湖上を抜ける風が横髪を揺らしている。母のお手製の帽子が飛ばないよう髪留めの位置を確かめながら、書き終えたばかりの手紙に目を通した。
両親に宛てた手紙には、間近に迫ったカナルフォード学園への到着を綴っている。
客船の甲板から見える景色は、ヴェネア湖を渡る間に、見慣れたトーチ・タウンからカナルフォード学園へとすっかり移り変わっていた。
カナルフォード学園行きの大型客船にアルフェとホムとともに乗り込んだ僕は、この春から入学するカナルフォード高等教育学校へと向かっている。
カナルフォード学園は、トーチ・タウンとはヴェネア湖を挟んで向かい合わせの場所に位置する。向かい合わせといっても、海と見紛うほどに広大なヴェネア湖は、横断に大型客船で六時間を要するため、対岸の都市として見えることはない。
だから今、間近に迫っている近代的な街並みは、僕の目に新鮮に映り、初めて親元を離れて暮らすのだという実感を改めて感じさせている。
生まれてから十五年の間、惜しみない愛情で僕を育んでくれた両親の元を離れるのには、理由がある。
最も大きな理由は、母の黒石病だ。
「さて、ルドセフ院長にも手紙を書いておくか」
両親宛の手紙に封をすると、僕はインクボトルに挟んであった便箋を引き抜いた。ルドセフ院長は、母のかかりつけ医である黒竜灯火診療院の院長のことだ。
黒竜灯火診療院には、僕が開発した黒石病抑制剤――疑似万能霊薬を託してある。細胞置換の効果をもたらすこの薬は、黒石病のみならず、数多くの難病を治療するのに役立つだろうというのは、ルドセフ院長の見解であり、僕もその効果を狙って錬成している。それ故に、あらゆる病を治すと言われている万能霊薬にちなんで疑似万能霊薬と期待を込めて名付けたのだ。
だが、母の黒石病の根治には、この疑似万能霊薬では当然足りないことは、前世の僕の経験から明白だ。だから、僕は当面の目標を黒石病の根本治療である反物質を人体から取り除く薬――つまり、本物の万能霊薬を錬成することと決め、充実した研究環境を得るための手段として、カナルフォード学園高等部を進学先に選んだ。
全寮制のカナルフォード高等教育学校は、帝国の高等教育機関における最難関のひとつで、この学校の卒業条件を満たすことが、僕の目指す帝都ニブルヘイム医科大学への最短ルートなのだ。
また、客船で六時間を要するとはいえ、実家がすぐに帰ることのできる距離にあるというのも大きい。
僕は、ルドセフ院長宛の手紙のなかで、母の病状に変化があれば、どんな些細なことでも伝えてもらえるように念を押して、ペンを置いた。普通の家庭であれば、子供にそのような報せは寄越さないものらしいが、僕には疑似万能霊薬がある。これだけ念を押しておけば、疑似万能霊薬を母以外の患者に使うことを許可しているわけだし、義理堅いルドセフ院長は必ず報せてくれるだろう。
さて、手紙を書き終えたことだし、そろそろホムも荷造りを終えて戻ってくる頃だろうな。そう思って顔を上げると、強い風が吹いて、書き終えたばかりの便箋が宙に舞い上がった。
「あっ」
「お任せを、マスター」
反射的に発した声に、ホムの静かな声が重なる。目の前を一陣の風が駆け抜けたかと思うと、その肢体を軽々と宙に跳躍させたホムが指先で便箋をとらえたのが見えた。
「ありがとう、ホム」
「お役に立てたなら幸いでございます」
便箋を取り戻したホムの頭を撫でてやると、ホムがくすぐったそうに目を閉じる。声の抑揚に大きな変化はないが、ホムが喜んでいるのは僕にははっきりとわかった。
喜怒哀楽の感情が人一倍豊かなアルフェに比べれば、まだまだ表情としては乏しいが、僕がホムを家族と認めて以来、その表情は日に日に鮮やかに色づいている。白い頬が微かに紅潮しているのも、良好な変化と見ていいだろう。まあ、僕がホムの表情をより見分けられるようになっている、と言い換えることもできるだろうが。
