「ひっひ、お邪魔だったかねぇ?」
「起きたみたいだな、デミトリ」
酒場の入口の方から声を掛けられ、振り向くためにヴァネッサを離そうとしたが想像以上に強い力でヴァネッサに抱きしめられ動けない。
かろうじて首だけ振り返ると、マルクと全身黒いローブに包まれた絵にかいたような怪しい老婆がこちらに向かって歩いてきた。
「この子がヴァネッサだね?」
老婆が、未だに俺の胸元に顔を埋めるヴァネッサを枯れ木の枝のような捻じれた杖で指す。
「ああ、潜りの闇魔術士に隷属魔法を掛けられてるらしい。リディア氏、解呪を頼めるか?」
「ちょいと失礼するよ」
杖を持っていない方の手で、老婆がヴァネッサの頭を鷲掴みにする。一瞬ヴァネッサの体がびくんと揺れた後、黒い靄のような物が体から抜け出てきた。
「絶対服従の隷属魔法を掛けるなんて、その潜りの闇魔術士に依頼した不届き者は余程この娘に執心だったのかねぇ? ひっひ」
リディアが杖を持った手を振ると、黒い霧が霧散した。
「終わったよ」
ものの十秒で解呪を終えたリディアを思わず凝視してしまったが、マルクの落ち着き様からこの速度は普通の事らしい。
「朝早くから出勤してもらってすまない。報酬はギルドから口座に振り込んでおくから確認してくれ」
「ひっひ、毎度あり。何かあったらいつでもお呼び? ただ、そっちの坊やは私でも手に負えないからねぇ?」
リディアはそれだけ言い残して酒場を後にしようとしたが、慌ててマルクが呼び止める。
「待ってくれリディア氏。それは、デミトリの事か?」
「デミトリって言うのかい?」
「……ああ」
「ひっひ、おもしろい子だねぇ」
目を怪しく光らせながら、満面の笑みを浮かべたリディアが指を三本上げる。
「坊や、三と言う数字に心当たりはあるかい?」
「三……? 特にないが……」
「坊やが呪われてる神様の数だよぉ、ひっひ」
「な!?」
――呪われているとは思っていたが、神だと?
「リディア氏、それは本当か!? デミトリは大丈夫なのか!?」
「落ち着きなさいマルク。神呪は別に悪いものとは限らないからねぇ、ひっひっひ」
「しんじゅ……?」
「神の呪いだよぉ、ひっひっひっひ」
「全然笑えないんだが……」
――そんなに神々は俺の事を殺したいなら、なんで転生なんてさせたんだ……
「ひっひ、期待されてるんだからいいじゃないか」
「期待……?」
「神が人を裁く場合は神罰を下すからねぇ。神呪を授けられたのは、坊やに試練を与えたってことだねぇ、ひっひっひ」
「……呪われて何度も死に掛けているんだ、呪いを掛けたのが神だとしてもただの呪いと変わらないと思うが」
「ひっひ、でも坊やは死んでない。人の扱う呪いと神の呪いを勘違いしたらいけないよぉ」
――違いが分からないんだが……
「とにかく、神呪は私にも手に負えないから上手く付き合うんだねぇ。ひっひっひっひ」
それだけ言い残すと、リディアは颯爽と酒場を去って行った。
「デミトリ……リディア氏はギルドの専属解呪士を務める前は宮廷魔術士だった。少しばかり……胡散臭いが腕と知識は確かだ。気になるのも分かるが、彼女の言い振りから今すぐ命に別状があるわけでもなさそうだし、一旦聞かなかった事にした方がいい」
「……そうだな」
――解呪できないなら悩んでも仕方がない。これまでもなんとかなったんだ……大丈夫だろう。
根拠はないが、なんとかなると自分に言い聞かせる。
「今後についてギルドで話したいんだが……ヴァネッサ、大丈夫か?」
マルクに声を掛けられ、ヴァネッサが名残惜しそうにしながら解放してくれた。
「すみません……隷属魔法を解いて頂いたリディアさんにも、お礼を言えず……」
「あの方はギルドからの報酬さえ受け取れれば、細かい事は気にしないから問題ない。早速で申し訳ないんだが一緒にギルドに来てもらえないか?」
「分かった」
マルクが先導しながら酒場を出て、ギルドの方面に歩き始めた所でヴァネッサが足を止める。丁度マルクの立っている位置の地面を見つめながら、呼吸が乱れているのが見て取れる。
「……大丈夫か?」
「逃げようとした時の事を思い出してしまって……」
ヒューゴの説明通りなら、バレスタ商会の半径二十メートルから先に踏み出したら最悪死ぬとまで言っていたから最低でも一度は逃げようとしたに違いない。死に至らなかったものの、隷属魔法に逆らおうとした罰で体に激痛が走ったはずだ。
「落ち着くまで待っているから、焦らなくて良い」
「……手を握ってください……」
消え入るような声で懇願され、マルクの方を見ると静かに頷いている。
――ここで立ち往生しても仕方がないか……
ヴァネッサの手を握り、彼女の歩調と合わせてゆっくりとマルクの立っている位置まで進む。マルクも横並びになり、全員で一歩踏み出してからヴァネッサの方を見る。
「ちゃんと、解呪できているみたいだな」
「はい……!」
「それじゃあ、ギルドに向かうぞ」
再び先導してくれたマルクの後を追おうとヴァネッサの手を離そうとしたが強く握りしめられ、そのまま手を繋いだまま歩き始めてしまった。朝方にも拘らず繁華街は冒険者の行き来が激しく、一部の冒険者達からの視線が痛い。
――ヴァネッサは不安だろうし、ここで魅了魔法を発動されても大変だ……視線がきついが安心させるためにも今は彼女の好きにさせてあげよう。
そう考えていたのだがそのままの状態でギルドに到着し、繋いだ手を解く間もなく二階のギルドマスターの執務室まで通されてしまった。
「おはようデミトリ君。朝から熱々だな」