アイギスが跪き、こうべを垂れて赤い髪をかき分け、白いうなじを露わにしている。
地面に視線を落としたままこちらを見ようともせずに深刻なトーンでこう言った。
「どうぞ殺してください」
「嫌ですよ……蘇生するの私だし……」
俺はアイギスに無理やり握らされた剣を床に置く。真剣って重……よくこんなの振り回せるな。
ゾンビ事件の際に俺を守れなかったことで落ち込んでいたらしいが、さらに今回魔物の洗脳にまんまとハマったことで落ち込みが地の底にまで到達したというのが秘密警察の証言だ。
おいおい、勘弁してくれよ。ただでさえ俺の周りにはメンタルを病んだヤツが多いんだ。アイギスにまで病まれたら困る。
「仕方ありません。あんなの防ぎようがないですよ。貴方だけじゃなくて街のほぼ全ての人間がかかったんですから、そんなに落ち込まなくても」
俺はできるだけ明るい声でアイギスをフォローする。しかしアイギスはかたくなにうなじを露出し続けている。
どうしたら良いんだ。本当に一回首落とした方がいいのか? いやいや……「殺されて蘇生されてスッキリ! 生まれ変わった気分です!」とはならんだろうさすがに。
少し考えて、俺は意識を別の方向に向ける作戦を思いついた。
「じゃあこうしましょう。もし次にああいう事があったときに私を守れるよう訓練をしてください」
「訓練……ですか?」
アイギスがようやく顔を上げて「殺してください」以外の言葉を吐いた。相変わらず雨に濡れた子犬のような顔をしているが、もうひと押しだ。爽やかな笑みに明るい声で両腕を振り上げる。
「そう。状態異常耐性獲得訓練で~す!」
俺たちが向かったのは集会所である。この街で洗脳にもっとも詳しいだろう人物を訪ねた。
「遊びに来てくれたんだね! パパ……と秘密警察のとこの」
満面の笑みで出迎えてくれたメルンだったが、アイギスを見ると少し表情を固くした。
そういえば秘密警察と集会所って結構仲悪いよな。前も街中でゲリラ戦やってたし。まぁ腐っても警察を自称している組織とカルト集団が仲良いわけないか。
とはいえ現在はバチバチの戦争状態というわけではないはず。
俺は事情を説明し、アイギスの状態異常耐性獲得訓練への協力を要請する。
集会所では洗脳についてのあれこれを研究し、日々実践している。だから洗脳にかかりにくい体のつくり方や解除方法についてのノウハウなども持っているのではないかと思ったのだ。
するとメルンは俺の申し出を快く快諾。結果こうなった。
「キノコA・B・C用意しました」
「催眠ガス準備オーケー」
「拘束完了です」
甘ったるい匂い、謎の装置、種々の薬品、カラフルなキノコ。独房に設置された拘束台に縛り付けられたアイギスの周りを白装束共がせわしなく動き回っている。
マスクで口元を覆ったメルンが手袋をはめながらアイギスを見下ろす。
「では始めていきます」
重々しく呟くメルンの腕を掴む。
「……なにを始めるんですか」
「え? 洗脳だけど」
メルンが「なんでそんなこと聞くの?」とばかりにキョトンとして答える。
なんで洗脳するんだよ……
するとメルンが首を傾げながら言った。
「だって状態異常耐性獲得訓練でしょ? 何度も洗脳を繰り返せば耐性がつくんじゃないのかな」
「……ここで何度か洗脳された人間はアカマナの洗脳を免れましたか?」
「ううん。だって魔法を使った洗脳と私たちのやってる洗脳って種類が全然違うし」
分かってんじゃねぇか。本当は何がしたいんだ。
するとメルンが声を潜めて言う。
「アイギスさんは人を殺すのに躊躇が無さすぎるよ。街の平和のためにこの辺で一回洗脳しといた方が良くない? 良いよね?」
まぁ確かにな……
いやいや、落ち着け。確かにじゃねぇよ。そもそも人を殺すのに躊躇ないのはなにもアイギスだけじゃない。ただアイギスが強いのでキル数が飛びぬけているというだけで……あれ? ならやっぱり一回洗脳しといた方が良いのか? なんか混乱してきた。この甘い匂いが判断力を鈍らせるのだろうか。うまく考えが纏まらない。
そうこうしているうちにメルンはどんどん準備を進めていく。
「今回はキノコAとBを使用。洗脳音声……洗脳音声操作は誰?」
「あれ、アイツどこ行ったんでしょう。探してきます」
どうやらトラブルだ。人手を探しに白装束が一人外へ出ていく。
どうしよう。この隙に逃げた方が良いか? アイギスは……ああっ、目の焦点が合っていない。
「大丈夫ですか?」
尋ねると、寝言でも呟くようなはっきりしない声で答える。
「はい。もうどうにでもしてください」
これがトランス状態かぁ。
感心していると突然アイギスがカッと目を見開いた。拘束具をオモチャのように引きちぎり、飛び起きる。
「ど、どうしました」
