その日の放課後、掃除が終わったあとアルフェが買いたい物があるというので貴族寮の方へ出かけることになった。
普段は一般寮の区画と中庭、それと校舎を行き来するくらいなので、貴族寮の敷地側に立ち入るのは初めてだ。アルフェはファラに案内してもらったことがあるらしく、堂々と貴族寮の石畳の道を進んでいく。
途中で見かけた案内板とアルフェの話を合わせると、一般寮のちょうど反対側に位置する区画に、ちょっとした店が並ぶ一角があるということらしい。建前は学園寮なので、一般寮の生徒も立ち入りを禁じられているわけではないのだが、店が並ぶ商店街と呼ばれる区画に入っても、一般寮の生徒はほとんど見かけなかった。
幅の広い石畳の道を挟むように、幾つもの店が軒を連ねている。百メートルほどの通りにはざっと二十軒ほどの店が軒を連ね、その幾つかの店では軽食やスイーツなどを提供しているようだ。
夕刻の柔らかな光に合わせて調光された魔石灯の下に、深緑色のテーブルと椅子が幾つも並べられ、優雅なティータイムをテラスで楽しんでいる生徒たちの姿が見える。
スイーツを扱う店の名物、生クリームとフルーツソースがたっぷりとかかったシフォンケーキと紅茶が人気らしく、どのテーブルにもそれが載っているのが面白い。
道行く貴族寮の生徒らが、その脇を談笑しながら歩いて行くが、先ほどから彼らの視線が二人の女子生徒に注がれていることにふと気がついた。
二人を初めて見る僕でも、彼女たちの振る舞いや雰囲気が普通の貴族とは異なるように感じられるのは多分気のせいではないだろう。男女問わず羨望の眼差しを向けられている上に、取り巻きらしき女子生徒らが遠巻きに眺めているところを見るに、かなりの有名人のようだ。
「……生徒会長のエステア・シドラさんと、ルームメイトのメルア・ガーネルさんだよ」
僕の視線に気づいたアルフェが囁き声で教えてくれる。金色の長い髪を黒いリボンで頭の高い位置でひとまとめにしているのがエステアで、肩より短い癖がかった茶髪に、両目の浄眼が印象的な女子生徒がメルアというらしい。
「メルアさんは魔法科なんだけど、特級錬金術師の資格も持ってるんだって」
「それはすごいね」
ということは、今受験すれば僕も特級錬金術師の資格が取れるということになるのかな。選択授業が始まったら、周囲の様子を窺いつつ先生に相談してみよう。
「……ところで、アルフェの買いたいものってなんだい?」
エステアとメルアの取り巻きを迂回して商店街を進みながら訊くと、アルフェが目をキラキラと輝かせて微笑んだ。
「あのね、ワタシ、リーフとお菓子を作りたいの。ファラちゃんに聞いたら、寮生用の調理室があるんだって」
「お菓子か……」
そういえば、寮に入ってから料理らしいものはなにも作っていないな。
「リーフもお料理好きだし、気分転換にもなるかなって。どうかな?」
「すごく素敵な案だと思うよ。せっかくだから、クッキーを焼こうか」
「うん!」
クッキーなら日持ちもするし、たくさん作っても問題ないだろう。今回のお礼にウルおばさんやファラ、ホムにお裾分けするのも良さそうだ。
アルフェが大きく頷いて、僕の手を引いて日用品と食材を扱う店へと進んでいく。入り口を見る限りこぢんまりとして見えたその店には、所狭しと商品が並べられている。
「すごい品揃えだね」
「貴族寮の方々からの注文が多くてね。店に並べきれていないものもたくさんあるよ」
クッキーの型まで、何種類も揃えられているのには驚きだ。アルフェが好きそうなハートや花の型が可愛らしくて良いだろうな。
「バレンタインに人気なんだよ。リクエストに応えるうちに増えちゃってねぇ」
店を取り仕切る痩せた老婦人が品揃えに圧倒されている僕たちを見て、気さくに話しかけてきてくれた。
「あんたたち、クッキーを焼くのかい?」
「そうなんです」
