の後、妃は三人を連れてきた若い侍女に目を向けた。
「皆、起きてはいたのだな?」
「はい。起床直後で、主の不在に気づいて慌てふためいているところでした」
「ふん」
鼻を鳴らして、年輩侍女に目配せした様子。
頷いて、侍女は正面に向き直った。
「テティスと申したな。皆訳が分からぬままでは、話もできません。時間をあげるので、説明してやりなさい」
「かたじけのうございます。失礼いたします」
妃に向けて一礼して、テティスはやや横向きに姿勢を直した。
侍女三人は指示もされないままそちらに倣って、正座の形をとっている。
抑えた声を、テティスは口にした。
「いや、恥ずかしながらわたしも、気がついたのは陽が昇った後だったのだがな。目覚めてみると、寝室側と廊下側の扉が開けっ放しになっていた。寝室に、ルートルフ様がいらっしゃらない。慌てて部屋を出て探していくと、こちら、第二王妃殿下のお部屋の前にザムが座り込んでいた。ザムに声をかけていると、こちらの護衛に招き入れられた。話では、真夜中過ぎに突然ルートルフ様が入り込んできて、お妃殿下のお御足に抱きついてきたとのこと。どうも、寝呆けてとかそういったご様子で、お一人で歩いていらっしゃった。ザムはただそれについてきた。訳は分からないが危険もないようなので、ただ黙って、ということらしい」
「無様よの。護衛の者が、その体たらくとは」
「は……言い訳の言葉もありませぬ」
「その――ふが……」
妃に頭を下げるテティスに言葉を添えようとして、今度は鼻と唇を一度に摘ままれた。