グリフォニア帝国第一皇子、グロリアス率いる一軍は、イシュタルの城壁に取り付くと、東に向けて疾走していた。城壁直下では、あの恐ろしい殲滅攻撃も、槍と見紛うばかりの激しい矢も飛んでこない。
時折後続に、何やら色のついた煙幕のような物が、城壁の上から投げ込まれてはいたが、彼らに後ろの様子を気遣う余裕は全くなかった。
「殿下をお守りするのだ!」
第一皇子は逃走する帝国軍の戦闘部隊を率いて進み、護衛の騎兵たちは、その左右を取り囲みながら疾走していた。
更にその外側は、歩兵たちが盾を掲げながら並走している。
「東の先、城砦の切れ目から竹林の中に入り、そのまま東に抜けるぞ!
あの先には、3,000の鉄騎兵が控えておる!
そこまで、そこまで逃げ切れば我らの勝利だ!」
撤退の途中、第一皇子は味方を鼓舞し続けた。
これまでの過程で、討ち減らされたとはいえ、第一皇子指揮下の軍勢は6,000名以上、この先に展開する鉄騎兵を合わせれば、総勢9,000名にもなるのだから。
ハーリー公爵に預けた別働隊と合流すれば、再起を図ることもできる。
だが、現実は彼の想像より過酷だった。
彼はまだ、別働隊の敗戦も、竹林に潜む鉄騎兵の惨状も知らない。
「良いか! 先頭集団に諸悪の根源は居る!
後続は味方が足止めしてくれる。我らはただ敵を叩き潰すのみ!
魔境騎士団、我に続けっ!」
ヴァイス団長の指揮の元、2,000騎もの戦力が、突如として撤退する帝国軍の横合いから襲い掛かった。
彼らはただ、第一皇子だけを目掛けて、凄まじい突進を行った。
「ひっ、ひぃっ!」
「ぐわっ!」
「べっ!」
団長らの進路上にあった帝国軍の先頭集団、その中央を走る歩兵たちは、次々と足をもつれさせて転倒し、後続を巻き込んでいった。
まるで突然、体に大きな重しを乗せかけられたかのように……
足をもたつかせ、混乱する帝国兵らの陣列を切り裂きながら、魔境騎士団の軍馬は、帝国軍の陣列の最も厚い部分へと、斬り進んで行った。
それはまるで、鋭利な刃物で柔らかい肉を切り裂くかの如く。
「狼狽えるなっ! 盾を並べて左右に陣を展開して、騎馬の突進を受け流せ!
そうすれば、奴らも簡単に反転できんわ!」
第一皇子の戦術は、基本的には誤りではなかった。
ほぼ縦陣に近い紡錘陣形で、中央を突破しようとするカイル王国軍は、帝国軍が左右に分かれ、その突進を後方に受け流せば、後続の味方に押され、前に進むしかなくなる。
そうなれば、左右を歩兵が作り出した人の壁に阻まれたまま、馬首を巡らせて帝国軍を追撃できない。
だが、ひとつだけ、第一皇子が予想すらできないことがあった。
「ヨルティアさん、今です!」
ヴァイスの合図とともに、東に向かって疾走していた帝国軍の中軍が、一斉に崩れた。
突如人馬が将棋倒しに倒れ始め、後続を巻き込み始めたからだ。
そのため、東に疾走を続ける帝国軍の軍列に、大きな空白地帯が生まれてしまった。
「勝機っ! この機に反転し敵の前衛を押し包め!」
それはタクヒールが先頭部隊だけを切り取り、確保するために考案したUターン攻撃、そう名付けた戦術だった。
団長の指揮のもと、魔境騎士団はその空白地帯を利用して左右に展開、馬首を巡らせて逆進し、帝国軍を外側から包囲するように彼らに並走し、追走を始めた。
「なっ! 後続はどうした? 何故我らに続いて来ない!」
第一皇子は予想外の事態に、狼狽して声を上げた。
その時、反転した部隊が再び襲って来た。
「いけません、来ます!」
側近の狼狽した声と同時に、第一皇子の護衛たちにも、団長指揮下の騎馬隊が襲い掛かった。
「諸悪の根源! 大人しく縛に付きなさい!」