「……もうすぐ到着ですね、マスター」
舷に係留ロープが用意され、船が着岸の準備を始めている。
「そうだね。アルフェが化粧室からまだ戻らないが、知っているかい?」
化粧室に行くついでに荷造りをしに部屋に戻ったと考えても、アルフェにしては随分と遅い気がする。甲板から対岸のカナルフォード学園を一緒に眺めたいと話していたアルフェのことだから、この景色を喜ぶはずなのだけれど。
「……船にでも酔ったかな……」
元気そうに見えたが、いつになくはしゃいでいるようにも感じたのは、具合が悪いのを隠そうとしていたのかもしれないな。
「ご様子を伺って参ります」
「手紙も書き終わったし、僕も行くよ」
すぐにでも船室に走っていきそうなホムを呼び止め、テーブルの上の筆記用具を手早くまとめていると、アルフェの足音が聞こえてきた。
「リーフ!」
ああ、良かった。どうやら船酔いではないらしい。
息を弾ませ、笑顔で駆けてくるアルフェはいつもとは違った雰囲気だ。唇や頬がほんのりと赤くなって見えるのは、なにかつけているせいだろうな。
「……どうかな?」
アルフェが僕との距離を少しおいて、顔の角度を変えながらアピールしてくる。
「もしかして、お化粧……しているのかな?」
流行には疎いので確証がもてなかったが、年頃の女性は化粧を嗜むらしいという話は、耳にしている。母はあまり化粧気がないし、僕は少女の姿から成長しないのであまり縁がないのだけれど。
「うん。高校生だし、カナルフォードは都会だから、お洒落しておきたくて……。下手っぴだから、変かもしれないけど……」
僕がまじまじと見つめたせいか、アルフェが頬を赤くして目を伏せる。アルフェが頬骨に沿って塗っている頬紅よりも、アルフェの自然な肌の変化は美しかった。
化粧への好意的な意見を発する機会を逃してしまったようだが、元々アルフェは可愛いし、口紅や頬紅をつけなくても、今みたいに嬉しいときにぱっと薔薇色に染まる頬なんかはとても可愛いと思っているから、そのまま伝えておくのがいいだろうな。
「アルフェは今でもお洒落だし、そのままで充分可愛いよ」
「そう……?」
僕の目線にあわせて屈んだアルフェが、右足の爪先を立てて足首を所在なく動かしながら、上目遣いに訊ねてくる。
「うん。アルフェは特に笑顔が可愛いし、本当に嬉しいときに頬が薔薇色に染まるところを見るのが僕は好きだよ。見ているこっちまで嬉しくなるからね」
素直にアルフェへの想いを口にすると、アルフェの頬がさらに紅潮して美しい薔薇色に染まり、その目がきらきらと輝いた。浄眼を隠すために角膜接触レンズをつけているけれど、陽に透けて見える金色の瞳はいつ見ても綺麗だ。
「えへへっ。リーフ、大好き!」
アルフェがはにかむように笑って、僕にぎゅっと抱きつく。十五歳になったアルフェとの身長差はまた広がってしまったけれど、毎日のように抱きつかれているので、僕の方もすっかり慣れてきた。
それにしても、アルフェは香水でもつけたのかな。いつも香っている花のような匂いが今日は一段と鮮やかに感じるな。
「リーフがそう言ってくれるなら、ワタシ、背伸びするのやめようかな」
「アルフェがしたいようにすればいいよ。僕はどんなアルフェでも好きだから」
「ワタシも!」
抱擁を解いたばかりのアルフェが、すぐに僕の手を握って顔をのぞき込むようにして微笑んだ。
アルフェに表情が見えるように顔を上げると、湖上を吹く風が、僕たちの間を抜けていった。
「……っ」
にこにこと笑っていたアルフェが、目を閉じて唇を噛む。
「目にゴミが入った?」
「うん。でも、自動洗浄で流れるから、平気」
アルフェはそう言いながら涙で濡れた目を開けて、何度か瞬きをしている。
とはいえ、成長したアルフェに合わせて、もう少しレンズのカーブを調整した方が良いのかもしれないな。