――日の出まで後六時間弱、余裕はないがそれなりに距離を離せるはず。
決意は固まった、そして時間は有限。これからの計画を頭の中で組み立てながら巡回路を外れて野営地に引き返す。
魔力が体外に漏れ出ないよう意識し可能な限り気配を消しながら夜の森林を駆け、野営地の北側に位置する茂みの中に身を隠す。
イゴールの小隊は総勢三十一名。指揮官のイゴールを除く三十人は五つの分隊に分けられている。
いくら大森林の浅地とはいえ、斥候一人に寝ずの番を任せてストラーク大森林で夜を明かそうと考えるほどグラードフ領軍は馬鹿ではない。イゴール直属の精鋭扱いの第一分隊を除く四分隊の内、今夜は第二分隊と第三分隊から二名ずつ交代しながら夜番をしている。
暗闇の中、目を凝らしながら野営地周辺の状況を確認する。現在夜番をしている兵士は四名のはずだ。
小川から十メートル程離れた焚火の火の番をしている兵士が一名、焚火を囲むように半円状に立てられた天幕群の両端に兵士がそれぞれ一名ずつ。視認できていない最後の兵士は自分が巡回を任された野営地の北とは真逆の南側の巡回を担当している。
位置関係としては今隠れている茂みの右手に小川、右前方に焚火と火の番をしている兵士、正面に兵士一名とその後ろに天幕、その更に奥側で小川の方向を見つめる兵士が一名見えている。
――見つからないように全力を尽くすが、万が一見つかった後の事は想像したくないな。
夜番の巡回を放棄して逃亡したのが発覚するのは時間の問題だ。そのまま逃げずに一度野営地まで引き返してきたのは、最低限の物資と装備を確保するためだ。
遊撃班の装備と正規の領軍兵士の装備には雲泥の差がある。遊撃班に支給されているのは鈍らの鉄のナイフと、皮の胸当てのみ。
手持ちの水と食料は、持参してきた干し肉数切れと使い古した皮袋に入れた水だけ。三日間の遠征中に飢えをしのぐ最低限の量しか持っていない。
――盗むにしても、かなり厳しいな。
もう少し遠征する期間が長ければ、行軍するためにそれなりの量の物資を運搬する。物資の量が多いとある程度まとめて管理される上、戦争が終結した今森の中では魔物に物資を漁られないための警戒はしても盗難に対する意識は意外と高くないのである意味盗みやすくなる。
逆に今回のような二泊三日程度の短期遠征の場合、食料も装備も各自が管理できる量に抑えられているため個人の天幕から盗まなくてはならない。
――夜番をしている兵士達は当然ながら帯剣しているな……忍び込んでも奪えるのは食料だけ。逆に就寝中の兵士の天幕に忍び込んだら武器を奪えるかもしれないが……
いくら隠密行動が上手いと自負していても兵士が寝ている天幕に忍びこんだ事はない。兵士が起きた場合その騒ぎで他の兵士が起きる可能性も、寝起きの兵士に取り押さえられたら最悪殺される可能性もある。
――それでもやるしかない。
ストラーク大森林をナイフ一本だけ持って横断できるわけがない。領兵の標準装備として支給されている長剣を奪えたとしても焼け石に水かもしれないが、少しでも生存確率を上げたい。
――とりあえず位置を変えるか。
身を潜めている茂みから野営地を中心に時計回りに木々の隙間を縫って移動する。現在の位置からは焚火が天幕に隠れて見えなくなり、両端に位置取っている兵士のみ確認できる。
左端の兵士は先ほどと変わらずこちらに背を向けて小川の方を見ている。右端の兵士は本来であれば左端の兵士とは逆の方向を警戒するべきなのだが、幸いなことに自分が移動する前に隠れていた方向を見ているようだ。
――変に時間を掛けるのはよくない。忍び込むなら今が好機だ。
そう分かってはいるものの不確定要素が多く中々一歩を踏み出せない。未だに確認できていない野営地の南側を巡回している兵士の動向も気になる。
――既定通りに巡回してくれていたとしても、野営地の方を見る可能性はゼロじゃない。それでも基本的には野営地を背にしながら警戒しているから大丈夫……なはずだ。行くぞ!