第一皇子は、戦場の中でひと際よく通る、甲高い声が響いたのを聞いた瞬間、突然つんのめるように転倒した愛馬から、宙を舞い……、そして大地に叩きつけられて意識を失った。
※
次に第一皇子が目を覚ましたとき、彼はそれなりに調度品が整えられた一室の、寝台に横たわっていた。
身体の傷には手当の跡があり、多少の痛みは感じるものの、問題なく起き上がれそうだった。
だが、彼は起き上がることができなかった。
両手と両足が、寝台に縛り付けられていたために……
「何だこれは? 余を誰と思っている! 無礼であろう!」
あらん限りの声でそう叫んだためか、彼が押し込められた部屋を訪れた者がいた。
「グリフォニア帝国第一皇子、グロリアス殿下でいらっしゃいますな?」
そう尋ねて来たのは20歳前後の、それなりに整った軍装はしているものの、凡庸そうに見えた男だった。
しかも、第一皇子と尋ねておいて、跪くこともしないでいる。
「それが分かっていて、この無礼は何だ!」
「殿下に現状をご理解いただくためです。
ご理解いただければ、皇族に相応しい礼節を以て対応しますよ。まぁ戦場ではかくたるおもてなしもできませんが……
申し遅れました、私はソリス・フォン・タクヒール、カイル王国で魔境伯を任じられている者です」
その言葉を聞き、再びグロリアスは卒倒し、意識を失った。
「やれやれ、これだから高貴なお方は……、まぁ、無理もないだろうけど。
まぁこの先は、縄目を解いて監視下に置き、軟禁していくしかないだろうな」
そう呟いて俺は、彼の眠る部屋を後にし、再び、団長たちが待ち構えている、指揮所に戻っていった。
戦いには勝ったとはいえ、まだまだすべきことが山積している。
※
アイギスの砦に設けられている指揮所では、団長の指示のもとに情報が行き交い、未だに戦時と変わらぬ、張り詰めた空気が漂っていた。
「団長、各所で魔物が帝国兵を襲っております。その規模は、徐々に大きくなりつつあります」
「ラファール、奴らも相当怒っているだろうな。帝国軍はこれまで、魔境を焼き払い多くの魔物を殺した。
これまでは何とか対処できていただろうが、今はな……
城壁側に逃げて来た者たちは、縄梯子を下して助けてやれ。可哀そうだが、トンネルは使えん」
「馬と違って、人にはしゃべる口がありますからね。こちらも秘匿事項を晒す訳にもいきませんし、自力で逃げてもらうしかないですね」
2人の会話に、俺は思うところがあって、割って入った。
「団長、ラファール、トンネルはダメだけど、東の避難場所は構わないよ。投降した者を一旦魔物から避難させてやってくれないか?」
東の避難場所とは、アイギスとイシュタル側の関門、その間に設けられた、一時避難施設だ。
アイギスの防壁延伸工事、イシュタル側の関門工事が完成する前は、万が一工事中に魔物から襲われた際、一時的に逃げる場所として、簡易の防壁を設けた一角を作っていた。
「了解しました。屯田兵たちはもと帝国人です。彼らに誘導してもらいましょう」
「それで頼む。で、状況は?」
「はい、まだ数は暫定ですが、帝国軍のうちアイギスを攻めていた歩兵を中心とした部隊は、主将が捕縛されたと同時に潰走しました。概数ですが4,000名ほどがサザンゲート方面に向かい、逃走したと思われます。
東の竹林に潜んでいた鉄騎兵ですが、制圧弾の攻撃で半数以上が乗馬を失い壊滅したようです。
それでも1,000名以上が、その大半は徒歩で脱出したようですが、身動きできない者が1,000名近く取り残されています」
聞いたところによると、制圧弾を受け、多くの馬が狂奔したことで、落馬したり馬蹄に踏みつぶされたり、鉄騎兵たちは散々な目にあっていたらしい。
