壁から突き出た触手を目の当たりにしても、スチュワートさんは冷静だった。剣を抜き、辺りの様子を窺いながら低い声でつぶやく。
「ここはいつもこうなのですか」
「そんなわけないでしょう!」
ふざけんなよ、なんで領主の館に触手生えてんだよ。
えっ、これ本当にアンセルムへの嫌がらせで設置したのか? だとしたら怖すぎるだろ。手が込みすぎていてヤバい。ここまで悪意が長続きすることに戦慄する。
とにかくこんなヤバいところにいられるか! 館を飛び出そうと扉にすがるが、ノブが回らない。閉じ込められた!
「どどどどどうしましょう。そうだ、窓を突き破って――ちょっと、どこへ!?」
「坊ちゃま! 坊ちゃま!」
スチュワートさんはあくまでアンセルムを探す気らしい。呼びかけながら屋敷の奥へずんずん進んでいく。声に反応してか、あるいは招かれざる客を排除しようとしているのか、壁に生えた触手が続々とこちらへ伸びてくる。そのたびにスチュワートさんはロングソードで触手をぶった切り、床に落ちて鮮魚のごとく跳ね回る触手に俺は悲鳴を上げることになった。
「一回外出て作戦練りましょう! ね?」
言いながら必死に縋りつくが、スチュワートさんの足が止まることはない。
「もう我慢の限界です。商談をエサにここに坊ちゃまを誘い込んだに違いない。悪童め、城を追われて多少反省したかと思えば」
「落ち着いてください。そうだ、アンセルムがこの先にいるとは限らないじゃありませんか。まだ街をブラブラしてる最中かも」
「だとしても、あの悪童が坊っちゃまに屈辱を味わわせるためにせっせと準備をしていることに変わりない。どちらにせよ許せる行為ではありません」
「いや……でもほら、アンセルムは全然関係ないかもしれないですし」
「ではこの触手はなんですか」
「あの……インテリア……とか……」
俺の必死の説得にもスチュワートさんは聞く耳を持たない。
マジでいい加減にしろよ。最近触手遭遇率高すぎるぞ。なんで街の外に出ない俺がこんな頻繁に触手を目にするんだよ。
まぁ理由は分かってる。マッドがせっせと研究に勤しんでいるせいだ。今日もヤツは無駄な勤勉さを発揮し、助手と共に触手の運用を推し進めていた。
「ドクター、お客様がお見えになったようですよ」
「ん? おお、よく来たねユリウス君……と、誰?」
廊下で触手を植えていたジッパーとマッドが和やかな声を上げる。
一方、スチュワートさんは怪しげな白衣の男とボンデージウサギ頭女を完全に敵と認識したようだった。
声も上げず音も立てず、ただ剣を構えて二人に襲いかかる。
だがさすがに壁に生えた雑魚触手とジッパーの触手ではモノが違う。
吹っ飛ばされたスチュワートさんに珍獣でも見るような視線を向けて、マッドが口を開く。
「俺もあんまりマナーにうるさい方ではないんだけどさ。他人の家で剣を振り回すのはさすがにどうかと思うよ」
他人の家の壁に触手植えてるヤツがなんか言ってる。
スチュワートさんは優秀な執事だが、さすがに魔族の触手を持つジッパーに勝つのは難しい。
それでも、スチュワートさんは剣を杖に立ち上がる。俺は慌てて声を上げた。
「もうやめてください。死んだらどうするんですか。きちんと話を」
「坊ちゃまに害を加える者と交わす言葉などありません」
あー、くそ! なんでジジイってこう頑固なんだろうな!
俺は説得を諦め、マッドとジッパーに助けを求める。
「この人は勇者ではありません。殺さないでください」
するとマッドは「なんだ、そんなことか」とばかりに微笑む。
「大丈夫だよ。うちには強酸の薬品も潤沢に用意してあるし。ねぇジッパー?」
「ええ、ドクター。人造生命体の餌にするという手もあります」
「ヤツらは骨まで食べるからね」
死体の処理の問題を言ってるんじゃねぇよ!
ダメだ、コイツらに倫理観を期待した俺が馬鹿だった。
不味い。不味いぞ。これはマジで人死にが出かねない。なんでこの人は勇者でもないのに命を懸けてバケモノに立ち向かえるんだ!
