サザンゲート要塞は、グリフォニア帝国の猛攻を受け、その陥落は時間の問題となっていた。
そこに、諸将を驚愕させ、混乱する事態が発生した。
そのひとつは、首将たるハストブルグ辺境伯の戦死の報だったが、もうひとつの知らせが大きな混乱を招いていた。
「カイル王国軍全軍に告げる。ハストブルグ辺境伯は戦死された!
辺境伯より託された最後の言葉により、全軍に即時停戦と降伏を命ずる!」
辺境伯より後事を託されたという、キリアス子爵から、諸将が信じがたい内容の命令が下されたからだ。
「そんな筈はない! 辺境伯はサザンゲート砦への撤退を指示されていた」
「この期に及んで敵軍に降伏だと? その前の命令と全く異なるではないかっ!」
「辺境伯が戦死されただと? 負傷はされていたが、先ほどまでお元気であった筈だ!」
諸将からは反発の声が上がった。
事実、辺境伯は亡くなる直前まで伝令を出し続け、その命は諸将に届いていたので、キリアス子爵の言葉を誰もが不審に思った。
「話にならんわ! 我らは辺境伯直々の命に従い、これより敵陣を強行突破のうえ撤退する!
各々方、付いて来られよ」
「そもそも、左翼の城壁を破られた我らの責もあるが、右翼では城門を開き敵軍を招き入れたとの報告もある! そのような疑念がある以上、命には従えん!」
「敵軍が何故、右翼を攻撃せなんだか、合点がいったわ! キリアス卿の命など聞ける訳がなかろう」
クライツ男爵、ボールド男爵、ヘラルド男爵は、キリアス子爵からの使者を面罵すると、速やかに軍をまとめ敵軍の中を強行突破すると、サザンゲート砦へと撤退していった。
激戦の中、半数近くまでに軍を減らして。
「辺境伯が亡くなられた今、我らもお供するまで! 味方の退路を確保するため、全軍、突撃せよ!」
辺境伯の最後の命に従い、進んで殿軍に加わり、死兵となって戦い壮絶な戦死を遂げる者も後を絶たなかった。彼らの命を賭した奮戦があったからこそ、多くの兵たちが撤退することができていた。
そのため、キリアス子爵が守っていた要塞右翼以外は、要塞陥落後も激戦となり、帝国軍は容易に進駐できなかった。
その状況を、要塞右翼を守るキリアス子爵の方面から、要塞内に入場した第一皇子は苦々しく見つめていた。
「キリアス卿よ、事前の申し合わせ通り其方の降伏は認めたが、この醜態、如何するのだ?
要塞攻略にあたって、そなたの内通に功があったことは認める。だが、敗残兵を御しえないこの様では、事前に其方が申し入れていた、占領後の地位の保証もままならんが?」
「先ずは失態をお詫びします。
これより殿下の温情と御意に従わぬ愚か者共を排除いたします。それでよろしいでしょうか?」
「うむ、立場を変えるとは難しいものでな。昨日までの友を敵とせねばならん。
それができぬようでは、我らも信頼できんということだ。其方も理解が早く、重畳ということだな」
戦いの蚊帳の外に置かれ、ほぼ無傷だったキリアス子爵軍は、撤退するため交戦していたカイル王国軍に向けて、一斉に襲い掛かった。
ハストブルグ辺境伯の命令に従わぬ罪を鳴らし、軍令違反を咎めるという、大義名分を掲げて。
このような結果、要塞内に残る抵抗勢力は全て排除されたが、同時に、カイル王国軍のなかで、キリアス子爵の裏切りは疑念から確証へと変わっていった。
※
このような経緯で、サザンゲート要塞は陥落した。
攻防が決したのち、キリアス子爵はひとり、ハストブルグ辺境伯が本営に定めていた指揮所にいた。
この辺りは、キリアスが辺境伯を討って後、放置されたままだった。
幾人かの亡骸が横たわる中、彼はめぼしい人物の亡骸の前に進むと跨いた。
「もう我が身は完全に堕ちる所まで堕ちた。今更弁解のしようもないわ。
これは全て、辺境伯、貴方のせいですよ」
辺境伯の亡骸に向かって語り掛けていた彼の双眸には、涙が溢れていた。
「貴方は最後に、何故、とおっしゃいましたな?
それは私も同様です。
何故、私は貴方の後継者になれなかったのですか?
何故、成り上がりのあの小僧なのですか?