そして、悶絶し転げまわっていたり、くしゃみが止まらなくなった所を石弾攻撃が襲い、想像以上のダメージを受けてしまったようだ。
「それでも多いな……、一応魔境騎士団の半数を、屯田兵と共に作業に当たらせよう」
「承知しました。それとラファールからも報告があります」
「ラファール、どうした?」
「我々は勢子として、帝国軍を追い立てたあと、奴らの退路、最もここから近い宿営地を潰して来ました。
まぁそのついでに、奴らが残していた大量の軍馬を発見しまして……、3,000頭より少し多い数の騎馬を、頂戴して来ました」
そう言って彼は、ニンマリ笑った。
「ええっ? どうやってそんなに?」
「いや、我らも人手が足らないため、手分けして1,000頭だけ引っ張ってくる予定だったんですが……
宿営地を潰す際、むざむざ残った馬を魔物の餌にするのも忍びなく思いましてね、綱を切って放してやったんですよ。そしたら、そのうち2,000頭以上が大人しく我らに付いて来てくれまして……」
「ははは、きっと馬たちも、ラファールに恩を感じたんだろうね。でも、3,000頭は凄いな。
因みに団長、捕虜はどうなっているでしょうか?」
「そうですね。我らは第一皇子の身柄確保を優先しましたので、基本的に捕虜は取らず撤退しました。
それ以外に城壁にて助けを求めた者、約1,000名程度を捕縛しています。この先、もう少し増えそうですが」
「負傷者は? 取り残された者はいないか?」
「これについては、掃討戦で戦場を巡回した私から報告させていただきます。
死者は遺棄されているようですが、負傷者は、その殆どが逃亡した兵たちに伴われているようです」
「ゲイル、ありがとう。
そうか……、またサザンゲートまで、魔物の道ができることになるか? これは……、やむを得ないか」
「今回は帝国軍も、それなりの数が健在で動いています。そして、最寄りの宿営地こそラファール殿が潰してくれましたが、彼らにはまだ、魔境を抜ける道と、その先に2つ宿営地が残されています。
恐らく、撃退できると思われます。先ほどまで戦った相手ではありますが、できればそう願いたいです」
俺を始め、皆も同じ気持ちだった。
例え敵兵でも、戦いでの死と、魔物の餌食になるのでは、大きく違う。
彼らの多くは、自ら望んでこの戦場、魔境に入ってきた訳ではないのだから。
「団長、魔境騎士団と屯田兵の出発を急ぎお願いします。指揮はゲイルに任せる。
ラファール、シャノンの力を借りて、俺の代わりに敗残兵に対し、投降を呼び掛けてくれないか?」
「承知っ!」
「はっ!」
二人が出て行った後に、今度はイシュタルからの使者が到着した。
既に気球通信で、此方の勝利を伝えているから、それを受けて使者を送ってきたのだろう。
ただ、その使者の言葉は、俺を再び驚愕させるに十分だった。
「はあっ? ……、いや、ごめん。もう一度言ってくれるかな?」
俺は思わず、彼らの戦功を褒める前に、驚きのあまり変な声を出してしまった。
「はい、イシュタル方面では捕虜からの聞き取りを含め、現時点で以下の戦果が確認できております。
鉄騎兵は3,500名を討ち取り、負傷者含め捕虜として約2,000名を確保しております。
歩兵は5,800名を討ち取り、負傷者含め捕虜として約4,300名を確保済みです。
なお、鉄騎兵1,500余名、歩兵1,900余名が分散して領内を逃亡中ですが、彼らに退路はありません。
そのため順次、戦死者数と捕虜の数は増えていくと思われます」
「……」
いや、確かにそうだ。既にゴーマン伯爵からも戦況報告を受け、イシュタル方面では19,000名もの敵軍に勝った。そのことは聞いていた。
