「遅い」
すっかり日が沈んでから、もう随分経つ。
ミハイルが苛々とした様子で呟く気持ちも、わからなくはない。
「落ち着け。
恐らくファルタン嬢が腐を堪能しすぎているだけだ」
そう告げれば、彼は何か言いたげな視線を俺に寄越した。
俺が腐というものを知っている事に、驚いたようだな。
想い人が何を好むか理解するのは当然の事。
しかし未だ誰かに惚れた事のないミハイルには、俺の思考が読めないのだろうが、それは仕方ないのだ。
「相手はあのファルタン嬢なのだ。
公女と腐について熱く議論できるような人物ならば、寄り道を堪能していても不思議ではない」
「それは……選任を失敗したのでは……」
続けて並べた言葉には、さしものミハイルも不安になったようだ。
ここはしっかりと彼女の特性を伝えてやらねばなるまい。
「いや、それはない。
ファルタン嬢ほど、潜入調査に向いた者は早々いない。
彼女は聖獣の加護により、五感が秀でているばかりか、存在感を限りなく薄くできる。
何よりも腐に関しては、公女を随分と敬い、盲信している。
必ず腐の伝導師たる公女を探し出してくれるはずだ」
「また……フ……伝導師……」
俺達は今、教会近くの通りに馬車を停め、中で待機している状態。
もちろん平素よりも近い距離感で座っている。
にも拘らず、何故かミハイルが遠くなった気がするが、まあ気の所為だろう。
「ゴホン。
ファルタン嬢に渡したという魔法具は、ちゃんと作動するんだろうな?」
ミハイルがそれとなく咳払いをして、気を取り直したようにそう尋ねた。
距離感が戻ったように感じる。
やはり俺の気の所為だったようだ。
「ああ、そうそう壊れる事はない。
膨大な魔力を圧縮して一瞬で流さない限り、魔導回路が壊れる事もないだろう」
元々は公女に気軽に呼び出してもらいたくて、試行錯誤していた時にできた代物だ。
これはこれでいくらか護身用になるからと、彼女に渡すつもりで懐に忍ばせていた。
公女は間違いなく天才魔法師だが、だからこそ危機感があまりない。
俺の感じる危険を彼女が危険と認識しないところに、どうしても危うさを感じてしまう。
そもそもが天才魔法師である彼女にとって、大抵の出来事に危険は無いのもあるだろう。
杞憂なら杞憂で良いのだ。
たまたまできた魔法具だったしな。
「騎士団で支給される、要人の緊急避難用魔法具を改良したからな。
丈夫なのは間違いない。
作動すればこの対になる魔石が共鳴して、ファルタン嬢が持つスティックの近くに、俺達が転移する。
その後はスティックを持つ者の足下に魔法陣が現れて、魔法陣の中にいる者は城の俺の私室に転移する」
「あえて転移先にはつっこまないが、妹にそれを渡すなら、次からはロブール家の邸にしてくれ。
それにしても、よくそんな魔法具が存在したな。
騎士団の避難用魔法具も、騎士の命と引き換えに作動させるようなものだ」
そういえばミハイルには俺が製作した物だと伝えていなかったか?
どうやら既製品だと思っていたらしい。
「作ったのは俺だ。
聖獣ヴァミリアの羽根を使ってな」
「……まさかあのハリセンから剥がしたのか?」
どこかぎょっとしたような顔をして、何を当たり前の事を聞いてくるんだ?
「ああ、そのまさかだ」
「よく貴重な聖獣の素材を……」
まあ貴重ではあるが、魔獣素材と同じく消耗品だろ?
「そうだな。
だが剥がした瞬間、灰になった」
「え?」
驚くのも無理はない。
ハリセンから剥がすとそうなるよう、あらかじめ魔導回路を描きこまれていたからなのか、それとも本来の持ち主だった公女以外が、羽根を聖獣の許可なく別の用途で使おうとしたからそうなったのかは、正直もうわからない。
ちなみにハリセンは、俺の父親である国王陛下に没収される前に、隠しておいた。
魔法師団長とは当然口裏を合わせている。
騎士団長もこっそり持ち帰り、人目に触れない所に保管してある。
もちろんそれは黙認する事にした。
「だから片方のハリセンの端を古新聞ごと切って、魔法具の中に押しこんだ」
ハリセンには本体を挟むように朱色の羽根が米粒が溶解したような糊で雑に貼りつけられていたからな。
もちろん俺の、とは言っていない。
一々言う必要もないだろう。