「私は父の事が大好きでした。いつもやさしくて、頼りになって……前世の記憶を思い出した後も、私のお父さんはあの人だけだって思っています」
――前世の記憶を取り戻してもか……
迂闊にヴァネッサの前世について聞くべきではないと、静かに心に刻む。
「……ヴァネッサも、転生した当初は前世の記憶を覚えていなかったのか?」
「はい。12歳の誕生日に急に思い出しました」
暗い表情をしながら、ヴァネッサがカウンター裏から回って来て俺の隣に座った。
「記憶が蘇っても、あまり動揺しませんでした。私は父との暮らしに満足していて……いつまでもこんな平穏な日々が続けば良いなって、そう思っていたのに……」
「……何があったんだ?」
あまり踏み込んではいけないと思いつつ、ヴァネッサが打ち明けてくれようとしているので彼女の話を最後まで聞く覚悟を決める。
「記憶が蘇ってから……段々と父がよそよそしくなって行ったんです。理由を聞いても教えてくれず、家の外にも出して貰えなくなりました。何か嫌われてしまう事をしてしまったのか心配になり、ある日逃げるように家を去ろうとする父に縋ったら突き飛ばされたんです」
――どうして……
「『ヴァネッサ、こんな父親でごめんな。お前の事を、好きになってしまいそうなんだ……』……父はそう言い残して家を出て行きました」
「まさか……」
「……記憶を取り戻してから……無意識に魅了魔法を発動していたみたいなんです」
「……」
「お父さんは……そのまま自分の事を異常者だと勘違いしながら酒に溺れて行きました。誤解を解きたいのに、あの日以降まともに顔を合わせてくれなくなってしまいました」
震えながら俯くヴァネッサの目に、涙が溜まっていく。
「必死になって魔法をどうにかしようと努力しても無駄でした……記憶を取り戻す以前はほぼ魔力がなくて、魔法の使い方なんて分からなくて……」
最早塞き止める事が出来ず、ヴァネッサの頬を大粒の涙が流れる。
「酒代を払えず、借金の担保としてバレスタが私を連れて行った日に暴れていたのは……もう私の知ってるお父さんじゃなかった……私の、せい、で……」
「それ以上言わなくていい……辛い話をさせてしまってすまない」
カウンターの方向から、静かに涙するヴァネッサの方に椅子の上で向き直す。
「ヴァネッサ、出会ったばかりの俺が何と言おうと響かないかもしれないが言わせてほしい。最後までヴァネッサの事を思って行動した君の父親は、変わってなんかいなかったと思う」
「デミトリ……」
「悪いのは無責任に月神が授けた魅了魔法で、ヴァネッサのせいじゃない……!」
安心させたいがために力強くそう言い切ったが、気安めにしかならないだろう。彼女の心の内は想像すらできないが、愛する家族を死なせた罪悪感は俺の言葉程度では拭えないはずだ。
――惨すぎる……神々は転生者を弄んで何がしたいんだ……?
ヴァネッサの話を聞いて、自分の内に潜めていた神々に対する怒りが燃え上がりそうになるのを必死に抑える。
「あの……」
ヴァネッサも椅子の上でこちらを向いて、おずおずと右手をこちらの方に差し出してきた。
「握手してください」
「……? 分かった」
ヴァネッサの右手を軽く握り、反射的に軽く上下に振ってから離そうとしたがヴァネッサが離してくれない。
「本当に大丈夫なんですね……」
ようやく掴んだ俺の手を離したと思ったら、ヴァネッサが少し考えた後両腕を大きく広げた。
「ハグしてください!」
――『ハグ』か、久々に聞いたな……
「……男女がみだりに抱擁するべきじゃないし、せっかく俺には魅了魔法が効いてないのにそれで効いてしまったらどうするつもりなんだ? 無暗に検証するべきじゃない」
「そう……ですよね……」
あからさまに落胆しながら、ヴァネッサが両腕を下げた。
「そんなに落ち込まなくても――」
「お父さんも……あの日以降、ハグしてくれなくなって……」
知らぬ内に落ち着き始めていたヴァネッサの地雷を踏んでしまった様で焦る。
――……今は魔力も乱れてなさそうだし、問題ないか……?
「……昨日の件もある。心が乱れると魅了魔法が発動し易くなるみたいだから深呼吸してくれ。落ち着いたら、試してみてもいい……」
これまで石橋を叩いてから渡る方針だったため、心がざわつく。
――無意味に危険な橋を渡る必要はないが……
必死に深呼吸を繰り返すヴァネッサを見ていると、警戒心よりも同情心が勝る。ようやく落ち着いたヴァネッサが両腕を広げたので、自分も腕を広げて抱擁を受け止める。
――自分も人の事を言えないが、酒臭いな……
「お父さん……」
胸元に顔を埋めながら、ヴァネッサが零した言葉を聞き逃さなかった。再び泣き始めた少女の背中を、やさしく摩る。
――なんだかんだ言いながら、今世で抱擁されるのは初めてかもしれないな……
亡き母の事は覚えていないので、赤子の頃に抱かれた可能性はあるが……物心がついてからは殴られはしても優しく触れられた記憶などない。
そんな事を考えていると、胸元が生暖かい液体で濡れて嫌なことを思い出す。
――セイジのあれは……違う。
不意に思い出してしまった嫌な記憶に蓋をして、ヴァネッサが落ち着くのを待つ事にした。