エストール領主、ソリス・フォン・タクヒール男爵、彼は国境からの急報を聞き、軍を整えて急ぎサザンゲートに向け、魔境を抜けた最短距離を移動するつもりでテイグーンを目指していた。
率いる軍勢は僅か200名。
往時の豊かであったエストール領では、彼の父の代で400名程度の軍を率い参陣したこともあった。
だが、度重なる災厄に見舞われ、その姿にかつての威容はない。
それでも彼は、王国貴族の一員として、その責務を果たし、敵軍に立ち向かうため軍を急がせ、やっとテイグーンの開拓地まで辿りついていた。
「魔境方面に先行した部隊より報告ですっ!
この先、魔境側の隘路から夥しい数の軍勢が、こちらに向けて進んでおります!
その数、詳細は分かりませんが、5千は超えると思われます!」
悲鳴に近い報告だった。
誰もが絶望の表情を浮かべ、頼りなさげに見える若き当主に注目していた。
「……、もはや勝敗は決したか。
今よりテイグーンの開拓地、鉱山に人を遣り、急ぎ領民たちに逃げるように伝えよ!
兵たちはその護衛を!
私は……、志願した者たちのみで、隘路の出口側で防戦し、領民たちが逃げる時間を稼ぐ。
各自の判断に任せる! 私と共に領民たちの最後尾を守る者のみ続けっ!」
そう言って彼は駆け出した。
呆気に取られ、その場に立ち尽くすもの。
踵を返し、一目散に逃げだすもの。
迷うことなく、彼の後を追うもの。
兵たちの反応は様々だった。
「まぁ……、追ってきたのは80人ってところかな?
当然といえば当然か……、いや、80人もよく付いて来てくれたと、喜ぶべきかも知れないか?」
途中で後ろを振り返ったタクヒールは、最初は自嘲げに、だがすぐ満足気な顔に変わり呟いた。
彼は領民に信頼されていない。
彼の領地は度重なる災厄で荒れ、領民たちの怨嗟の声で溢れていた。
16歳で領主となって以降、頼れる者も失われたなか、それでも必死になって内政に取り組んできた。
だが、結果は出ていない。
むしろその後に起こった飢饉などで、領地は更に貧しくなってしまった。
彼の必死の努力、領民を思う気持ちは、僅かな側近と、彼と共に働き、汗を流した者しか知らない。
「この隘路出口で出てきた敵軍を叩く!
ここなら、少数の我々でも有利に戦える。
決して1対1で戦わず、複数で相手するように」
そう告げて、急いで逆茂木や柵の設置を指示すると、彼は一人呟いた。
「ああ……、これって、まるでスパルタのレオニダス王みたいだな。ま、結局全滅しちゃうんだけどね。
ん? あれ? スパルタ? レオニダス王?
何だっけ? そんなの国、聞いたことないよな……」
思わず口にした言葉、思い返しても記憶にない。
首を傾げていると、彼の元に走り寄る人々の一群が目に留まった。
「何をしている?
私たちがここを支えている間に、急いで逃げるんだ!」
「はははっ!
この人数で支えるって、領主様もやせ我慢が好きですなぁ。これじゃあすぐ破られちまいますいぜ。
俺たちは、家族が逃げる間の時間を稼ぐため、わざわざここに来た物好きばかりだ。
そうだなぁ? ゴルド、みんなっ!」
「応っ! ゲイルの旦那の言う通り、俺たち開拓地の人足はみな腕自慢、力自慢よ。
そんなひょろっこい兵士にも、負けませんぜ。
それに、疫病の時はうちの娘も施療院であんたらに世話になったんだ。
ここで逃げたらカカァにどやされちまう。そっちの方がよっぽど怖いわ」
「わっはっは、そりゃそうだな。女の方が怖いよな。
俺は今まで色んな鉱山を渡り歩いたが、テイグーンの鉱山は鉱夫にとっちゃとても良い場所だったぜ。
どこの領地でも、いつも鉱夫は使い捨てだったよ。
なのに、俺たちの暮らしを考え、働く環境を考え、真っ当な人として考えてくれる。そんな鉱山他にはなかったからな。せめてもの恩返しってことよ。
命知らずの鉱夫たちは気が短い。さっさと俺たちの援軍、素直に受け入れてくれねぇか?
