妹の轢死を目の当たりにしたアルフォンスはひとしきり吐き戻したあと家路につき、俺たちは無事街に戻って来た。めでたしめでたし。いや、めでたいわけないだろ。吐きたいのはこっちだ。余計な時間とらせやがって。
あぁ~どうせ戻ったら教会に死体が山になってんだろ。知ってるよ……
と思ったが、重い足取りで教会へ戻った俺を出迎えた死体は一体だけだった。
神官服を纏った血塗れの男――その顔には見覚えがあった。
「ルッツ!?」
どうして王都に行ったはずのルッツがここに。なんで血塗れなんだ。
疑問が脳内で渦を巻きながら俺は祭壇の前に倒れ伏したルッツに駆け寄る。体を揺すって呼びかけると、ヤツは重い瞼を開き虚ろな目をこちらに向ける。
「ユ、ユリウス……良かった……どこ行ってたんだよ……」
「ど、どうしたんだよ。なんでここに」
「王都から逃げて来たんだ。大司教様が留守にした隙をついて……あそこは……あそこは恐ろしいところだよ……」
逃げてきただと?
俺はギョッとした。ルッツは現在、王都にある教会本部にて大司教様の直属の部下として働いているはず。最初こそ栄転ともいえる人事を羨ましいと思ったが、大司教様の言動とルッツのこの様子……明らかに普通じゃない。王都で一体何があったんだ。大司教様に一体なにをされたんだ。
「どうしたんだよ。詳しく聞かせろ!」
「う……うう……」
ルッツは頭を抱え、ガタガタと震えはじめた。なにかに酷く怯えているようだ。
無理に聞き出すのは酷かもしれない。それより、この血。死体に慣れて麻痺していたが、結構な出血だ。
「大丈夫だ。ここには大司教様はいない。それより怪我してるのか? 回復魔法はもうかけたか? 一応見せてみろ」
「いや……大丈夫。大丈夫だ」
ルッツは力なく首を振り、そしてゆっくりと語り始めた。
「恐ろしい人だよあの人は。恐ろしく仕事ができて、恐ろしく働く。そして恐ろしいことにそれと同等の働きを部下に強要するんだ」
「というと……?」
「大量の仕事を割り振られ、終わるまで帰れない。太陽が地平の彼方へ帰宅して月が重役出勤してきてもなお俺たちは帰れない。大司教様も帰らないから俺たちはますます帰れない。俺の勤怠表見たらきっと卒倒するぞ」
……なんか思ってたヤバさと違うな。
しかしルッツは俺に口を挟ませる余裕を与えず、血走った眼を見開いて怨嗟の声を上げ続ける。
「ほとんど寝に帰宅する感じになってるけど、それすら満足にできない時期があってさ。さすがに無理だって思って“寝かせてください”って言ったらさ、あの人なんて言ったと思う?」
ルッツは俺の肩をガッと掴み、血走った目を剥いて口をひん曲げるようにして笑った。長い付き合いだが、こんな表情のルッツを見たのは初めてだった。
「“寝る……?”って! 首傾げて! そんな言葉初めて聞きました、みたいな!」
新しい上司に相当鬱憤が溜まっているようだ。
掴んだ俺の肩を乱暴に揺すり、ルッツは激しく声を上げる。怒り狂っているようにも見えたし、泣き喚いているようにも見えた。
「その後“今の若い人たちは寝ないだけで音を上げるんですね”って! 信じられるか? これ嫌味じゃなくてマジで言ってるんだぜ。人類誕生以来、人間が睡眠無しで大丈夫だったことなんて一度も無ぇよ! なぁそうだろ!?」
俺は頷いた。そしてルッツを落ち着かせるべく、できるだけ穏やかな声でヤツを宥める。
「分かる。分かるよ。睡眠が足りないと仕事のパフォーマンスが下がってますます寝る時間が取れなくなる悪循環に陥るよな。でも勤怠表書いてるってことは残業代出るんだろ? 俺は残業代とかないし、苦労を分かち合う仲間もいないし、なにより魔物がほとんどいない王都勤めってだけで結構勝ち組――」
「俺はお前とブラック対決をしに来たわけじゃないの!」
とにかく纏めると、厳しい労働環境に音を上げて王都から逃げ出したというわけだ。
なるほど。完全にアホだな。
「あのなぁ。逃げる以外にもう少しやりようがあるだろ。異動願い出してみるとか休職するとか」
「お前は異動願い出してどうにかなったのかよ!」
まぁね……
痛いところを突かれた俺はシュンとする事しかできなかった。
「じゃあどうしたいんだよ」
