「え?」
「どうした」
「きこえない?」
「何だ」
「ひとの? うめきごえ、みたいな?」
「何だって?」
確証はない。ただ、そう聞こえるのだ。
兄には聞きとれていないらしく、しきりと左右を見回していた。
子ども二人だけなのだから、無理するべきではない。
ただ、怪我している人がいるなどということなら、見捨てるわけにもいかないのだ。
「どっちだ」
「ひだり……かな」
「少しだけ、行ってみるか」
わずかに、いつもの道を逸れる。
それでも、以前に踏み込んだことはある範囲だ。
ただ、そのときとは見た目が変わっていた。
木の葉が完全になくなり、遠くまで見通せる。
少し離れたところに岩でできたらしい丘、その坂肌に大きな穴が見えてきた。
「洞窟? 声はあっちか?」
「みたい」
「あ……俺にも聞こえた」
「あのあな、だよね」
「だな」
近づくにつれ、その声ははっきりしてくるようだった。
やはり洞窟の中かららしく、妙に籠もって明瞭には聞きとれない。
しかし、生き物の発する音声だということはまちがいないと思われる。
兄は、剣を抜いて構えた。
その分、右手の野ウサギを入れた袋は、その前の地面に置くことにする。
「危険を感じたら、すぐ逃げるからな」
「ん」
僕をそこに下ろすことも、考えただろう。しかしそれは、ますます危険なのだ。
僕一人だけなら、きっと野ウサギ一羽、野ネズミ一匹相手でも、命を落としかねない。
『光』が間に合えばともかく、体力だけなら絶対に負ける、自信がある。
「行くぞ」
「ん」
剣を構えて、じりじりと兄は中へ進んだ。
すぐに行く手は暗くなる。
そこへ、僕は弱い『光』を灯した。
少なくとも、足の踏み場は見通せるようになる。
何もなければすぐ引き返しただろうが、すぐにまた声が聞こえてきた。
「近いな。おい誰か、いるのか?」
兄が呼びかけても、返事はなかった。
ただ、呻き声がわずかにひそめられたような。
じり、と兄の足が一歩進み。
僕は『光』をサーチライトに変えた。
岩がいくつか凹凸を見せ、その先が開けているようだ。
開けた手前、やや大きな岩の陰。
思ったよりも小さな、横たわるものがあった。
「何だ?」
人、ではなかった。
見えたのは、白っぽい毛皮、だったのだ。
「動物、か」
剣を前に出して警戒しながら、兄は覗き込んだ。
『犬?』と『記憶』が告げてくる。この世で見た経験は僕にないが、そんな連想が起こる外見のようだ。
兄にも、見た経験があるようではなかったが。
『犬』から連想される、この森の住人に心当たりはあるのだった。
「もしかして、オオカミか?」
「かも」
しかし、これまで聞いた限りのオオカミとしては、見た目が小さい。
しかも、横たわっていて、赤いものが見える。
見ると、前足に怪我を負っているらしい。
こちらとしては警戒したが、どうも襲ってくる元気はないようだ。
「どうするか……」
「てあて、できる?」
「まあ、少しの用意はあるが」
森に入る以上、簡単な非常食や怪我の治療用品などの装備は当然だ。
少し嫌な顔はしたが、僕の意志は感じたようだ。
腰の袋から、兄は薬を取り出した。
僕は『光』を頭上からのものに変えた。
ぴく、と身を震わせ、動物は弱々しい視線をこちらに向けた。
「暴れるなよ。悪いことはしないからな」
塗り薬を出して、兄は傷口につけてやった。
一呼吸、二呼吸。
さっきまで呻き声を出していたその動物の、呼吸が穏やかになってきたような。
薬が、効いた?
「いや、嘘だろう」
「なにが」
「いくらなんでも、こんなに早く薬が効くわけはない」
「だね」
しかしそうは言っても。
目の前の動物の様子が穏やかになってきている、その事実にまちがいはないのだ。
「まあとにかく、効いたということなら問題はないわけだが」
このまま元気を取り戻すようなら、喜ばしいこと、なのだろうか。
それともあるいは、改めてこちらの身の危険を案じるべきか。
ちらと兄が振り返り、僕と目を合わせた。
どうする、か。
そのとき。
ふん、と鼻を鳴らし、オオカミ(?)は少し頭を起こした。
ふんふんと鼻を鳴らして、兄の左手を見ている。
「そう言えば」
「なに?」
「オオカミは、めったに人を襲わない、と聞いた」
「そう?」
「襲うとしたら、よっぽど空腹のときだけだと」
「え……」
「そんなとき、狩った野ウサギを持っていたら、それを置いて逃げろって」
「あ……」
兄の左手には、獲物一羽を入れた袋が提げられているのだ。
「先人の教えに、従うか?」
「ん」
袋を開いて、まだ気絶したままの野ウサギ一羽を、オオカミの鼻先に置いてやった。
ちら、一瞬こちらを窺ってから、大きく開いた口があっという間に食らいついていく。
生きた動物同士の食らい合いなど、好んで見たいものではないけど。
それは何と言うか、気持のいい、と形容したくなるほどの食べっぷり、だった。
よっぽど空腹だったのだろう。
本当にあっという間に、小柄なオオカミの半分近くはありそうな大きさの元野ウサギだったものは、白い骨だけになっていた。
「見事なものだな」
「ん」
凄惨さとかそんなものを感じる暇もなく、兄と僕はまず感心しきってしまっていた。
一応満足したらしく、オオカミは舌で上唇を舐め続けている。
ふと、兄が前方に顔を上げた。
暗がりに慣れた目に、奥の様子が見てとれてきている。
少し進んだ先に、かなり大きな湖のようなものが見えているのだ。
「ものはついでだ」と呟いて、兄は腰を上げた。
「これだけ食って、喉が乾いたろうな」
湖の端に近寄り、両手で水を汲み上げるのだ。
それを零さないように携えて、オオカミの傍へ戻る。
両手の水を差し出す。
しかし、オオカミは首を振るようにして、わずかにそっぽを向いた。
「何だ?」
厚意を無にされたとばかりに、兄は水を捨てて口を尖らせた。
そのまま、やや興奮したように、口元を拭い。
素っ頓狂とも聞こえる声を上げた。