これ以上考えていたら身動きが取れなくなるので無理やり動き出す。気配を殺し、なるべく物音を立てないよう細心の注意を払いながらゆっくりと木々から抜け出した。木々の隙間を抜け出た後、開けた空間を移動する。一歩前に進むたび、緊張が増していく。喉から心臓が飛び出そうなほど鼓動が早まっている。
――後二十メートル……
左に見えている兵士が振り向くかもしれない。
――後十五メートル……
右に見えている兵士が視界の端で動くこちらに気づくかもしれない。
――後十メートル……
野営地の南を巡回している兵士が、こちらを視認しているかもしれない。
――後五メートル……!
両脇に見えていた兵士が天幕の影に隠れたことによって若干心の余裕ができたが、天幕の中には三十人弱の兵士が眠っていることを意識して気を引き締める。
素早く最も近い位置に建てられていた天幕に忍び寄る。焚火に一番近い位置に陣取り、周囲を他の分隊員の天幕に囲まれているのがイゴールと第一分隊のもののはずだ。夜番の兵士達が立っていた天幕群の両端近辺は第二分隊と第三分隊のものだろう。
これから忍び込むのは、夜も更けて現在一番深い眠りについているだろう第四部隊か第五部隊の兵士の天幕だ。
――大当たりだな。
入口に立っているだけで、強いアルコール臭が鼻腔を刺した。入口をゆっくりと広げるとその臭いは更に強くなる。
――どれだけ酒を飲んだんだ。
広げた天幕の入口から差し込んだ月明かりが、爆睡している壮年の兵士をぼんやりと照らした。兵士の足元には、蓋を開けたまま放置されたスキットルが横たわっていた。
――兄上も英気を養えと言っていたが流石にこんなに飲んだら怒られるぞ?
まったく起きる様子のない兵士を無視して遠慮なく踏み入る。
――まぁ、朝になったら泥酔していたせいで俺に武器を奪われた事に気づかなかった事もバレる。怒られるどころでは済まされないだろう……
割と悲惨な目に合うだろうなと思いつつ、兵士の顔を良く見てみたら以前嫌がらせをしてきた相手だったので心は全く痛まなかった。
――確かイワン……だったか? 遠征でわざと魔物をなすりつけてきた時は死を覚悟したな。
未だに起きる気配のないイワンをよそに過去の不幸を思い出しながら、物資を漁り始める。
――堅パン、チーズ、ナッツと味付けされた干し肉か。日持ちするものばかりなのはありがたいが全て酒のつまみ目的で選ばれてそうなのが何とも言えないな。
つまみに適した食料の多さに内心呆れつつありがたく頂戴する。明日の夜も晩酌するつもりだったのか、まだ酒を持っていたがこちらは必要ないのでそのままにしておいた。
――後、めぼしいものは……ポーション! 品質は分からないがこの際一本でもポーションが確保できただけで僥倖だ。
イワンの天幕を選んだのは本当に運が良かったようだ。奪った食料とポーション、わずかな日用品と自分のナイフをイワンの鞄にしまい込んだ。
入口横に立てかけられていた長剣をナイフの代わりにベルトに固定し、鞄を背負い、最後に乱雑に脱ぎ捨てられていたイワンの外套を羽織った。
――欲を言えば他の天幕も回りたいがこれ以上時間を掛けるのは危険すぎる。及第点以上の成果を得られた。見つかる前に引き上げよう。
そのままイワンの天幕を出て、来た道を戻る。
タイミングを探っていたらまた動けなくなりそうなので侵入した時と同じく気配をなるべく殺し、ただただ静かに野営地を去る。
振り返って夜番の兵士達を確認したりしない。気づかれたら全力で逃げる覚悟をしながら前へ前へと進む。
木々の影に滑り込み、背後から誰も追って来ていないことを確信してから初めて野営地を一瞥する。
天幕群の両端の兵士たちが先ほどと変わらず立っている事だけを確認して、そのまま森の奥へと逃げ出した。