すっかり日は沈み、輝く月が空高く上り、マーガレットちゃんは花弁の中にその身を隠して眠りにつき、食べきれなかったケーキが変わらずそこにある。
窓辺にもたれたオリヴィエの横顔を月明かりが照らす。
「ふふ……何も知らずスヤスヤ眠っていますよ。可愛いですねぇ」
堂々たる佇まい。とても変態のそれとは思えない。
しかしヤツはやる気だ。音の出やすい鎧を脱ぎ捨て、寒さにも強く衣擦れ音の出にくい柔らか素材の布の服に身を包んでいる。防御力を無視した装備だが、どんな厚い鎧も魔族の一撃の前では悲しいほどに無力。なにを着ていてもマーガレットちゃんに気付かれればそこでおしまい。厳しいミッションになることは俺のような素人にも分かる。
オリヴィエは胸に手を当てて深呼吸し、大きな白い袋を肩に担ぐ。
振り返り、肩越しに笑うオリヴィエ。
「いってきます、神官様。祈る必要はありませんよ。必ず成功させますから。だから……ただ、そこで見守っていてください」
オリヴィエの後ろ姿はまるで死地に向かう兵士のようで。
俺はその背に伸ばしかけた手をぐっと握り込む。
もうなにを言っても無駄だ。覚悟はとうにできているのだろう。
でも……
「くそっ!」
行き場のない怒りとやるせなさを拳にのせて壁に叩きつける。
どうして……どうしてそんなふうになってしまったんだ。お前には……他にもっと、明るい未来を選ぶ余地があっただろう!
「うあッ……」
窓の外からオリヴィエのうめき声が聞こえる。
最初から無謀だったんだ。魔族と人間じゃなにもかもが違う。マーガレットちゃんを欺いて近付くなんて無理なんだ。
マーガレットちゃんのツタがオリヴィエの腹部を貫いている。肩に担いだ白い袋が赤く染まっていく。
本当は分かっていたんだろう? こうなることを。なのにどうしてお前は裏庭へ行くんだ。どうして……そんな幸せそうに笑っていられるんだ。
「マーガレットちゃん」
オリヴィエが血反吐を撒き散らしながら、今まさに己を殺さんとしている植物モンスターを見上げた。
マーガレットちゃんは相変わらずの植物的無表情である。オリヴィエを殺すことになんの感情も抱いてはいない。ただ己の領域を踏み荒らす鬱陶しい害虫を殺処分しようという無機質な殺意のみを感じる。
オリヴィエが目を細める。己の腹を貫く太いツタを、まるで恋人の手でも握るように両手で優しく包み込む。
「受け取って。僕からのプレゼント」
肩に担いでいた白い袋を抱き寄せる。
それはまさにサプライズプレゼントだった。
「ッ――」
日の沈んだ裏庭が強烈な光に照らされる。少し遅れて響く爆発音。爆風で窓が軋む。
な、なにが起きた?
俺は窓から外の様子を窺う。くそっ、強烈な光のせいでまだ目が眩んでいる。視界のあちこちにチカチカしたものが……
いや、待て。違う。俺は目を凝らして庭を見る。錯覚なんかじゃない。本当に光ってる。庭とマーガレットちゃんの植物的無表情を照らす淡い光――まるで空から星屑が落ちてきたようだった。
なんて美しいんだ。これがオリヴィエのプレゼントなのか? アイツ、いつの間にこんな魔法を。
しかしいくら見回せど淡い光に照らし出された庭にオリヴィエの姿はない。一体どこに。
不意に庭で輝く光が消えた。
瞬間、背後からぼちゃぼちゃと湿っぽい音が聞こえる。
振り返り、肩越しにその光景を見た俺はようやくすべてを理解した。
そうか。魔法なんかじゃない。輝いていたのはお前自身だったんだな。
勇者が息絶え、教会に転送される瞬間その遺体は淡い光に包まれる。美しいはずだ。庭を照らしたあの光は神の奇跡によるものだったんだから。
もはや光を失った爆散細切れ肉塊を見下ろし、俺は静かに項垂れた。
*****
「意味が全く分からないんですが。何がしたかったんですか」
この街に来てから意味の分からないことだらけだ。しかし大抵の場合狂人共の意図くらいは一応理解できていた。
しかし今回に限ってはオリヴィエがなんであんなことをしたのか全く分からん。まさか本当に肉片イルミネーションで庭を飾ろうとしていたわけではあるまい。
マーガレットちゃんに拒絶され、とうとう狂ったか。いや、狂っているのは今に始まったことじゃないが。
俺は恐る恐る尋ねる。
「無理心中ですか?」
するとオリヴィエは「まさか」と言って笑った。
「あんな小規模な爆発でマーガレットちゃんが傷つくはずないじゃありませんか。実はプレゼントに肥料を買ったんです。こんな痩せた土地じゃマーガレットちゃんが可哀想ですからね。上質な肥料と僕の血の相乗効果でマーガレットちゃんがますます美しくなるはずです!」
なるほどな。白い袋の中身は肥料と爆弾か。俺は庭から外を見る。
プレゼントの肥料と一緒に撒き散らされたオリヴィエの血で中庭は惨劇の後みたいになっている。いや、実際惨劇の後なんだけど。
こりゃあ確かに裏庭がますます肥沃な土地になりそうだなァ?