アイギスが瞳孔の開いた目できょろきょろとあちこち見回す。まるで周囲を警戒する野生動物のようだ。まだトランス状態が解除されていないのか、寝言のように漏らす。
「殺気が……」
「殺気?」
恐る恐る辺りを見回す。
なんだよ。誰もいないじゃん。あるのは扉から這い出た深海生物を思わせるなんの変哲もない触手だけだ。
「なんか楽しそうなことしてるね」
触手によって開かれた扉からジッパーとマッドが入って来た。マッドの腕のギプスが取れていることにふと気付く。
「怪我はもう良いんですか」
「うん。まだ無理はできないけどね。それよりこの部屋催眠ガス使ってる? 換気するよ。こんなの吸ってたら馬鹿になる」
言いながらマッドが扉を大きく開け放つ。新鮮な空気が流れ込んできて初めてこの密室に良からぬ気体が充満していることを実感した。あー、なんかちょっと頭が痛い。
そんなことも構わず、マッドは薄っぺらい笑顔で話しかけてくる。
「上司ができたんだって? 良かったね」
そんなこと思ってもないくせに、適当なこと言いやがってぇ……。なーにが「良かったね」だ。全然良くねぇよ。なんなのあの人? なんかもうよく分かんねぇよ。
いや、待て。そういえばコイツも元神官だよな。しかもシャルル同様、孤児院出身だ。俺より教会内部の事情に詳しいかもしれない。俺は恐る恐るマッドに尋ねる。
「あの、大司教様って会ったことありますか?」
するとマッドはごく短い思案のあと、あっさり頷いた。
「会ったって程じゃないけど見かけたことはあるよ。なにかの祭典の時だったかなぁ。ほとんど表に出ない人で、行事とかにも滅多に参加してないみたいだけど」
「私たちとそう変わらない年齢ですよね。神官学校の同期とか、後輩とかじゃありませんでした? なにか話聞いていませんか?」
「なに言ってるの?」
言いながら、マッドは怪訝な顔で首を傾げた。
「俺が見たのは孤児院にいた頃……多分十歳とかそれくらいの時だよ。あれから少なくとも十数年は経ってるんだから今はそこそこの歳でしょ。大司教が変わったって話も聞かないし、いくらなんでも俺たちと変わらないってことはないよ」
……どういうことだ?
若く見える人間、老けて見える人間ってのは確かにいる。でも、それにしたって。
しかしマッドは早くもこの話題に飽きたらしい。俺が追及するより早く辺りを見回してポツリと言った。
「で、こんなとこで二人でなにしてたの?」
二人? 俺は辺りを見回す。
……いない。部屋が妙に広く感じる。謎の装置、種々の薬品、カラフルなキノコだけが忘れ去られたようにそこにあるが、ついさっきまで部屋を埋め尽くさんばかりにいた白装束共やメルンの姿がどこにもない。
ガスのせいで頭がボーっとしていたことは否めない。気付かないうちにみんな外へ出てしまったのか? そう思って廊下に出て呼びかけても、返ってくるのは静かな廊下に反響する自分の声だけだった。
まぁいないものは仕方がないとアイギスと共に教会へ帰るが、探し物っていうのはいつも意外なところから出てくるものだ。
メルンも白装束も教会にいた。
濁った目をあらぬ方向に向けた彼らは仲良く折り重なり山となった状態で、帰還した俺たちを出迎える。しかし出迎えの言葉はない。死体は喋れないので当然だが。
「神官さん、これは一体」
赤く染まった白装束の山を見上げ、アイギスが呆然と呟く。
どうして白装束共が。同じ部屋にいたはずなのに。一体いつ死んだんだ。
……最近魔物の襲撃が続いている。否が応でも悪い考えが頭をよぎる。魔物が二体潜んでいたんだ。三体目がいない保証がどこにある。
「とりあえず蘇生させます。それから詳しい話を――」
言いながら振り向く。言いかけた言葉を飲み込んだ。
呆然とするアイギスの背後に忍び寄る影。そこにいるのがさも当たり前であるかのように、一切の気配を感じさせない。しかし敵意があるのは確かだ。見開かれたパステルカラーの瞳と振り上げた血塗れのナイフがギラリと光る。
恐怖で体がすくむ。動くことはおろか声すらも出せない。
しかしアイギスは違った。
敵を視認するまでもなく、振り向きざま剣を振り抜く。アイギスの剣先がパステルカラーの前髪をハラリと散らす。
「さすがに強いね。でも背中は取れた」
奇襲は失敗に終わったが、本人としてはそう悪くない結果だったらしい。少しだけ短くなった前髪を気にしながらパステルイカれ女が呟く。
なにをやってんだお前は……まさか白装束殺ったのもお前か? 恐る恐る尋ねると、リエールは平然と頷いた。
「私だって訓練くらいするよ」
訓練でサイレント殺戮するな。
あっ、もしかして大司教様に術を破られたことを気にしているのか? だからって妙な殺し方ばかり覚えんなよ……そこで張り合う必要ある……?