「ここで匿ってくれぇ」
「嫌だよ」
俺は普通に友人を切り捨てた。
ここの労働環境的にも金銭的にもルッツの面倒まで見る余裕はない。なにより、脱走兵を匿うことによるメリットを全く感じられない。
しかしルッツはなぜか余裕の表情だ。ドヤ顔と言っても良いかもしれない。
「おいおいおいおい、良いのかユリウス。大事な労働力をみすみす逃がしてさぁ」
「労働力……?」
「蘇生だよ! 俺も神官だからな。お前が留守の間、俺が勇者の蘇生してやってたんだぞ」
あぁ、だから血塗れなのか……
しかしルッツの蘇生の腕は勇者共が恐怖に震え、息絶えることに慣れたはずの彼らが死への恐怖を思い出すほどに壊滅的なものである。
それを指摘するとルッツは額に手を当て、肩を震わせて「ククク」と笑った。
「俺はこの日を待ちわびていたんだよ。本部の堅苦しい部屋を抜け出してこの街に来る日を何度もシミュレーションした。想像の中のユリウスにも俺の頼みを何度も一蹴されたよォ」
分かってんじゃねぇか。
っていうかいつにも増して変なテンションだな。本当に仕事が大変なんだろう。疲れてるんだ。
「だからさ、お前に一蹴されないよう勉強したんだよ。イチから。蘇生のこと!」
それは立派なことだが……そんなことしてるから本来の業務が終わらないんじゃないのか……?
しかし本当に蘇生ができるなら確かに俺も助かる。単純に考えれば、人員が二人いれば仕事量が半分になるということだからな。まぁいきなり俺と同じ仕事量をこなすのは無理だろうが。
いや、でも給料は一人分しかもらえないわけだし。ルッツを匿ったってバレたら俺までなんらかの罰を受ける可能性もあるしなぁ。
俺の逡巡を感じ取ったのか。ルッツが地べたを這いずるようにして俺の脚に縋りつく。
「お前の部屋でいいから置いてくれ! お行儀よくするし散らかさないから! ルームシェアしてくれ~!」
いや、嘘吐くなよ。お前の部屋めちゃくちゃ汚いだろ。
俺はあらぬ方を見ながら頬をポリポリと掻く。
「俺、結構神経質なんだよな~。部屋に誰かいると眠れないし」
「いや、嘘吐くなよ。お前相当図太いだろ。とりあえず部屋見せろ!」
「あっ、おい」
制止を無視し、ルッツは俺の部屋へと転がるように駆けこむ。
しかし俺の部屋は別に大して広くはない。これ以上ベッドを置くようなスペースはないし、あったとしてもなにが悲しくていい年した男が二人並んで寝なきゃならんのだ。
俺は部屋の隅に鎮座したタンスを指し示す。
「まぁ貸すとしたらタンスだな」
「タンスって……子供がこっそり飼ってる犬や猫じゃないんだぞ。立ったまま寝ろってのかよ」
「結構デカイから膝抱えれば座れる座れる」
俺はタンスを開けて手でルッツを誘導する。
「試しに入ってみろ」
「ええ~? マジで言ってる~?」
しかし度重なる労働と脱走でテンションがおかしくなったルッツは、文句を言いながらも本当にタンスの中に体を押し込めていく。
なにをやっているんだお前は。なんか急に冷静になってきたが、言い出した手前やめろとも言えない。タンスの中から明るい声がする。
「あっ、でも意外と落ち着くな。俺狭いとこ嫌いじゃな……イッ!?」
しかしそれほど経たないうちにルッツが転がり出てきた。
「お前っ……あれ……」
床に尻もちをつき、タンスを指差して呆然としている。
なんだよ。虫でも出たのか? 俺は促されるがままタンスを覗き込む。呆然とした。
糸。違う。髪の毛だ。パステルカラーの髪の毛がタンスの底に散らばっている。
「ひえっ」
俺は短い悲鳴を上げながらタンスから転がり落ち、ルッツの隣に尻もちをついた。
並んだ俺に、ルッツは非難の視線を向けてくる。
「なに? どういうこと? お前、本気でタンスを客室的に運用してるの? でも女の子をタンスに詰めるのはさすがにどうかと……」
「そんなことしてねぇよ!」
「じゃあなんだよ……その……霊的なヤツ?」
「まぁ……どちらかと言えばそうだな……幽霊って言うか、怪奇現象的な……」
俺が呟くと、ルッツはサッと顔を蒼くする。
そして何らかのスイッチを切り替えたように笑顔を浮かべ、素早く立ち上がった。
「やっぱ俺、宿屋の婆ちゃんとこ戻るわ! じゃ!」
逃がすか!!
