ソリス男爵が治めるテイグーンの地より、疫病発生の知らせが各地に飛んだころ、既に疫病が蔓延して猛威を振るい、多くの領民が死の淵に立ち、苦しんでいる領地があった。
その地を治める領主は、疫病の発生の事実を他領に伏せていた。
まるで、何かの目的があるかのように。
「父上、只今戻りました。
これで領内の南側に点在する、全ての町、村への手筈は整いました。
いくばくかの食糧も置いて参りましたので、領民どもが領境を越えるまではもつと思われます。
あ奴らは助けを求め、恐らく今頃は、テイグーンやフラン、エストへと向かっているでしょう。
間もなく、ソリスの者共の元へ、大いなる災厄を携え雪崩れ込むことになるでしょう」
「リュグナーよ、ご苦労だった。
こんな時期に疫病とは、我らも運が良いわ。
まるで天が我ら闇の氏族に味方しているようだな」
「父上の仰る通りです。
それにしても、我らが野盗の襲撃を偽装し、難民に間者を紛れ込ませて送る策から、急遽、疫病患者を活用する策への転換、父上の四の矢の采配は見事です。
まさに機を見るに敏、そう思い感服いたしました。
これで奴らは、溢れかえる疫病患者で身動きもできず、右往左往することでしょうな」
「で、自身の足を掬おうとしておる我らに対し、奴らが態々(わざわざ)、教えてくれた件はいかがした?」
そう、彼らはエストの街に住まうソリス子爵より、疫病発生の事実とその対処法、教会での清めの儀式の有効性について報告を受けていた。
タクヒール自身は、あくまでもソリス子爵家の一員であり、直接関係のあるハストブルグ辺境伯とゴーマン子爵以外は、全て彼の父であるソリス子爵を通じ、関係各所への連絡をするよう手配されていた。
ヒヨリミ子爵親子は、その知らせを受けると同時に、狂喜して戦略の変更を行っていた。
より、非人道的な方向に……
「教会は渋りましたが、全ての兵士に対して、清めの儀式を行うよう、手配は完了しております。
兵たちの間にも、あの噂を流しております。
これで多くの兵が隣領に恨みを持ち、死兵となって、我らが意のままに動くよう堕ちることでしょうな。
父上の方のご首尾は如何に?」
「ああ、窮地に陥った強欲な豚は簡単に堕ちたわ。
あ奴は王都の飼い主にも見捨てられ、その心は、自身の醜い逆恨みで闇に沈んでおったでな。
辺境伯憎し! この想いだけで配下の腰巾着共を連れて、自暴自棄の暴発……、いや、決起して、我らが大業を果たす礎となろうて」
「では、間もなく我らは、豚共が後戻りできないよう、その口火を切る、そういう訳ですな?
王都の馬鹿共が、召喚などと生ぬるい事を言っている間に、国境は戦火の渦に巻き込まれ、休戦に現を抜かしておった者どもは、帝国の馬蹄に踏みにじられる。
我らが待ち望んだ、王国の滅びが始まると」
この時、会話をしていた父子は、彼らしかいない筈のこの居間に、実はもう一人の男が潜んでいたことに気付いていなかった。
「父上! 兄上! 今なんと仰った?
王国への叛意、聞き捨てなりませぬっ!」
自身の父と兄が交わしていた、思いも寄らぬ会話の内容に、驚愕した彼は隠行を解き姿を現した。
彼自身、領内を蝕む疫病に心を痛めるとともに、一向にその対策を行わない父と兄を不審に思っていた。
そのため、最近発現したばかりの闇魔法を使い、2人の会話を盗み聞きすべく居間に潜んでいた。
「エロール! 貴様いつの間に……、闇の血統魔法に目覚めていたのか?」
驚く兄を尻目に、エロールは思いの丈を吐き出した。
「我が耳を疑う言動の数々、看過できませぬっ!
兄上! 疫病で苦しむ我らの民を、救済することなく隣領に送り込むとは、どういう事ですか?