所で姉さん……
結局ここまで付いて来ちまったが……、アンタは逃げなくて良いのかい?」
いかにも鉱山で働く荒くれ者、そんな風貌をした男が、傍らにいた、唯一、彼らと行動を共にしていた女性に声を掛けた。
「私はエストの施療院から鉱山に派遣されて来ました。傷付いた皆さんの手当を行うことが仕事ですから、私はここに居なくてはなりません。
まぁこれから、色々忙しくなりそうですけどね。何度言われようと、私は逃げませんよ」
「はははっ! 女にしておくのは勿体ないな。
おいみんなっ、こんな別嬪の姉さんが見てるんだ。無様な格好は見せられんってことよ。
姉さんは俺たちの勝利の女神さまだ。
お前ら!
死んでも構わねえから、姉さんだけは守れよっ!」
「おいおいっ!
死んだら姉さんを守れないだろうが?」
「心意気の問題ってことだ。イサークの旦那、いちいち突っ込まないでくれよ」
これから絶望的な戦いを前にした彼らに、笑いの渦が起こる。
彼らは一様に死を覚悟した、清々しい顔をしていた。
「みんな、ごめん……、そしてありがとう。
少しだけ時間を稼ぐだけでいい。一泡吹かせたら、その後は皆で撤退する。
それまで力を、皆の命を貸してくれ……、一人でも多くの人たちを安全に逃がすために」
「応っ!」
タクヒールと彼の率いる80名の軍勢、応援に駆け付けた約150名の領民たちは、体制を整え侵略者たちの隊列を待ち受けた。
※
細く曲がりくねった隘路を抜け、ようやく出口付近に差し掛かったころ、ヴァイス軍団長率いる騎兵たちの先頭集団が停止した。
「この先、隘路出口で防衛線を構築し、待ち構える者どもがおります。その約200名前後!
踏みつぶしますか?」
「ほう? この兵力差で立派な覚悟だな。
死を覚悟しているということか? 無駄とは思うが、降伏を勧告してみろ」
ヴァイス軍団長は、使者と敵将とのやり取りを少し後方で見ていた。
そこに傍らに控えていた男、新しく彼らの軍列に加わったエロールが説明を始めた。
「あれは、この先を領有する、ソリス男爵ですな。
無能者と評判の男ですが、彼我の戦力差も理解できないとは、やはり無能な男のようですね」
「ソリス男爵? あの若者が?
……、そうか、もう代替わりしたということか?
あれからもう10年以上経っているからな……
まだ若いというのに、残念なことだな」
2人がそう話しているうちに交渉は決裂した。
道を塞ぐ彼らは、道を譲る意思のないことが、はっきりと分かった。
「全軍! これよりこの先の防塞を突き破り、エストール領内へと進軍する。
だが気を付けろ。奴らは死兵だ。
油断せず、敬意を以て……、叩き潰せ! 全軍、突撃!」
遂にテイグーン隘路での決戦は始まった。
※
当初は一瞬で終わると思われたこの隘路出口を巡る攻防は、予想に反して膠着していた。
帝国軍は狭い隘路に阻まれ、軍列は長く伸び、一度に横並びで展開できるのはせいぜい10騎程度であり、その突撃も、前方に設けられた逆茂木や塹壕に阻まれ、防御陣を突き破ることができなかった。
彼らの大軍は、前方にいる味方に阻まれ、後続が前に出れない状況のまま、先端部だけが激戦を広げ、その殆どは遊兵と化してしまっていた。
「予想以上にやるではないか?
奴らは大軍の弱点を知り、その先端を封じるだけで戦線を支えているということか?
しかも、負傷兵をうまく盾にしている」
そう、防御側は敵軍に敢えてとどめをささず、負傷し動けなくさせることを目的に据えていた。
そのため、帝国軍は前線から負傷兵を救出、手当のため狭い隘路を後送させねばならず、それが中軍以降の後列の行動の妨げになっていた。
「時間稼ぎか? こちらにとっては迷惑なことだな。
しかも弓の名手が何名かいるな?
……、やむを得ん!
惜しいが、まず敵将を打ち取る。弓隊を前に出させろ! 狙いは敵将だけでよい。
敵将が斃れたら、弓隊が下馬した騎馬を突入させ、奴らを混乱させたのち、再度全軍で突入する!
そこで決めるぞっ!」
タクヒールたちが善戦できた大きな要因のひとつは、テイグーンの開拓村を拠点としていた狩人と呼ばれる者たちの戦線参加があったからだった。
彼らは平素から、テイグーンを拠点にして魔境に入り、魔物を狩ることを生業にしている。
魔物と戦うため、弓、槍、剣とそれぞれの特技に応じて武装しており、その人数は総勢50名にもなっていた。
この戦いでは、特に熟練した20名の弓隊の活躍が、帝国軍を押しとどめていたのだ。
だが、ここに至り、この戦いの趨勢は一気に傾きだした。
最前列で指揮を執っていたタクヒール目掛け、数百本の矢が一斉に襲った。
そして、タクヒールが意識を失い倒れた。その身に何本かの矢を突き立てたまま……
「マリアンヌっ!