「神官様」
スチュワートさんが息を乱しながらも、言葉を振り絞るようにして言う。
「坊っちゃまにお伝えください。この老いぼれの命、最期まで坊ちゃまのために使い切れて幸せでした、と」
「一体何を。本当に死ぬ気ですか」
スチュワートさんは返事をしなかった。
ただフッと笑い、剣を構える。覚悟を決めた男の顔は、こんなにも安らかなのか。
「やめなさい!」
俺の言葉を無視し、スチュワートさんが剣を構えて床を蹴る。
俺ごときがどうして彼を止められるだろう。
彼の足を止められる人間がいるとすれば、それはただ一人だけだ。
「なにやってんだよスチュワート!」
スチュワートさんに飛び掛かり羽交い締めにしたその男は、我々が探していたアンセルムその人であった。
*****
「本当に申し訳ございませんでした」
深々頭を下げるスチュワートさんにロンドは苦笑を漏らしながら呟く。
「不法侵入に器物損壊、おまけに先生への殺人未遂。よくもまぁここまで暴れましたね」
「不幸な行き違いがあったんですよ。まぁ私は止めたんですがね?」
俺は己の保身を織り交ぜつつ、スチュワートさんをフォローする。
やはりあの触手はアンセルムとは無関係だったのだ。
「本当にいい迷惑だよ。せっかく植えた触手がめちゃくちゃだ」
腕を組んだマッドが不機嫌そうに言う。
触手は館のセキュリティを上げるため、実験的に植えてみたとのこと。扉が中から開けられなかったのも触手が誤って外へ出ないための対策だそうだ。
そんなこと言われなきゃ分かんねぇよと思わないではないが、まぁ勝手に人の家に上がり込んで断りもなく触手ぶった切って回ったスチュワートさんが悪いといえば悪い。
「それで、お二人はどこへ行っていたんですか」
「会食です。わざわざハーフェンからお越しいただいたんですから、それくらいのもてなしは当然でしょう。まぁ屋敷で暴れてる不審者がいると報告を受けて慌てて向かったので、中途半端に終わってしまいましたけど」
そう平然と言ってみせるロンドに俺は目を見張った。
会食……そうか。そうだよな。領主だもんな。一応それっぽいことやってんだな。
こうなるとスチュワートさんの大暴れっぷりがますます間抜けに見えてしまう。が、どういうわけかアンセルムは執事の失敗を面白がっている風であった。
「まさかスチュワートがこんなミスをするとはな。完璧超人かと思ってたけど、お前もちゃんと人間だったんだな」
「坊ちゃま……」
従者の失敗は主人の失敗。アンセルムはロンドに対し深々と頭を下げた。
「執事の非礼、大変申し訳なかった。許してはくれないだろうか」
執事と主人の心温まる絆を目の当たりにし、ロンドは柔らかな笑みを浮かべる。
「損害賠償請求します」
またフェーゲフォイアーの経済が潤ったぞ。やったぜ。
*****
「坊ちゃまを心配するあまり視野が狭くなっていたのかもしれません。成長というのは嬉しくもあり、寂しくもありますね。神官様は私が守られるくらいの方が良いと言ってくださいましたが、本当にその通りになってしまいました。しかし坊ちゃまもうら若き乙女ならともかく、こんな老いぼれでは守りがいもありますまい」
なんとかロンドとの示談をまとめた後。スチュワートさんは嬉しそうな、そしてどこか寂しそうな様子で呟いていた。
フェーゲフォイアーの視察をするアンセルムの姿を見かけることは何度もあったが、それ以来スチュワートさんの姿は見ていない。
一足先にアンセルムの邸宅に戻ったのだろうか。あるいは、もう完全に執事をやめてしまうつもりなのか。俺には知る由もない。
アンセルムもなんだかんだで貴族としての本来の仕事をまっとうしているようだ。
まぁ、少し危なっかしい瞬間もあるが。
「おにーさん、また前みたいにツボ買ってってよぉ」
「い、いや……」
「信じる者は救われるよ」
アンセルムが白装束の女達に絡まれてツボを押し付けられている。
ネギ背負ったカモがこの街で放っておかれるはずもない。白装束め。アンセルムがツボをなかなか買わないから今度は色仕掛けに打って出やがった。
貴族の坊ちゃんはツボウリアンのあしらい方を知らないらしい。フェーゲフォイアーの経済活動を活性化させたい気持ちが無いわけではないが、アイツはすでにロンドから結構な額の示談金をむしられている。あんまり追いつめても可哀想だからな。
俺はアンセルムを助けてやろうと歩み寄っていくが、どうやらその必要はなかったらしい。俺の脇をすり抜けていった小柄なメイドがアンセルムの腕を掴んだ。
