野営地の設営も終わり小隊の大半が眠りについた夜更け頃。
長期間の遠征であれば遊撃班の自分も仮眠を許されただろうが、今回の遠征は帰還までの全行程を含めて三日間を予定した短いものだ。
「三日程度なら遊撃班に多少無理をさせても問題ない」という無茶苦茶な理論で寝ずの番を言い渡された俺は、野営地から少し離れた場所を巡回しながら一人状況を整理していた。
――遅かれ早かれこうなるだろうとは思っていたが、状況が悪すぎる。
言い渡されたイゴールの小隊への所属。あの言い振りから遠征・訓練を問わず徹底的にいじめ抜くつもりだろう。
――学園に行っていた三年間、直接甚振る機会が少なかったのが相当気に食わなかったみたいだな……
帰省する度そのストレスを発散するかのように悪意を向けてきたイゴールだが、あの様子だとそれでも物足りなかったらしい。
――今までもぎりぎり持ち堪えていたのに過ぎないのに、これ以上は本当に殺される……
父やイゴールが絡まない、領兵や使用人からの嫌がらせで命の危機を感じるようなものは比較的少なかった。
示し合わせているのか何か命令があったのかは知らないが、死なない程度に痛めつける範疇で収められていたのは偶然ではないだろう。
――いくら評価が低くても、さすがに辺境伯家の次男を殺すのはまずかったんだろうな。
ただイゴールの小隊に所属したら状況が一気に悪化する。今までも何度かイゴールから「指導」を受けてきたが、先日父に半殺しにされた時と同程度か時にはそれ以上痛めつけられた。
イゴールの小隊に所属してしまえば遠征だけでなく訓練でもイゴールと接触することになる。「指導」の頻度は今までと比べ物にならないだろう。そこにボリスからの折檻や他の領兵からの嫌がらせなどが加われば遅かれ早かれ耐えられなくなる。命が幾つあっても足りない。
――今夜を逃したら次の機会はない。生きるためには……逃げるしかない。
今回の遠征は一日目でストラーク大森林の浅地にある野営地まで辿り着き、二日目に討伐対象のゴブリンの巣まで進軍。討伐完了次第野営地まで戻り、三日目は野営地の撤収作業が完了次第グラードフ領に帰還する予定だ。
何度かイゴールとの遠征に参加した経験則から言うと遊撃班としての役割を終えた三日目の撤収作業後か、早ければ討伐が完了し気持ちが高ぶった状態で野営地に戻った二日目の夜にでも指導と称した暴力を受けるだろう。
――あの様子からして、待ちきれなくて明日の夜にはちょっかいを出されそうだな。
努めて冷静であろうとするが、過去に受けた仕打ちを思い出して鼓動が早くなる。
現状の自分の評価を覆す事はとうに諦めていたし、このままでは遅かれ早かれ殺される事も理解していた。
それでも逃亡する事に踏み切れなかったのは真面目に訓練を続けていればいつか戦士としての才能が花開くかもしれないという醜い期待と、グラードフ領から逃げ切るのが不可能に近いからだ。
いくら隠密行動が得意な自分でもグラードフ領からストラヴァ山脈へと続く関所の厳重な警備を乗り越えられる自信はない。
仮に関所を超える事ができてもストラヴァ山脈で遭難するか、物資不足で死ぬか、魔物の餌になるのが関の山だろう。辺境伯領からガナディア王国の他領へ逃げるのは厳しすぎる。
かと言ってストラーク大森林を抜けてヴィーダ王国に逃げるのも現実的ではない。
不戦条約を結んでいても遺恨が残ったまま。ガナディア王国とヴィーダ王国は今でも仮想敵国だ。仮にストラーク大森林を乗り越えてヴィーダ王国の最南端に位置する城塞都市エスペランザまで辿り着けたとしても良くて門前払い、最悪ガナディア王国の諜報員と疑われて尋問という名の拷問を受けた上で殺されかねない。
第一、侵略戦争時ヴィーダ王国は大軍を率いて魔物との戦闘を繰り返しながら約一カ月の行軍の末グラードフ領に辿り着いたのだ。物資も装備も整っていない個人での森林横断は自殺行為でしかない。
――それでもヴィーダ王国を目指すしか道はないな。
イゴールの事だ。逃げなかった場合グラードフ領に帰還後すぐにでも離れから兵舎に自分は移され、絶対に逃げられない状況に俺を追い込むのは目に見えている。
今すぐグラードフ領へ引き返してストラヴァ山脈から他領へ逃げるのも難しい。
領兵の警戒を潜り抜けて領地に忍び込むこと自体至難の業だ。運よく成功したとして、遠征に参加しているはずの俺が領内に居るのに気づかれた時点で逃亡兵として捕縛されるだろう。そもそもストラヴァ山脈側の関所超え自体が厳しいのに、挑む前に見つかる可能性が高すぎる。
――グラードフ領に戻った時点で未来はない。望みが薄くても、見つかりにくいストラーク大森林に逃げ込むしかないか。
今まで数えきれない程妄想しては諦めて来たグラードフ領からの逃亡。積み重ねてきた諦めの記憶が両肩に重くのしかかり「逃亡なんて成功するわけがない」という思考に決意が鈍りそうになる。
――奇跡を信じて逃亡するか、全てを諦めて死を待つか。二つに一つだ。
それ以外に選択肢はないと自分に言い聞かせるように、決意が揺らがないよう心の中で繰り返す。
――奇跡を信じて逃亡するか、全てを諦めて死を待つか。
闇と静寂が支配する森の中で、静かに呟く。
「俺は奇跡を信じる」
声に出すことで決意を新たにする。もう後戻りはできない。