「だめ――」
目の前の男に向けて、必死に手を伸ばし。
弾みで僕は、ぺしゃりと床に転げ落ちていた。
しかし構わず、そのまま四つん這いになって、はいはい。
ミリッツァを掴む男の足に、むしゃぶりつく。
「みりっちゃ、みりっちゃ、いもうと――」
「うるさい、この餓鬼!」
そのまま足が上がり、僕は蹴り飛ばされていた。
ずざざ、と木の床に転がり、こめかみに痛みが走る。
それでも怯まず、もう一度その汚れた靴に食らいつく。
再度足が振られ、僕の身体は宙に浮き。埃まみれの床に叩きつけられる。
たちまち頭の中が、真っ白に霞む。
「馬鹿、人質の方は傷つけるな」
「でもよ」
「この先があるんだ。これまでの苦労を無駄にする気か?」
「……分かったよ」
「分かったら、さっさとそっち、やれ」
「おう」
不服そうながら、声が返り。
向き直り。
手に握ったナイフが、振り上げられる。
「みりっちゃ……」
頭真っ白な、ままで。
力入らないまま、僕は手を伸ばす。
「ふぎゃあーーーーー」
火のついたような、泣き声。
一呼吸、二呼吸。
置いて。
どさり。
その床に、重たい音を立てて倒れ沈むものがあった。
「何だ、どうした?」
僕に屈み込みかけていた男が、訝しげに振り返る。
その目の先、相棒がこちらを頭に、仰向けに倒れていた。
見開いたままの濁った瞳が、天井を向いたまま動かない。
「何だって言うんだ、おい、ふざけてるのか?」
頭側から手を伸ばし、鼻先に掌をかざし。
「何――嘘だろう、おい」
そこに、息は感じとれなかったようだ。
蒼白になった男は、慌てて周囲を見回す。
どこかに、相棒の命を奪ったものが隠れている、と考えてか。
しかし、狭い室内、積まれた袋の陰にも人の隠れようはなく。
見回し、見回し、考え込み。
首を振って、一息つき。
「分からない。しかし、こうしちゃいられない」
倒れた男の手から落ちたナイフを、拾い上げていた。
その先を、泣き叫び続ける赤ん坊の上へ。
「みりっちゃ――」
ふらふらと、もう一度僕は手を伸ばした。
男が、首だけ振り返った。
その目が、血走り、丸められ。
「お前、まさか……」
差し伸ばす。
向けられた、男の眉間。
ごく、ごく細い『光』が刺し込まれていく。
「ひ……」
一瞬で、息が止まり。
ゆっくり、男は前のめりに倒れていった。
ばさり、と鈍い音。
寸時、辺りが静寂に包まれた、が。
「ひぎゃあーーーーー」
直後、狭い地下室にミリッツァの泣き声だけが響き渡った。
ひとしきり全身をよじり。
ぼてりと床に落ちて。
こちらに向けて両手を伸ばしてくる。
「るーた、るーた――」
必死に両腕をにじり這わせて、僕は妹に覆い被さった。
「みりっちゃ、みるな」
すぐ目の前に転がる、醜怪な死体二つ。
こんな醜いもの、見てはいけない。
涙まみれの瞼を撫でて、僕は苦労してミリッツァの下に身体を潜り込ませる。
それと気づいて、ミリッツァは泣きながら僕の背中にしがみついてきた。
何とか踏ん張って、僕は両腕を立てた。
「いこう、みりっちゃ」
妹を乗せて、四つん這い。
おんまの格好で、一歩、一歩。
倒れた男たちの身体を迂回して、階段に辿り着く。
見上げると、遙か高みに四角い口。
二人分の重みを乗せた自力で、登りつけそうにはとても思えない。
しかし、登らなければならない。
こんな醜い、陰惨な場所に、わずかな間もミリッツァを置いておけない。
そのミリッツァは、まだはいはいがやっと、階段はとても登れない。
僕が頑張るしか、ないのだ。
「しっかりつかまって、みりっちゃ」
「きゃう」
僕のおんぶに安心して、ミリッツァの泣き声は止んでいる。
意志が通じたか、首に回った腕に、少しだけ力が加わる。
一段。一段。
ゆっくり、慎重に、手と足を進める。
もし背中の妹が転げたら、僕の力で支え止めることはまず無理だろう。
梯子でなく、一応階段の態をなしていて、助かった。
途中で休んでも、掴まるミリッツァが力尽きて滑り落ちることがない。
何度か、首に回る腕の位置を確認して。
今にも崩れ折れそうな手足を励まして。
一段。一段。
一段。一段。
それでも途中で、腕の力が入らなくなった。
もともと力弱い足が木の板の上を踏み損ね、今登った一段を滑り落ちた。
「わ」
「きゃ」
慌てた態で、僕の首に回った小さな手に力が加わる。
土埃で汚れ放題の板を必死に両手で掴み、僕は転落を支えた。
角に擦れた頬に、痛みが走った。
はあはあと息が弾み。
何とか体勢と気持ちを落ち着け。
見上げたゴールは変わらず、絶望的なまでに高い。
一つの段の上で、しばし身体を休める。
けれどそのまま休み続けると、二度と動けなくなりそうで。
意を決して、一段上に、手を伸ばす。
とにかく、一段。一段。
ようよう上がっては息をつき、何とか気を奮って、また上に手を伸ばし。
一段。一段。
どれだけ時間がかかったか、分からない。上の床に手をついたとき、僕はもう精も根も尽き果てていた。
しかしそれでも、せめて外に出なければ。
水平な床に上がっても、もう腕を立てることもできなかった。
埃まみれになるのも構わず、ずりずり、ずりずり、木床の上を這い進む。
背中からは、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。
どこか安心しながら、力を振り絞り。
ずりずり、ずりずり。
たぶん真っ黒になっている顔を、辛うじて戸口から突き出し。
そこで、僕は力尽きていた。
動けない。
何とかここまで、辿り着いたけど。
動けないまま、ここで飢えてか凍えてか命尽きるかもしれない。
背中の妹だけでも、何とか救うことはできないだろうか。
ここは、かなり林の奥に入った場所だ。
最初賊たちが逃亡していた街道から、大きく逸れている。
見ていた限り、ここに続く小道さえない。
あれから少し遅れて追っ手がかかったとしても、この方向を見つけるのはまず無理だろう。
街道を追うのは無駄だと気がついて、脇の方を探す方針に切り替えて。それからここを見つけるまで、どれだけ時間がかかるだろう。
こちらが命尽きるまでに、間に合うか。
この態勢で身体を休めて、回復して街道を目指すことはできるか。
どちらも、かなりの無理筋という気がする。
思い巡らす限り、希望は一つだけ、だった。
その希望が叶うことを、ひたすら一心に、祈った。
祈り、祈り。
また、どれだけ時間が経過したか、分からない。
背中の穏やかな寝息に合わせて、僕の意識も少しずつ薄れていった。