お前は領主様をお連れしてフランまで撤退しろっ!
急所は外れている、治療が間に合えば助かる筈だ! このお方を死なせちゃならねぇ。
俺たちが逃げる時間を稼ぐから、さっさとしろっ!
グズグズするんじゃねぇ! 早く行けっ!」
「ラファール、貴方は……
殺しても死ぬようなタマじゃないんだから……、絶対に死なないでね。
時間を稼いだらちゃんと、皆を連れて逃げてよ……
お願い、わかった?」
ラファールは何も言わなかった。
ただ、笑顔を見せて彼女の言葉に応じた。
マリアンヌは前線を離脱し、荷駄に負傷した領主と、数名の護衛を連れフランまで馬を走らせた。
「クリストフ、もう十分だ。
お前はまだ若い。一緒に行って、この先、領主様の力になるがいい。
俺たちはこの開拓村で十分にお世話になったが、残りの恩返しは、俺たちに任せろ」
「ふん、よく言うよ親父。
一番の弓の名手を行かせるなんて、えらく強気だな?
妹たちはまだ幼いし、逃げ足も遅い。まだもう少し粘る必要があるだろう? ちょっと5人ほど借りるぜ」
クリストフはそう言うと、傍らにいた兵士に語り掛けた。
「あんた、ウォルスさんだっけ?
兵士のあんたにお願いするのも気が引けるが、俺たち5人の矢筒の補充をお願いしたい。
全員が早撃ちの名手だ。補充の矢は沢山あるが、100本程度の矢なんて、俺たち5人で射れば直ぐに無くなっちまうからな」
「ああいいぜ!
補充は小回りが利く別の奴を用意する。俺はあんたらを、柵の前で守ってやるよ。
アストール! お前は彼らの支援に回れ」
彼はそう叫ぶと、大剣を掲げ、弓隊が潜む柵の前に躍り出た。
このような様々な者の必死の努力もあり、タクヒールが抜けた後も戦線は維持され、彼らの防戦は続いた。
「アラルっ!
領主様に代わってお前が指揮を取れっ。儂は……、もう、いかん……」
「マルス隊長、あんたの方が上だろうが?
隊長? おいっ!
……、承知した。後はゆっくり休んでくれ。
ダンケ! 狩人や人足たちだけにいい恰好させるんじゃないぞ! 俺たちが盾になって、彼らを守るんだ。俺に付いてこい!」
アラルはそう言って、防戦一方になっていた人足たちの支援のため、防塞を飛び越え走り出した。
彼らが元居た場所には、胸に何本もの矢を突き立て、満足げな顔で大地に横たわる隊長の姿があった。
指揮官を失ってなお、猛烈に抵抗する彼らの死戦は、ヴァイス軍団長を感嘆させたが、その終わりは確実に近づいていた。
騎馬の群れを突入させたあと、5度目の突撃で防塞の一角は突き崩され、防御線は崩壊した。
その後彼らは、押し寄せる圧倒的多数の帝国軍騎馬隊によって包囲され……、一兵ずつ討ち取られて行く。
そして程なく、全滅した。
彼らは誰一人逃げ出す者なく、最後の一人まで死戦し、数に勝る帝国軍の精鋭に対し、自軍に倍する損害を与えて……
※
戦いが終わり、敵軍が立て籠もって抵抗した防塞跡で立ち止まったヴァイス軍団長は、大地に横たわっている敵兵たちの亡骸の傍らで跪いた。
「お前たちは勇敢に戦い、十分に時間を稼いだ。
同じ武人として、心から敬意を示す。
ならば……、せめてもの手向けとして、その思い、少しでも叶えてやろう」
そう呟くと立ち上がり、全軍に命令した。
「全員、先ずは負傷者の手当てを!
一旦この開拓地で休息する。
最後の一人になるまで、ここで勇敢に戦った者たちの亡骸は、最大の敬意を以って丁重に葬れ!」
彼らの命を賭した防戦のお陰で、逃げ出した領民たちは無事、フランの町まで逃げ延びることができた。
だが、エストール領を襲った帝国軍の侵攻は、まだ始まったばかりだった。
ご覧いただきありがとうございます。
特別編を4回に分けて投稿しています。
内容は本連載の少し前、プロローグに至る経緯の内容です。
2回目の世界が終焉に至る経緯と、帝国や王国(エストール領)の動向など、詳しく綴っていく予定です。
特別篇 終わりの始まり第三話は、『闇の介入』を投稿予定です。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。