ゆっくり考えれば、敵兵力を撃退し、それを袋の鼠にしたこと、これは19,000名を全滅させたという意味に等しい。そこから第一皇子の捕縛作戦が始まり、色々あって……、敵の戦死者や、捕虜の数にまで頭が回っていなかった。
なんか……、アイギス方面と比べて、とんでもない戦果なんですけど……
「それでその……、食料や馬の飼葉、その他医薬品や聖魔法士たちの数が全く足りません。
どうか、大至急ご支援の手をいただきたい、そう司令官バウナー準男爵より言付かっております」
6,300名の負傷者及び捕虜って……、イシュタルだけで支え切れるもんじゃない。
負傷者の救護には恐らく、マリアンヌとラナトリアの、女神コンビが中心となって無双しているのだろうけど……
しかもこの数は更に増える可能性が高い。最大あと3,400名が上乗せされる……
防衛部隊より捕虜の数が多いって、そもそもあり得ない話だけど……
兄さん率いる辺境騎士団6,000騎の食い扶持も必要になってくるし、早急に対処しないと!
「わ、分かった! 大至急物資と人員を送る。それまでなんとか支えてほしい。
そして、イシュタルの皆には感謝を、最大限の感謝を、そう伝えてくれないかな?」
そう言って俺は周囲を見渡した。
「取り急ぎ、アイギスの物資を大至急送るので、バルトはその任を!
テイグーンのミザリーには使者を送り、ガイアの物資も含め、こちらに大至急輸送をするように。
ディモスにも同様に使者を送り、彼方は通商ルートを使って直接イシュタルに送らせて欲しい」
そしてもうひとつ、大事なことを思い出した。
「商人たちに戦果と戦況を解禁する。きっと彼らも、この商機を逃さないよう、協力してくれるはずだ。
せいぜい派手に、喧伝してやるといい」
俺から第三皇子陣営のジークハルトに使者を送らなくとも、恐らく商人たちが勝手に動き出すだろう。
きっと俺たちが伝えるより早く、こちらの勝利が先方に伝わるに違いない。
果たして彼は、盟約通り動いてくれるだろうか?
今の時点では、彼らが素直に軍を引いてくれるかは、まだ分からない。
ただ、交渉材料として、ほぼ完ぺきと言えるほど、此方の手札は揃った。
後は、この南部戦線の幕引きだけだ!
中央軍、寄せ集めの南部貴族の部隊だが、うまくやれているのだろうか?
<参考>
◆第一皇子陣営本隊(アイギス方面)
◇鉄騎兵
戦死者数 : 500名
負傷(捕虜):1,000名
逃走中 :1,500名
◇歩兵
戦死者数 :2,000名
負傷(捕虜):1,500名
逃走中 :4,500名
◆別動隊(イシュタル方面)
◇鉄騎兵
・イシュタル攻防戦(ダブリン戦術)
戦死者数 :2,500名
負傷(捕虜):1,000名→800名
一時撤退 :3,500名
・最終攻防戦
戦死者数 :1,000名
負傷(捕虜): 800名
逃走中 :1,500名
◇歩兵
・関門戦
戦死者数 :1,000名
負傷 :1,000名(後日捕虜)
一時撤退 :10,000名
・第一回総攻撃
戦死者数 : 800名
負傷(捕虜): 500名
一時撤退 :8,700名
・最終攻防戦
戦死者数 :4,000名
負傷(捕虜):2,800名
逃走中 :1,900名
◇その他
・帝国軍負傷者宿営地
鉄騎兵捕虜 : 400名
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次回は『帝国軍……撤退す』を投稿予定です。
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