見た目で貴族寮の生徒ではないとわかるのだろう。砕けた老婦人の口調からは親しみが感じられる。
「それじゃあ、小麦粉、バター、砂糖と卵が必要だねぇ」
そう言いながら、店の主人である老婦人が買い物籠に材料を入れてくれる。それにしても小麦粉ひとつとっても幾つも種類が用意されているのは面白いな。せっかくだから、単なるクッキーというよりは一工夫してみたいものだが――。
そんなことを考えながら店の商品を眺めていると、見慣れない粉を見つけた。かなり少量だが、小麦粉と同じくらいの値がつけられている。
「クリーパー粉……?」
クリーパーというのは、洞窟に棲息する半透明の薄い布のような形態をした植物系の魔獣の名だ。洞窟の天井部にぶら下がっているもので、薄い布のようなベール部分は食べることができる。火に弱く、万が一引火すると瞬く間に膨張して弾け飛ぶのが特徴だ。
そのクリーパーを乾燥させてきめ細やかな粉末にしたものということだから、恐らく膨張剤としての機能を持っているんだろうな。
「ああ、これかい? この前入荷したんだよ。なんでもシフォンケーキの仕上がりが良くなるらしくてね」
シフォンケーキといえば、さっき見かけたスイーツ店の名物だ。恐らく、卵白を粟立たせたメレンゲで膨らませて焼くケーキに、このクリーパー粉を混ぜることで食感が良くなるのだろう。かなりふわふわしているように見えたが、生クリームの重みでくたっと潰れていなかったことを思い返すと、やはり膨張剤としての機能を期待していいようだな。
クッキーに入れたことはないけれど、ごく少量を混ぜて作ることで空気を取り込んだ軽い食感になりそうだ。
「これも頂けますか?」
「もちろんだよ。しかし、クッキーにねぇ……?」
老婦人は不思議そうに首を傾げながらも、会計をしてくれた。貴族寮の生徒が主な客層とあってかなり高額かと思えば、クリーパー粉以外は普通の金額でかなり良心的だ。
僕が全部出すつもりだったのだが、アルフェがどうしてもと食い下がるので半分ずつ出し、荷物はアルフェが持ってくれた。
「お買い物、楽しかったね。あれならリーフの手料理も食べられそう」
嬉しそうに紙袋を抱えたアルフェが、空いている方の手を僕に伸ばす。
「そうだね。食堂の料理が美味しくて、かなり刺激を受けているからなにか作りたいな」
手を繋ぐと、アルフェが指を絡めて包み込むように僕の手をぎゅっとした。
「選択授業が本格化したら、きっとお腹が空くから夜食にいいかも」
間もなく西に沈む夕陽が、僕とアルフェの影を石畳の上に伸ばしている。こうして長く伸びた影を見ると、二人きりで並んで歩くことさえ久しぶりだったことを思い出させた。
「そうだね。みんな育ち盛りだから、作り甲斐がありそうだ」
調理室の利用については、ウルおばさんに確認しておこう。基本的にどの設備も夜十二時までは使えることになっているから、大丈夫だろうけれど。
寮に戻り、調理室の冷蔵魔導器に名前を書いた袋をしまう。利用者はあまりいないらしく、冷蔵魔導器は空っぽだった。
ウルおばさんの話だと、警備の都合で夜十時までなら自由に使って良いことになっているようだ。火を扱うことを考えると、他の設備よりも利用時間が短いことも頷ける。
「それにしても、穴場だね」
寮の調理室は、掃除が行き届いているが、あまり使った形跡がない。
「あれだけ美味しい料理を食堂が出してくれるなら、わざわざ料理をする生徒もいないんじゃないかな?」
実際、余裕がなかったということもあり、僕自身もアルフェが言い出してくれるまで自分でなにかを作ろうという考えが浮かんでこなかった。
天火魔導器もほぼ新品のように綺麗だし、これからここを自由に使えると思うとなんだか楽しみになってきたな。
家でも父と母、ホムに料理を振る舞って家族の時間を大切にしてきたように、寮を第二の家と考えたら僕の料理でなにか役に立てることがあるのかもしれない。