そのとき。
「ウォン」
「ざむ」
濁った意識の中で、僕は希望が叶ったことを知った。
林から駆け出してきた、白銀色。
喜色をその目に込め、たちまち駆け寄ってくる。
屈んだ首を抱え込み、その温かさに、夢でないことを確かめる。
「つれてって、ざむ」
「ウォン」
低くしてくれた背に、辛うじて這い昇り。
温かな首筋を撫で。
「ゆっくり、おねがい」
「ウォン」
背中で眠る妹も、半死半生の僕も、いつ力抜けて滑り落ちるか分からないのだ。
心得て、慎重な足どりで、ザムは帰路を辿ってくれた。
暗い木々の間を、抜けて、抜けて。
「あ、いた、ザム」
「ウォン」
「ルート、ルートだ」
遠く、兄の歓声を聞きながら。
ついに僕は、意識を手放していた。
目覚めに近づく。
に、つれ、夢が暗さと重さを増していた。
目を見開いたまま、一瞬で命を手放した、醜怪な男の顔。
近づき、遠のき。
のしかかり――。
「ひ――」
思わず身をすくめ、逃がす――その動きが空振って。
よすがを求めた両手は、確かな温かみを握っていた。
腕の中に、少し前まで馴染みの、固い温かさ。
背中に、このところ親しく離れない、小さな温かみと湿り。
今までそれほど得られなかった、二つながらの幸福を認めて。
ほう、と僕は安堵の息をついていた。
思わず、手の中の親しい腕を力任せに握って。
ううん、とそちらに動きを生んでしまった。
「んーー、どうした、目が覚めたか、ルート?」
「……ん」
頭の上から兄に覗き込まれて、僕はわずかに目を瞬かせた。
ベッドの上、のようだけど、部屋は真っ暗で兄の顔もはっきりとはしない。
確かなのは、僕が兄の腕を抱きしめていることと、背中にミリッツァが抱きついていること、だ。
自分の現状を探ると、掌や肘や膝や頬や、あちこち擦りむいたらしい痕がひりひり存在を訴えている。手も足も、奥の方からじんじんと筋肉痛が脈打って浮き沈みしている。
おそらく深刻な状態ではないのだろうけど、何とも満身創痍と形容したくなる状況だ。
実際のところ縋るものが他になく、固い腕を胸に抱き寄せ直す。
「……どこ?」
「王都の、父上の屋敷だ」
「まよなか……だよね」
「ああ。夜中の一刻は過ぎたと思う」
「……そ」
いろいろ確認したい、のに。頭の中の整理がつかない。
とにかく、いちばん大切なこと――。
背中の寝息は、安堵を伝えてくるが。
「みりっちゃ、だいじょぶだね。べてぃなは」
「ミリッツァは、傷一つない。ベティーナは賊に蹴り倒されたが、大丈夫、もう痛みもない」
「……そ」
「いちばんひどいのは、お前だ。あちこち擦りむいて、汚れて、疲れ切っていた」
「……ん」
「怖い思い、したんだろう。それでミリッツァを助けて、大変な思いをしたんだろう。よくやった。もう何も心配はいらない。ゆっくり休め」
「……ん」
「お前はよくやった、ルート」
さわさわと、頭が撫でられる。
息を吸うと、兄の匂いで胸が充たされる。
何とも安心できる、慣れた匂い。――今になって、ミリッツァの気持ちが理解できる、ような。
理屈では分からなくても、赤ん坊の身に、こういうものは必要なのかもしれない。口に出すと恥ずかしいのだけれど、母の匂い、兄の匂いは、この上なく胸に安寧を染み込ませてくれるのだ。
どこかで渦巻く不安は、消えないのだけれど。とにかく、今は。
頭を撫でられ、温かな匂いに包まれ、僕は眠りに沈んでいた。
しかし。
次の目覚めも、悪夢に揺られた末のものだった。
目を見開き睨み続ける、死人の顔。
くるめき、近づき、遠のき。
何かを訴え、非難するように。
こちらへ呪いを吹きかけるように。
自分の呻き声で、目が覚めた。
全身が、汗びっしょりだ。
目が明るさを認めても、震えが止まらない。
胸の前に、必死に固い腕を抱き寄せる。
背中のへばりつきと肩へのしゃぶりつきが、何とも安心を伝えてくる。
それなのに。
怖い。怖い。
どうしたことだろう。
見慣れない部屋の中は、もう薄明るい。
前と後ろから、穏やかな寝息が聞こえている。
何も心配はいらない――眠る前の、兄の声が蘇る。
何も、心配は、いらない、のだ。
僕は、ミリッツァを守り抜いた。
賊の元から、逃げ延びた。
僕は、やり遂げた、はずなのだ。
それなのに。どうしてこんなに、恐怖が消えないのか。
考えて。気がついた。
――僕は、人を、殺した。
一人目は、半分無意識、無我夢中、だった。
二人目は、かなりのところ意識した上、だったかもしれない。
前から、考えてだけはいた。
加護の『光』を最大限細めれば、動物の表皮を貫くかもしれない。
人を殺せるかもしれない。
しかし、結果を知ることが恐ろしくて、試すこともしないできた。
それを、あのとき、僕は実行した。
一人目は、半信半疑、無我夢中。
しかし二人目は、その結果を知った上で、意識的に。
――殺すつもりで、実行した。
――…………。
――だから、どうした?
妹と自分の命を守るため、だ。
こちらの命を狙う相手を、返り討ちにしたのだ。
何の問題もない。
むしろ、誇ってもいいくらいだ。
なのに。
――どうして、こんなに怖いんだ?
たぶん、僕がおかしいのだ。
この世界で、命を狙ってきた相手を殺すなど、当然のことだ。
特に、誰かに確かめたわけでもないけど。
たぶん、みんなそうだ。
騎士の修業をしたものは当然、敵を屠ることにためらいはしない。
そこまで修行をしていない兄にしても、あるいは村の人たちにしても、意識はそれほど違わないだろう。
相手を殺らなければ、自分が殺られる。
その場合、先に殺ることが、唯一の正解だ。
そこに疑問が、あろうはずがない。
なのに。
――どうして僕は、こんなに怖いんだ?
分からない。
理屈抜きで、恐ろしい。
こうして、震えが止まらない。
たぶん、僕がこの世界の人間として、おかしいのだ。
根本の常識、のようなものが、たぶん異なっている。
それはもしかすると、例の『記憶』がもたらすものなのかもしれない。
あるいは、赤ん坊の頭と身体に、この感情が過剰なせいなのかもしれない。
いずれにしても。
たぶんこれは、誰に相談しても理解されないもの、という気がする。
最も僕を理解してくれている兄にも、それはきっと無理だろう。
僕自身が克服し、押さえ込まなければならないもの、なのだと思う。
自分で、何とかしなければならない。
そのままにしていいはずも、ないのだ。
これまでも僕は、何度も命を狙われている。
これからも同様のことがないとは、言い切れない。
また、妹や他の家族が巻き込まれることがあるかもしれない。
そんなとき、僕は決断しなければならない。
それ以外にも。
この国では、いつ軍事衝突が起きても不思議はない。
自分で戦闘の場に出なければならないかもしれない。
兵や民衆に、戦闘を命じなければならないかもしれない。
人を殺すことをしたくないなど、綺麗事を言っていられるはずがないのだ。
僕はこれを、克服しなければならない。