俺はルッツの脚に縋りついた。
「待て! 行かないでくれ。一緒にいてくれぇ!」
「怪奇現象と同居するの嫌だ! よくよく考えたらここ最悪の事故物件だし。お祓いしてもらえ!」
「うるせぇ! ここにいてくれないなら大司教様に突き出してやる!」
「じゃあお預かりしますね」
背後からルッツの肩にポンと手を置いた大司教様が軽い調子でそう言った。
残念だったなルッツ。そう簡単に労働からは逃げられない。お前も、俺も。
振り向いたルッツがこの世のものとは思えない絶叫を上げた。
「ギャーッ! 出た!!」
当然のような顔で部下の部屋に音もなく現れた大司教様は俺の方に視線を向ける。
「また会いましたねユリウス君。まさかとは思いましたが、こんなに遠くにまでルッツ君が逃げるとは」
俺は息をのむ。これでは俺がルッツを匿おうとしたと思われてしまう。やはりルッツを教会から蹴り出しておけばよかったか。
しかし大司教様に逃走神官を叱責する様子はなく、むしろ嬉々としてルッツに言った。
「逃げ出した部下は数いれど、ここまで気合の入れた逃走は初めてでした。逃避行はいかがでしたか? どういう経路でここまで来ましたか? なにを食べてなにを見て、誰とどんな話をしましたか? 王都までの道すがら、ぜひあなたの話を聞かせてください」
……できるだけ面白い話をしない方が良いぞ。カタリナの家の肉片が大きくなる事態はお前も避けたいだろう。
俺は心の内でアドバイスをしたが、口には出せなかった。
「すみません! すみません! 仕事から逃げ出しました。俺はどうなりますか? 謹慎? 破門?」
ルッツが大司教様に縋るような視線を向けた。
しかし大司教様は穏やかに首を振る。
「いいえ、神はそんな些細なことを気にするような方ではありません。帰ったらさっそく仕事に戻りましょう」
ルッツの顔が絶望に凍り付く。謹慎でも破門でも良いから、とにかく仕事から逃げたかったのだろう。しかしルッツの望みは無残にも砕かれた。
「さぁ王都に戻りましょう」
短い休暇だったな。
しかしルッツはまだ諦めきれないようだった。
「大司教様! 大司教様! 大司教様ァ!」
大司教様に引きずられながら、ルッツが喚き散らす。
「もう無理です! 辞めます!」
「辞める?」
大司教様の足がピタリと止まった。
ゆっくり振り返り、腰の引けたルッツを見下ろす。
とうとう大司教様の逆鱗に触れたか……? 俺は思わず身構えるが、大司教様に怒りの感情は見られなかった。珍獣でも眺めるような目をルッツに向け、心底不思議そうに呟く。
「神にその身を捧げたあなたが一体なにを辞めるんですか?」
……悲しいかな、神官という職はそう簡単に辞められるものではないのだ。
大司教様は穏やかに続ける。
「逃げるのはまったく構いませんよ。できるだけ遠くへ行くとなお良い。私も部下を探しに行く名目で旅紛いのことができますから。でももし根本的に労働環境を変えたいなら。私のやり方に不満があるというなら」
大司教様はへたり込んだルッツと目線を合わせ、ハッキリした口調で言った。
「私を殺してみせなさい」
は? なに言ってんだこの人。
からかっているのか本気で言っているのか分からない。淡々としたテンションで大司教様は続ける。
「強い者が支配し、弱い者は蹂躙される。時代が移り変わっても変わらない世の常です。もし私を殺した者が神官だったなら、空いた大司教の席をその者に譲ると上にも伝えてあります。私を殺せるくらい強い者ならば神にも認めていただけるはずです」
そんな蛮族の村長みたいな方法で大司教って決まるの?
どうなってんだ教会本部。なんかいちいち血生臭いな……
しかしその言葉はルッツにとって多少なりとも救いになったらしい。
ギラギラ輝く視線をこちらに向け、何かを掴むように腕を伸ばす。
「待ってろ。絶対……絶対戻ってきてやる! 絶対だ。今は無理でも、いつか絶対。なにをやってでも、誰を殺してでも」
今の戯言を真に受けたのか。
しかし突っ込みを入れる気にもならないほどルッツの目はまっすぐで、その眼差しは目を細めたくなるほどに熱い。
ルッツは伸ばした手をグッと握り込み、絞り出すように言う。
「俺が……っ、俺が仕事をしたくないって気持ちは本物だからっ……!」
そんな言葉を残して、ルッツは大司教様に引きずられていった。
いつもヘラヘラして、適当に生きてきた男が初めて見せた本気の表情。
あの情熱をもう少し別のところに生かせればいいのにな。