「坊ちゃま、あまり時間がございません。今日もスケジュールが詰まっております」
「わ、分かってるって! お前を待ってたんだ。ほら、行くぞ」
白装束の間を掻い潜るように二人して駆け出していく。
なんだよ。結構楽しそうにやっているじゃないか。
当然だが、ハーフェンみたいな大都市の貴族にはたくさんの使用人がついている。スチュワートさんは優秀な執事だが、アンセルムのそばに仕えるには少し優秀すぎたのかもしれない。年頃も近そうなあのメイドをアンセルムは気に入っているように見える。適材適所だよな。
それからしばらくして。
アンセルムが教会を訪れた。あの小柄なメイドも一緒だ。
商談と視察を終え、今日フェーゲフォイアーを発つのだという。
「無事に帰還できるよう祈りに来たんだ。少しの間教会を貸してもらえるか?」
俺はアンセルムの申し出を快諾した。
わざわざ祈るために教会を訪れる人間なんてめったにいないからな。ほぼ俺や勇者の休憩用になっている長椅子が本来の使い方をされるのは歓迎すべきことだ。
窓枠に切り取られた青空が眩しい。こんな日は勇者も冒険に出かけたくなるようだ。俺もできるなら外に出たいよ。しかし迂闊に外へ出れば帰って来た時、大量の死体が山になって俺を待ち構えている可能性が高い。冒険日和には勇者がたくさん死ぬからな。もたもたしていると祈っている最中に死体が降ってくる。やるなら早い方がいい。俺は手早くアンセルムを祭壇の前の長椅子に案内する。
せめてもの慰みに晴天を感じようと開け放たれた窓から風が吹き込んだ。視界の端で何かがヒラリと落ちる。
布だ。鏡を覆っていた布が風に煽られ落ちたらしい。鏡面に教会内の光景が映り込む。
「あ」
「ん? どうした?」
アンセルムが首を傾げる。
外のあたたかな陽気に反した悪寒に思わず震える。背中を汗が伝うのを感じる。一瞬の逡巡ののち、俺は壁に張り付いて鏡を覆い隠した。
「いいえ、なんでも! なんでもございません!」
「そ、そうか?」
怪訝な表情。明らかに怪しんでいる。凄まじく不自然な動きだったろう。
でもこうするしかないじゃないか。
この世界で重要なのは「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」である。
カジノですっからかんになって身ぐるみはがされた勇者による物事の本質を見極めた鋭いアドバイスより、仰々しい肩書を持った人間がうとうとしながら呟いた寝言の方を人間は重く受け止める。
「坊ちゃま、御髪が乱れております」
「い、いや良いよ別に」
「そういうわけには参りません」
メイドが髪を整えるのを、アンセルムはぶつぶつと形ばかりの文句を呟きながら受け入れる。
優秀すぎる老執事のお節介を鬱陶しく思えども、同じことを可愛いメイドがやれば許せたりするものだ。
俺は背中に隠した“真実の鏡”をチラリと見やる。
目の前にいるアンセルムと同じように、鏡の中のアンセルムも大人しく髪を整えられている。違うのは、鏡の中のアンセルムに付き従い髪を整えているのが可憐なメイドではなく老齢の執事であることだ。
同じ行動をしても、姿や立場が違えば相手からの反応も違う。それは分かる。仕方ない。仕方ないけど。
でも、だからって、自分がメイドになることはないじゃないか……!
『坊ちゃまもうら若き乙女ならともかく、こんな老いぼれでは守りがいもありますまい』
スチュワートさんは確かにそう言っていた。
貴族に仕える優秀な執事であるスチュワートさんにとって変身術などお手の物なのだろう。
でも他に方法はなかったのか? 考えに考え、考え抜いた末がそれなのか? 今まで色々な経験をし、勇者としても死線を潜り抜けてきた老齢の男が知恵を絞った結果がメイドなのか?
俺は静かに天を仰いだ。こぼれそうになる涙を堪えるためだ。
なんでジジイってのはこう頑固なんだろう。
自分の生き方を変えまいとして、他の全部を偽っている。そうまでして執着するか。
でもこれが彼の出した答えなら――俺はそれを尊重したい。
「大丈夫か……?」
壁に張り付き涙を堪える俺にアンセルムがギョッとした視線を向ける。
俺は何も言えず、ただ首を横に振った。
アンセルムとスチュワートさんが去ったあと。俺は壁にかけていた真実の鏡を外した。
世の中には知らない方が良いことが多すぎる。
アンセルムができるだけ長い間、己に付き従う妙に優秀な新人メイドの正体に気付かないことを祈るばかりだ。