父上! 乱を企み、王国の滅びを誘発するとは、どういう事ですか?
お返事によっては、私も黙っておりませんっ!」
彼はおもむろに剣を抜くと、その切っ先を父と兄に向けた。激しく動揺する彼の剣先は、上下に細かく震え、その表情は強張っていた。
「エロールよ、其方はまだ、彼の者からの『闇の洗礼』を受けてはおらん。落ち着くのだ。
洗礼を受け、深き闇の恩寵と、闇の歴史を知れば其方もきっと理解できる」
「父上、なりませぬ! 闇の洗礼は受ける者は、古よりその後を継ぐ者ただ一人。
父上自身が、かつてご兄弟に対し行ったこと、今、この場でご決断いただく時かと思います」
そう言って、リュグナーは父親に向けて、顔色一つ変えず冷淡な声で督促した。
その言葉を聞きエロールは思い出した。かつて、彼には2名の叔父たちがいたことを。
そして彼らが人知れず姿を消した時を前後して、自身の父も変わってしまったことを……
まさか……、父上が叔父上たちを手にかけた、そういう事なのか?
そんな思いが彼の頭に過り、彼は剣を手にしたまま固まった。
「者どもっ! 出会えっ! エロールが乱心し、我が父を手に掛けようとした!
明確な反逆である。この場で切り捨てて構わん、直ちに討ち取れっ!」
尊敬していた兄、リュグナーの命令は、エロールにとって信じ難いものであった。
激しい衝撃を受けた彼は、兵たちが振り下ろす剣を払い、逃走のため居館の出口へと向かい走った。
「エロール様ご乱心っ! 討ち取れっ!」
居館にはリュグナー直属の兵たちが詰めていた。
10数人の兵士が、彼の後を追う。
あともう少しで外に出れる、そう思った時、エロールは行く手を遮る兵士たちに取り囲まれた。
「無念っ! これまでかっ」
多勢に無勢、彼は進退窮まり覚悟を決めた。
その時、物陰から飛び出し、自身の身体で突き出された兵士の剣を受け、彼を庇った者がいた。
「どうかっ! エロールさま、お逃げくだされっ! た、民たちを、お頼みし、ま、す……」
ヒヨリミ子爵家家宰のヒンデルは、口から血泡を吹きながら言葉を残すと、貫かれた剣で絶命した。
ヒヨリミ子爵と長兄による領地に対する酷薄な治世、それに反し、できうる範囲で領民と領地を支えていた家宰は、エロールにとっても唯一の味方だった。
「ヒンデル、ヒンデル……、すまない。俺のために」
エロールは疾走する愛馬にしがみつき、東へと馬を走らせながら涙を流し続けた。
ヒヨリミ家内で唯一、エロールの理解者であり、領民を救うため共に奔走した、ヒヨリミ家の良心、そう言われたヒンデル家宰は、彼を庇い凶刃に斃れた。
もう家中では彼の味方は誰もいない。
※
その頃テイグーンでは、疫病の猛威をなんとか抑えることに成功していた。
初期段階こそ、感染者は増え続け、一時は300人近くまでなっていった。
だが、そこから感染者の増加は頭打ちになり、目に見えて減少していった。
今では、50人程度が、施療院で治療を受けているに過ぎない。
もちろん、疫病の犠牲となり、亡くなった者は誰もいない。
ローザを始め、初動の対応が功を奏したことや、入念な準備のおかげで、全てが円滑に機能したこと。
教会が、発病した者に対し、即座に清めの儀式を行うことで重症化を防ぎ、治癒を促進したこと。
消毒液やマスク、石鹸の配布など、防疫施策が効果的に機能したこと。
貴重な砂糖を大量に保有していたため、タクヒールの指示で準備されていた、経口補給液なるものが、病人たちに与えられていたこと。
そもそも、テイグーンは新興の開拓地で、疫病に対する抵抗力の弱い、老人が少なかったこと。
何が功を奏した結果なのかは、誰も分からない。
だが、確実に成果は出ていた。
中心となり対応した者を含め、領民たちの表情も明るくなり、徐々に活気を取り戻しつつあった。
タクヒールには、既に第二報として、対処が順調であることを伝える使者も送っていた。
だが、そういった必死の努力を踏みにじり、再び混迷する状況をもたらす凶報が、彼らの元に届いた。
「新関門のエラン様から、緊急連絡です!
