老師タオ・ランと別れてカナド通りを離れ、生まれ育った街の東側に戻ってくると、やっとアルフェの緊張が解けたのがわかった。
「もう大丈夫だね、リーフ」
僕に気づかれているのを悟っているのか、少し無理をしたように微笑みながらアルフェが絡めた腕の力を抜く。エーテルが見えるアルフェは、僕たちに危険が迫っていないかずっと気を張っていたのかもしれない。いつになく強く抱き締められていた僕の腕は少し痺れていたが、アルフェを安心させるために、手を繋ぎ直した。
「リーフの手、冷たくなってる」
そう言いながら指を絡めてくるアルフェの手も冷たい。きっと、僕が想像している以上のストレスを感じたのだろうな。やはり、この状況でホムとアルフェを行動させるのは危険かもしれない。
「……あのね、リーフ……」
僕が考えていることに勘づいたのか、アルフェが絡めた指に力をこめて手を握ってくる。
「ワタシ、平気だよ。だからこれからも、ずっと変わらずに一緒にいて」
ああ、やっぱりアルフェはそう言うだろうな。妙に納得しながら、僕はアルフェの目を見て頷いた。
「そういう約束だからね。アルフェの望まないことはしないよ」
「……えへへ。リーフ、大好きっ」
小さく跳ねたアルフェの動きに伴って髪が弾む。角膜接触レンズ越しの浄眼が、夕陽の光に透けて金色に輝いて見えた。
アルフェと別れて帰宅した僕は、勤務明けで帰宅していた父に、今日の出来事を話した。
あの誘拐犯もどきの男たちのことは話すべきか迷ったが、饅頭屋の女主人から証言が取れると踏んで、警戒すべき人物として共有しておいた。目撃証言がきちんと取れれば、軍と警察の連携で、街の警邏が強化されることになるようだ。
主題である、老師タオ・ランについての話は、その流れでかなりスムーズに受け入れられた。僕とホムが直感したように、タオ・ランは大陸を旅する有名な武芸の達人らしい。
交易路を塞ぐ大岩を素手で砕いたり、蹴り一つで海を割り小島まで歩いて渡ったなどという伝説が各地に残っており、武芸を嗜む者でその名を知らない者はほとんどいない。
この街にやってきたのは数ヵ月前で、風土が気に入ったのか、珍しく長期滞在をしているようだ。
「……詳しいのですね、父上」
「一度訪ねて、少し手ほどきを受けたからな。だが、ただ向き合っただけで格の違いを見せつけられたよ」
そう話す父は、まるで少年のように目を輝かせて笑っている。かなり良い経験を得たというのは、間違いないらしい。そんな父は、ホムが無償で手ほどきを受ける約束を取り付けてきたことに驚きつつ、ホムの強さを見抜いているのだろう、と誇らしげに頷いた。
母にはかなり心配されたが、今回の誘拐未遂のこともあり、危険なことはしないという約束をしつつ、毎週末の約束で、タオ・ランから指導を受ける許可を得た。
* * *
タオ・ランと約束した、次の週末――。
「こちらです、マスター」
ホムの案内で、カナド通りの奥にある赤い丸屋根の宿屋に僕たちは辿り着いた。
「ほうほう。三人仲良くやってくるとは、ホム嬢ちゃんだけのつもりではなかったか」
「修行のメインはホムです。僕とアルフェは、きっとほとんどついていけないでしょう。見学などという生温いことをするつもりはありません。ですが、最低限の護身の術は老師から学びたいと思っています」
あくまで修行のメインはホムだが、同行している以上は僕もアルフェも自分の身を守れるぐらいにはなりたいと思っている。その偽りのない言葉をタオ・ランは受け入れ、深く頷いてくれた。
「結構結構。ホム嬢ちゃんがこれだけ強ければ、二人の嬢ちゃんは鍛えずとも良いとは思っておったが、その志は立派じゃな」
「ありがとうございます。足手まといにだけはなりたくないので」
「マスターが足手まといになるはずがありません」
我慢ならなかったのか、ホムが僕の言葉に続けて大きく首を横に振る。
「マスターとアルフェ様は、わたくしが守るべきです」
「アルフェのことも、守ってくれるの?」
「当然でございます、アルフェ様。わたくし、命に替えてもお守り致します」
アルフェの問いかけにホムは胸に手のひらを添えて、恭しく頭を垂れる。さすが僕が作ったホムンクルスだ、しっかりと心得ているな。だが、その覚悟はある意味で危険な気もする。
「僕が与えた命なんだから、そう無駄にしないでほしいな、ホム」
どこかでホムの考えを少し改めてやる必要があるだろう。今のところは、このぐらいの命令で伝わるだろうか。
「危機的状況においては、やむを得ません。ですが、マスターのご命令とあらば、もちろん最大限の努力を払います」
「何やら難しいことを考えておるのう」
僕とホムのやりとりに、タオ・ランが苦笑を浮かべている。老師からすれば、こんな子供が主従関係を結んでいるというのもおかしな話なのかもしれない。タオ・ランの前では、もっと『普通の』子供のように振る舞っておくべきだろうか。
「……さて、武術に優れていなければ足手まといになるかと言えば、必ずしもそうではない」
僕の心配をよそに、タオ・ランが穏やかな口調で僕とアルフェを交互に見つめた。
「アルフェ嬢ちゃんは、魔法が得意じゃろう? それを活かす手はいくらでもある。リーフ嬢ちゃんは、地頭が良い。どう戦えば活路が開けるかを常に読むことができるじゃろう。わしと出会った時のようにな」
あの状況で、こちらのことも見抜いていたとは、恐れ入るな。
「そういう訳じゃから、ここは出来るだけホム嬢ちゃんに合わせて進めるとするかの」
タオ・ランはそう言いながら、僕たちの要求を否定することなくしっかりと受け入れてくれた。
「宜しくお願い致します、老師様」
ホムが、右手の拳を左手の手のひらに押し当て、ゆっくりと頭を垂れる。カナド風の抱拳礼でタオ・ランへの最大限の敬意を見せたホムに倣い、僕も気を引き締める。やれやれ、老師の元でマスターと呼ばれるからには、常にホムの手本でいなくてはならなくなったな。