「そっちの訓練はどう?」
リエールがアイギスに視線を移す。スッと目を細め、返答を待たずに続ける。
「聞くまでもないか。雨に打たれた子犬みたいな顔しちゃって。吠えることを忘れた番犬に何の価値があるっていうの?」
「なんだと……!?」
睨み合う両者。犯人がリエールだと分かってとりあえずは剣を収めたアイギスだったが、教会の空気が再度急速に張り詰めていく。また死体が増えそうだな。でも今更一人二人増えたとこで変わらないか……俺は赤く染まった白装束の山を眺めて静かに泣いた。
「牙を見せて吠え立てるのが番犬の仕事でしょ。相手が格上だって、戦ったら負けるのが分かっていたって、そんなのは関係ないの」
リエールの口撃は止む気配を見せない。アイギスが拳を握り、奥歯を嚙み締めながら覇気のない視線を足元に落とす。
ん? これは……いやいや、そんなはずないか。気のせいだな。
リエールはアイギスに詰め寄り、さらに言う。
「役に立たない犬なんてユリウスには必要ないよ。目の前に敵が現れてもそうやってクンクン鳴いてるつもり?」
「ッ……そんなわけないだろう!」
アイギスが弾かれたように顔を上げた。
噛みつくように言うアイギスの瞳に怒気と光が宿っている。
「たとえ手足をもがれても、たとえ首だけになったって、最期の瞬間まで敵に食らいついてみせる」
「ふうん。言うね」
せせら笑うように言い、そしてごく小さな声で付け加える。
「まぁ……一応あなたがこの街で一番強いって言われてるんだから、それくらいの気概でいてもらわないと困るけど」
やっぱり気のせいじゃない。
これはあれだな。落ち込んでいるアイギスを厳しい言葉ではあるが励ましている感じだな。
お前そういう事できるのか。意外だ。
リエールが続ける。
「じゃあ良いこと教えてあげる。ユリウスとカタリナだけ洗脳にかからなかったでしょう。それは庭にいる魔族の蜜を飲んだからなの」
「なに……?」
怪訝な顔をするアイギスに、リエールが囁くように言う。
「効くかどうか分からない変な訓練をするよりよほど確実に洗脳への耐性を得られるよ。まぁお願いしたって簡単には出してくれないだろうけど……あ、そうだ」
たった今思いついたとばかりに手を叩き、視線を庭へと通じる裏口へ向ける。
「体に傷でもつければ出るかもね。樹液とかも幹につけた傷から染み出すでしょ」
アイギスが素早く剣を抜いた。
「なるほど」
呟くと、凄まじい勢いで地面を蹴って裏庭へと飛び出していく。あまりにも一瞬の出来事で、俺が口を挟む余地など無かった。
いや、理屈は分かる。そしてアイギスは強い。とはいえマーガレットちゃんに傷をつけるのは普通に無理では……?
俺は裏口の扉を少し開けて外の様子を窺う。裏庭ではアイギスとマーガレットちゃんが壮絶な戦いを繰り広げていた。マーガレットちゃんが凄いのは当然だ。人間一人の力で魔族に傷を負わせるのはやはり難しいだろう。
とはいえ、アイギスの動きも十分に人間離れしている。どちらの動きも俺の目にはとても追えない。ずっと見ていると目が回りそうだ。
「大事なのは――」
俺の脇から白い腕がぬっと伸びる。
反射的に振り向くと、すぐそばに迫ったパステルカラーの虹彩が視界に飛び込んできた。
「“自分の意思でその行動を選択した”って思い込ませること」
飛び上がった心臓の鼓動が聞こえていやしないか心配になるほど近い。
すぐ後ろでガチャリと音がした。
「仰々しい魔法も薬品も暴力も有効な手ではあるけど、方法はなにもそれだけじゃない」
視線だけを動かして扉を確認する。音の正体をなんとなく察してはいたが、やはりそうだった。リエールの白い腕が裏口に通じる扉を閉め、鍵を回した。
視線を戻す。すぐそばに迫ったパステルカラーの瞳がスッと細くなる。口元が緩む。
思わず体を仰け反らせるが、後頭部に走る冷たく固い感触が退路を断たれたという事実を俺に思い出させた。扉はすでに閉められている。
耳元に唇を寄せたパステルイカれ女が囁くように言う。
「やっと二人っきりになれたね」
ガチガチと奥歯が鳴る。全身の毛が逆立つ。頭は熱いのに背筋は氷で撫でられたようにゾワゾワする。
リエールの言葉を頭の中で繰り返し、愕然とした。
励ましたんじゃない。こいつアイギスを締め出したんだ……