ヒエロ山の中腹辺りまで到達した段階で幽氷の悪鬼が足を止めた。
ぜーはーと息を切らしながら、それまで怒りで忘れていた痛みを思い出したのか股間と尻を気遣うように中途半端に前屈をした状態で息を整えている。
――纏っている幽炎の勢いが弱まっているな……。
問題はあれが怒りに呼応しているのか、奴の体力と合わせて量が変わっているのかだ。このまま消耗させる事によって弱体化できるのであればそれに越した事は無いが――。
「名を、名乗れ……!!」
「……」
何を考えている? わざわざ今聞くような事でもないはずだ。
「どうした!! これだけこの俺を馬鹿にしておいて、今更名乗れねぇとは言わせねぇぞ!?」
「……デニスだ」
「っは! 言ったな!? 名乗ったな!?」
「自分から名乗れと言っておいて随分とご機嫌だな」
「ははははは!!!! 馬鹿め!!」
狂ったように笑い出した幽氷の悪鬼の体を包んでいた幽炎が燃え上がり、奴の頭上に集まって行く。
「呪術の真髄を理解してない人間風情が、邪鬼である俺様相手に舐めた真似をするからこうなるんだ!! 幽炎に包まれて死ね、デニス!!!!」
「……じゃきだかなんだか知らないが、こちらが名乗ったのに名乗り返さないのは礼儀がなっていないんじゃないか?」
偽名だがな……咄嗟に良い偽名が思いつかず、またデニスの名を借りてしまった事を後悔しながら幽氷の悪鬼の頭上に浮かんでいた幽炎の塊を警戒していると、徐々に塊が小さくなっていきついには消滅してしまった。
「は……? なんで消え……てめぇ何をした!?」
「本当の名を知らなければ発動できない類の呪術だったらしいな」
「な、嘘を付いたのか……?」
逆に何故素直に名乗ると思ったんだ……この鬼の今までの発言と氷魔法の使い方を見ていて、大雑把な性格なのは分かっていたがただの馬鹿なのかもしれない。
呪術の真髄だのなんだの宣っていたが、負の感情を制御しなければいけない呪術も奴の性格上得意ではないだろうと踏んでいたが……ここまでの間抜けだとは思わなかった。
「自動的に人を追尾させる代わりに雪と氷の上でしか幽炎が移動しない縛りを課したのと同じように、大方名乗った相手だけを追跡する縛りで幽炎を放とうとしたんだろう? 自分で呪力を制御するのをめんどくさがる奴の考えそうな術だな」
「くそ、くそ!!!! 完全に復活さえしていれば、小細工に頼らなくてもお前なんて一捻りなのに……!!」
弱っているのにも関わらずこちらの攻撃が一切通らず、回避に専念しなければいけない時点で嘘は付いていないだろうが……宝の持ち腐れだな。
あんなにお粗末で魔力量に物を言わせた氷魔法でなければ、俺はとっくに死んでいるだろう。呪術の扱いも、こいつにとってはおまけ程度の能力でしかないのかかなりおざなりだ。
「恵まれた力に甘えて鍛錬を積まない馬鹿はどの種族にもいるんだな」
「ふざけるな!! 魔王さ――魔王と同じような事を言いやがって!!!!」
また魔王という単語が出てきたが勘弁してくれ……こいつよりも強くて、鍛錬も積んでいる化け物が存在するとしたら絶対に出会いたくない。
「男なら逃げ回ってないで正々堂々勝負しろ!! 俺と戦え!!」
「散々魔法と呪術を放ってきた奴の台詞とは思えないな」
俺を追う途中から氷塊の大きさも速度も落ちていた上に、先程身体を纏っていた幽炎を失ってからかなり息が上がっている……こちらの油断を誘うための演技の線は――。
「があああああああああ、くそ!!!!」
無さそうだが……。
「うるさい!! 氷結の邪鬼、エフィルの名において決闘を――げほっ、ごあ!?」
嫌な呪力の流れを察知して幽氷の悪鬼の胃の中に忍ばせたままの水魔法を無理やり奴の気道に流し込む。何が起こっているのか分からず膝をついた鬼に体制を整える隙を与えないために、ゴドフリーの剣に纏わせていた氷を水に代え奴の腸内で暴れさせた。
「――――――!?」
悪鬼が声にならない叫びを上げているが、これだけ弱っていても内臓を魔法で突き破れないとなると本格的に手詰まりに近い状況だ。
「っぺ!! いつ、のまに!?」
案の定気道に纏わせていた水魔法は、魔力制御の抵抗虚しく吐き出されてしまった。
「くそ、結界を貼る詠唱を邪魔しやがって!!」
まさか、あの宣誓擬きが詠唱だったのか? 口を塞がなければ厄介な事になるな。
「もう奥の手はないだろ、俺に歯向かった事を後悔させてやる!! 氷結の邪――」
「これでだめなら逃げるしかないかもしれないな」
幽氷の悪鬼の全身を包み込む、半径4メートル程の水牢を発生させて取り敢えず詠唱を再び妨害する。
水中で気泡を口から撒き散らしながら水面に上がろうとする悪鬼を、水の流れを操りながら無理やり水牢の中心に押し留めながら様子を見る。
このまま圧殺できれば万事解決だが、魔法を行使し続けているため魔力量に余裕が無くなってきている。圧縮の魔法で倒しきれなかった時の事を考えると、魔力を温存してこのまま溺死するのを待った方が良いかもしれない。
「くっ、最後の悪あがきか」
水牢の水を押し退けて作り出されたいくつもの氷塊がこちらを目掛けて飛来してきた。
幸いな事に水中で歪んだ視界のせいなのか、焦り故に狙いが定まらないのかは分からないが、氷塊の多くは見当違いの方向に飛んでいったため避けるのにそれ程苦労はしない。
――奴は俺が氷の足場に乗って移動していたのを見ていた。少し考えれば、同じ要領で氷塊を自分自身に撃って一気に水牢から逃げ出せるのに気づけそうだが……本当に何も考えずに力を使っているんだな。
それなりに魔力を使う水牢を使うのを控えて、幽氷の悪鬼を消耗させる事に注力していた理由がまさにそれだ。
悪鬼の魔力に余裕があればすぐに逃げ出されてしまうことを懸念していたのだが……これならヒエロ山を登らず、すぐに水牢の中に捕えても問題なかったかもしれない。
次々に現れる氷塊の影響で乱れる水流を随時調整しながら幽氷の悪鬼を水牢の中に留めていると、徐々に悪鬼の動きが鈍くなっていく。
そのままじっと耐えていると氷塊が現れなくなり、悪鬼の口元から漏れ出る気泡も枯れ、体感で十分ほど立った頃には幽氷の悪鬼の目の焦点は合っておらず完全に動かなくなった。