朝日に照らされた庭を眺めながら、オリヴィエが目を細める。
「僕の血がマーガレットちゃんの糧となり、僕らは一つになる。もうそれだけで良いんです」
良いわけねぇだろ。具体的に言うと俺が良くない。欲望の赴くまま凶行に走り呑気に死んでたお前は知らねぇだろうな。爆散死体の蘇生の大変さなんてよ! お前の蘇生に一晩掛かってんだよこっちは。もう日が昇りきってんぞ。
蘇生にエネルギーを費やしたお陰で胃に少々スペースが開き、ケーキを消費できたのが不幸中の幸いだった。とはいえ全て消費できたわけではない。ちょうど一人分ほどのケーキが残ってしまった。もう俺の胃と口が甘味を拒絶している。無理に押し込もうものなら嘔吐も辞さないという強固な意志を感じる。
俺はオリヴィエの肩に手を置いた。
「ケーキ食べません?」
「どうしてそんなにケーキを勧めるんですか……怖いんですけど……」
狂人に怖がられてしまった。非常に遺憾である。俺はただケーキを無駄にしたくないだけなのに。
「まぁまぁ、良いから良いから」
俺はそう言ってテーブルに目を向け、首を傾げた。
ケーキがなくなってる。
おかしいな、確かに一切れ残っていたと思ったが。寝惚けて食った? いや、さすがにそんなことはないだろ……まぁケーキを消費できたのはありがたいが。
「すみません、ケーキ完食してました……ん?」
オリヴィエに謝罪しながらさらに気付く。
消えたケーキの代わりとばかりに見覚えのない小包みが置かれている。
なんだこれ。昨夜はこんなん無かったぞ。やはり訪問者がいたのだろうか。細切れオリヴィエの蘇生中ちょいちょい仮眠を挟んでいたから、その間に誰か来たのかもしれない。
俺は小包みを手に取ってみる。サイズから受ける印象よりはやや重いが、物凄く重いわけではない微妙な重量感。これだけじゃ中身の見当はまるでつかない。
「なんですかね、これ」
「プレゼントですか? 開けてみては?」
オリヴィエに促され、取り敢えず包を解いてみる。誰かの忘れ物だったとしても、持ち主がわからなければどうにもならないからな。
中から出てきたのはマフラーだった。俺が市場で買おうか迷ったヤツに似ている。
「やっぱりプレゼントじゃないですか。良かったですね。誰からでしょう? リエールかな? いや、リエールなら直接渡すでしょうから違いますねきっと」
ひっ……こ、怖い名前出すんじゃねぇよ。
「せっかくだからほら、巻いてみたらどうです?」
マーガレットちゃんへのプレゼント作戦が成功したからか、オリヴィエのテンションが高い。
俺の手から素早くマフラーを取り、首に巻きつける。
「良い感じですよ。巻き心地はどうですか?」
「……暖かい」
「あはは。良かったですね」
ち、違う。笑ってる場合じゃない。
本来マフラーなどの防寒具は着用した本人の体温を逃さないようにして寒さを防ぐ。でもこれは違う。これ自体が熱を持っているように生暖かい。血が通っているかのようにズッシリ重い。そ、そして……首に触れるこの感じ……
俺は恐る恐るマフラーの端を持ち、そっと裏返す。
イソギンチャクを彷彿とさせる突起がビッチリと並んでいた。
「うわあぁぁぁッ!?」
崩れ落ちるように尻もちをつきながらマフラーをぶん取って床に叩きつける。
ベチンという肉感のある音を立てながら転がったマフラーがフナムシのような動きで床を這いずり本棚の裏へと音もなく逃げていった。
*****
「ユリウスくーん、俺からのプレゼント受け取ってくれた?」
お前かァ!! テメェぶち殺してやる!!