ヒヨリミ領の領民と思しき者50名余り、庇護を求め、続々と関門前に集まっているとのことです。
エラン様より、疫病の感染者も含まれていることの懸念も、申し伝えるよう伺っております。
保安上、及び、人道上、双方の観点から、至急対応を協議いただきたいとのことです」
報告が入ったとき、行政府の対策本部には、エランを除く残留組の主要メンバーが集まっていた。
「大至急、保護しましょう! 病状にも依りますが、ヒヨリミ領から来たとすると一刻を争います」
ローザが席を立ち、飛び出そうとする。
そしてそれを慌てて制する者がいた。
「待って! いくつか腑に落ちないことがあるわ!」
クレアが叫んだ。
思い過ごしであれば良いが……、彼女の頭には不安な影がよぎった。
「エストール領の領民以外で、直接ここを目指すって、おかしくないかしら?
最上位大会などを通じて、交流のあるゴーマン子爵領やコーネル男爵領の領民ならまだしも、ヒヨリミ子爵領の領民は、テイグーンに縁があるとは思えないの」
「クレアさん、間諜や謀略の可能性がある、そういう事ですか?
ここよりヒヨリミ領に近い町を目指すのではなく、敢えてテイグーンに誘導されている可能性があると」
ミザリーは、タクヒールが残していった懸念を思い出し、はっとなった。
いつも彼とその軍が不在な時を狙ったかのように、災厄は襲ってくる。
「十分あり得るな。ヒヨリミ子爵め!無辜の領民の命すら兵器に使う、そういう事か。
とは言っても、見捨てることもできん。悪辣なことをしやがる……」
クリストフは、唇を噛みしめ怒りに震えていた。
そう、彼らもタクヒールと出会う前は、それぞれがエストール領に住まう、普通の領民だった。
なので彼らは、領民を思う施策を取る自身の領主を崇拝し、逆に領民に対し酷薄な治世を行う隣領には、いつも心を痛めていた。
「取り急ぎ、病人の対応は急を要するでしょう。
幸い、新関門の砦は、内壁で区切られ、療養施設はその他の施設から隔離することができます。
ローザに、急ぎ向かってもらうとして、護衛は十分につけること、駐留軍や辺境騎士団の皆さんには、フラン側と魔境側の警戒を強化いただき、配備を進める。
それでいかがでしょうか?」
「私はクレアさんの意見に賛成です。
あと、もしこれが敵の謀略の一環なら、エストの街にも同様のことが起きている可能性もあります。
早馬を走らせ、クリスさまに報告する必要があると思います。
行政府より、その発信と注意喚起を行います」
ミザリーは決断した。
彼女とともに集まった首脳部の者たちも同意見だった。
「では、私は取り急ぎ、護衛の方の準備ができ次第、新関門に向かいます。
ゲイルさん、搬送隊を何組か新関門に回していただけますか?
クレア姉さん、神父に引き続き聖水の増産と、この後すぐ、清めの儀式の準備を依頼してください。
ヨルティアさん、物資を新関門に大至急輸送していただくようお願いいたします」
そう言って、ローザは慌ただしく席を立った。
その他の人間も、席を立つと慌ただしく動き始めた。
そしてこの翌日には、前日の倍、100名ほどの難民が助けを求めて、隣領より新関門に辿り着いた。
更に翌日にはその倍、200名もの集団が、新関門に押し寄せることとなった。
王国中央で策謀を巡らす、復権派すら知らない、四の矢は放たれた。
刻々と悪化する事態を前に、後事を託され、テイグーンに残された者たちの試練は、まだ始まったばかりだった。
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次回は【転機】を投稿予定です。(3月1日の投稿以降は当面の間、隔日投稿となります)
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