何故、私が武勲を上げる道を閉ざされたのですか?」
そう、キリアスには延々と積み重なった、やるせない思いがあった。
「私は、かつて汚辱にまみれ没落した、キリアス伯爵家を再興すること、ただそれだけを夢見て生きて来たというのに……。
貴方の為されようはあんまりです。
この戦い、左翼の私には何の武勲を立てる機会すら、与えていただくことがなかった。
更に、我が領地は敵軍に蹂躙され、私は捨て石としてこの要塞を守るだけ。それでは失うものの対価に、何も得るものはないではありませんか?」
キリアスはかつて、王都騎士団長を務めるキリアス伯爵家の跡継ぎとして、将来を嘱望された立場で幼少期を過ごしていた。
その運命が急変したのは、20数年前にグリフォニア帝国軍から初侵攻を受けた際、父の失策によりカイル王国軍が惨敗してからだ。
キリアスの父は王都騎士団長の職を追われ、家は伯爵から子爵へと降爵処分された。
この敗戦は、キリアス伯爵に責が無かった訳ではないが、中央の権力にしがみついた老人や前国王が、敵軍や戦を甘く見た結果、王都騎士団の投入を渋った事が最大の原因だったと言われている。
なのに、自身の父だけがその責を負わされ、貴族社会からは無能者の烙印を押され、キリアス家は汚名を永劫に背負うことになった。
それ以降、キリアス家の栄誉を取り戻すこと、これが彼の生きる目的となった。
その階梯は生易しいものではなかったが、ある程度までは順調に進んでいった。
ソリス家から2人の兄弟が世に出てくるまでは……
ハストブルグ辺境伯の娘婿に見初められ、それに見合う評判と武勲も積み重ねた。
彼はいつか、辺境伯の後継としてその地位に就くことが有力視され、自身もそれを既定路線と夢見ていた。
そしてその夢は、実現する一歩手前まで来ていた。
だがそれは、残酷な形で崩れ去った。
それでも、武勲を積み重ね、昇爵して栄誉を取り戻そうと努力した。
だが、その栄誉は常に、他者へと流れていった。
何をしてもあの兄弟には敵うことはなかった。
キリアスは彼らの行う施策について、積極的に情報を集め、長所と思える事は進んで自領にも取り入れていった。
だが、結果として彼らとの差は開くばかりだった。
自分自身が取り残される焦り、日々それに苛まれていたといっていい。
「今回の戦ですら、例え勝っても栄達できることもなく、またもや小僧たちの後塵を拝むだけです。
貴方には、そんな私の惨めな思いを、理解できなかったでしょうね」
キリアスの心には、いつの間にか闇が芽生えていた。
当人の意識しない所でそれは成長し、闇はより深くなっていった。
今は亡き、ヒヨリミ子爵はそんな彼の闇を見出した。
生真面目で、真っ直ぐな心を持っていた彼は、闇の住人の宿り木として、その価値を見出されることになった。
本来なら、実力に見合った相応しい処遇も、彼らの言葉により、嫉妬や恨みへと変えられていった。
心の中に生まれた小さな猜疑の芽は、彼らによって育まれ、その後も、ヒヨリミ子爵や長男のリュグナーによって、彼の心に潜む闇は増幅されていった。
そしてこの戦いの数ヶ月前、怪しげな老人の訪問を受けたとき、遂に彼は完全に闇側へと堕ちた。
嫉妬と猜疑、逆恨みの渦巻く、深い闇の中へ……
彼が辺境伯に投げかけた疑問、それは冷静な普段の彼ならば、自分自身で明確な理由を見いだせるものばかりだった。
辺境伯が後継者にキリアスを選ばなかった理由、それらは幾つかあった。
キリアスは大きな目標を達成するため、自らを厳しく律していた。
それは同様に、同僚や配下にも同じことを求め、何かにつけて非常に細かく、かつ厳しい男だった。
優秀だが、生真面目さから些細なことも気になる性格は、部下たちを委縮させる傾向にあった。
言葉少なく口下手で、部下を思う彼の心は伝わらず、彼の真面目さを息苦しい、そう評価する者すらいた。
そのため、諸将や多くの者たちを率いる人望、これがキリアスには決定的に欠けていたのだ。
生真面目さと堅苦しさと厳しさ、それだけでは人は付いてこない。
終始隙が無く振る舞う彼に対し、周囲は息苦しさを感じるだけだった。
事実、タクヒールですら無意識に、彼とは一定以上の距離を保っていた。
片や気さくなダレクは、時には豪放であり人情味も多く、抜けた部分も隠さず、多くの者が親近感を抱く存在だった。
また、ダレクは彼より身分の低い者たちから特に人気があった。そして、ここ数年の栄達によって、彼より身分が高い者たちの数は、格段に少なくなっていた。
実際、直接の配下を除けば、より栄達した弟のタクヒールより、ダレクを信奉する者の方が多い。
それは弟のタクヒールですら、自ら認め、公言して憚らない事実であった。
だからこそ辺境伯は、多くの諸将を率いる立場の後継者に、人望と将才のあるダレクを選んだ。
そもそも、タクヒールやダレクが武勲に恵まれ栄達したのは、それなりに窮地を潜り抜けた結果であり、キリアス自身は彼らほど命の危険に身を晒していない。
多くの苦難に打ち勝ち栄達したからこそ、彼らは大きな力を手に入れた。その結果として、その力を振るう機会を与えられただけであって、2人の兄弟はその期待と責任の重圧を、常に背負って戦っている。
当のキリアスには、その責を全うする力も兵力も、そして器量もなかった。
彼は戦場の一方面を指揮する、指揮官としては非常に優秀だが、戦局全体を俯瞰して指揮する力、将として諸将を率いること、戦術ではなく戦略的に考え、全軍を指揮することに関しては、到底2人には及ばなかった。
冷静なキリアスなら、それらの事実を至極当然の事として、受け止めることができたはずだった。
だが、彼の心は徐々に歪められ、猜疑心と嫉妬のみが拡大された結果、キリアスの心にあった小さな闇が、彼を支配するまでになっていた。
「辺境伯、見ていて下され。
私が、キリアス家の名誉を取り戻し、この国に新しい道を切り拓く者となるか、これまでの汚名に、裏切り者という新たな名を加え、歴史に消される者となるか……
この先私が、進んでいく姿を……」
そう告げるとキリアスは、瓦礫の散乱した指揮所を後にした。
その目は既に濁り、能面のように表情はなく、ただ虚ろであった。
いつもご覧いただきありがとうございます。
次回は『悲報』を投稿予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。
<補足>
今回の宿り木の件ですが、142話で登場した老人の言う『新しき芽』や、200話でリュグナーの言った『宿り木』が全てここに繋がっております。
※※※お礼※※※
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