俺は女神像(小)を振り上げ呑気なツラ晒したマッドに襲い掛かり、ヤツの背後に控えてたジッパーからにょきっと伸びた触手に絡めとられて床に転がされた。チクショウ……
「ははは、はしゃいじゃって。喜んでもらえたみたいで嬉しいなぁ」
「なんですかアレ! なんですかアレ! なんですかアレ!!」
「なにって、俺の手作りマフラーだよ」
歪な生命を手作りするな!!
俺は触手を振り解いて立ち上がり、女神像(小)を構える。
あの謎のマフラー型生命体の姿はどこにも見えない。どっかに入り込んでしまったらしい。意を決して覗いた本棚の裏にはもういなかった。
しかしこの教会のどこかに潜んでいるはずだ。次の瞬間俺の足元にいるかもしれない。夜、寝ている俺の顔を這いずるかもしれない。
あの裏側のビッチリ生えた脚?みたいなのを思い出すだけで鳥肌が……
俺は頭を抱える。ノイローゼになりそうだ。アレを殺さなくては。あれが生きて教会の床を這いずっている限り俺の心に真の安寧は訪れない。
ま、待てよ。この触手なら。俺はジッパーに縋りつく。
「お願いですからアレ退治してください!」
するとマッドが白衣のポケットに手を突っ込んだままキョトンとした顔で首を傾げる。
「退治? なに言ってんの。ユリウス君と教会を守るありがたい人工生命体だよ。害虫も食べてくれるし。よく見ると可愛いし」
ヤモリみてぇな理論は良いんだよ!
あんな気色悪い生物と同居なんてしてたまるか。テメェは黙ってろ!
俺が縋るような視線を向けると、ウサギ頭から少々困ったような声が上がる。
「ドクターは神官さんが心配なんですよ。この前のシェイプシフターの件といい、すぐ変なのに付き纏われたり襲われたり攫われたりするから」
そうだね。それは認める。でもお前の言う“変なの”の代表格に心配されたくはない。耳にクズ触手ぶち込んでダンジョンに拉致ったの忘れてねぇからな俺は!
あ~なんで俺がこんな目に合わなきゃならないんだ。
俺は教会の長椅子に腰かけて項垂れる。
「あの、神官さんこれ」
ジッパーが俺に何か差し出す。なんだ? 書類?
「荷馬車が運んできたものです。神官さんが取りに来ないので配達を頼まれました」
「あぁ……本部からの書類ですか。どうも……」
教会本部との連絡は基本的に書類のやり取りで行う。まぁ大した連絡は来ないのだが。
本当は悠長に書類なんか読んでる場合じゃないのだが、俺は恐怖心を紛らわすためにジッパーから受け取った封筒の束にザッザと目を通していく。内容の薄い業務連絡、俺の名前のない人事異動報告書、綺麗ごとの並んだ業界紙……あ゛ぁ゛!? 今回の教会新聞の特集“若手神官へのインタビュー”だと!? ふざけんなここ来て俺にインタビューしろや。紙面に書けねぇ話で記者をドン引きさせてやる……
うん? 無機質な茶封筒に混ざってなんか妙にカワイイ封筒がある。解読ギリギリラインの汚ねぇ字。教会本部からの書類じゃない?
差出人は――
「ユリウス君?」
マッドが怪訝な表情でこちらを覗き込んでくる。
封筒に入った手紙に目を通し終え、大きく深呼吸をする。
「決めました。今、決めました」
「どうしたの、改まって」
俺は静かに、しかし力強く二人へ宣言した。
「私、実家に帰ります」