「白うさぎの生死や魔族の動向、気になることはあるが荒れ地を超えるのは我々にとっても危険な行為だ」
神官服を纏った悪魔は一方的な状況説明をそう締めくくった。
空の魔族は去ったが、街が今どうなっているかは分からない。今は確かめる術もないと……。
数秒の沈黙の後、何を思ったか悪魔は憐れむような視線を俺に向けて言った。
「魔族は気まぐれに他の生物を殺す。珍しいことではない……が、仕方がないと諦めて良いことでもない」
それが遠回りな慰めの言葉であると気付くのに少しの時間を要した。悪魔がどうしてそんな言葉をかけたのか気付くまでにはさらに時間がかかった。俺が落ち込んでいるのを察したのだろう。
俺は無言で悪魔の後をついていく。どこまでも続く薄暗い廊下。人気はないが、それでも何体かの魔物とすれ違うことがあった。そのたびに魔物たちは悪魔に頭を下げ、なにやら丁寧な言葉で挨拶をしていくのだ。そして悪魔はこう返す。
「魔王様のご加護のあらんことを」
彼らからはこの悪魔への尊敬の念を感じる。魔物たちの着ているものは粗末で原始的でとても綺麗とは言えない。しかし重要なのはそこに血がついていないということ。無機質な廊下をいくら見回しても血だまりがないということ。
魔物たちに挨拶を返す傍ら、悪魔は俺に耳打ちをした。
「目立たないように顔を伏せておけよ。今日は休息日だから人通りは少ないが、念のためだ」
休息日? そうか。魔物にもそういうのあるのか。そうか……そうなのか……
「……気持ちは分かるが、ここで悩んでも仕方がないだろう」
悪魔の言う通り。悩んでも仕方がない。魔物と人間は違うのだ。分かっている。でも、でも……
「就業時間は? 貴方の就業時間は?」
俺は我慢できずに尋ねる。それが己の首を絞める結果になると分かっているのに。
悪魔は……黒い神官服を着た悪魔は、怪訝な表情をすると共にもごもごと口ごもりながら答える。
「礼拝は朝晩の二回。あとはまぁ、色々雑事をやっているから就業時間と言われると難しい。そもそも魔王様に仕えている我らの業務はお前たちのいう“労働”とは違う。いわばいつでも働いている状態であり、寝ている時も起きている時も病める時も健やかなるときも――」
俺は泣いた。むせび泣いた。
神官服に汚れもシワもないからもしやと思ったが、やはりそうだ。コイツろくに働いてないんだ。急に饒舌になったのがなによりの証拠。働いていないのを誤魔化そうとしている。
「というかお前、街が心配で落ち込んでるんじゃないのか!」
ほらな、やっぱり誤魔化そうとして話を逸らした。
街が心配かだってぇ? 心配に決まってんだろ。神官不在の状況で教会に積みあがった死体が腐り果てていることがな!
マーガレットちゃんは心の優しい聡明な魔族だ。八つ当たりで街を壊したりなんかしない。そんなことははなから心配していない。その辺の頭の軽い魔族と一緒にしないでもらいたい。
フェーゲフォイアーの勇者と違って、魔王城の信徒はさぞかし敬虔で礼儀正しいんだろうね。神官の手を焼かせるような者は少ないのだろうね。そもそも魔物は蘇生ができず、さらに毒や呪いに耐性のある者が多い。蘇生と解呪と解毒の業務もないんだろ?
俺は羨ましさにえずきながらなんとか尋ねる。
「あなたは毎日一体なにをやっているんですか」
純粋な疑問からくる質問だった。が、言い方がまずかったか。あるいは本人に思うところがあったのか。
ヤツは長い爪のある大きな手で俺の神官服の胸ぐらを掴んだ。
「お前には分からない。俺の苦労は」
「ッ……」
俺はヤツを見上げる。その気迫に思わず腰が引ける。が、俺は声を大にして言いたかった。お前にこそ俺の苦労など分かるまい。そして俺の苦労の方が大変に決まってんだろ!!
言わないけどね、大人だから。
しばしの沈黙の後、胸ぐらから手を離した悪魔は俺の神官服を指差し吐き捨てるように言う。
「さっさとそれ脱げ。血の匂いは目立つし汚い」
そうだね。お前も俺の服を汚したヤツの一人だけどね。
渡した神官服を爪の先で器用につまみながら、悪魔は苦虫でも噛み潰したような顔をする。
「その部屋で待ってろ。うろちょろするなよ」
着替えを持ってきてくれるのだろうか。神官服の下に纏った肌着にまで血が染みているからそっちも持ってきてほしいなぁ。
目を覚ました時にいた無機質な部屋に戻りベッドに腰かけ、言われた通り大人しく待ちながらそんなことを考える。
扉があいた。しかしひょっこり部屋の中を覗き込んだのは、悪魔は悪魔でも悪魔神官ではなく小悪魔であった。
「ヒト?」
「ヒトだ。ヒトだ」
「だから言ったじゃん。嘘じゃないって」
あどけない喋り方。丸い目と顔。頭からは親指サイズの角が生えている。子供だ。死人のような顔色をした魔物の子供たちがわらわらと部屋に入ってくる。初めて見る人間が珍しいのだろうか。壁際の粗末なベッドに座る俺を囲むようにして小悪魔たちが集まる。
どこの世界も子供はわんぱくだな。ベッドに飛び乗った小悪魔が俺の髪をかき分けながら声を上げる。
「見て見て、鱗もないし毛皮もないし牙もないし角もないよ!」
それに触発されるように次々とベッドに飛び乗った悪魔が俺の許可を得ないまま体をつまんだりつついたりする。口々に同じ言葉を呟きながら。
「やわらかいね~」
うーん、やっぱり筋トレすべきか?
子供の無垢な言葉に密かに傷ついていると、イタズラ小悪魔たちはそれぞれ手に持ったなにかを俺の体に振りかけ、刷り込み始めた。なんだ?
レモン、粗塩、胡椒、唐辛子パウダー、あとは茶色だの緑だの黄色だの得体の知れないソースたち。多分勘違いだと思うけど、もしかして調味されてる?
やつらは無垢な笑みを浮かべて言う。
「魔王様に感謝して。いただきまーす」
勘違いじゃなかった。俺は小悪魔たちを振りほどいて駆け出した。転がるように部屋を出て見知らぬ廊下を駆けていく。
しかしハラペコ小悪魔たちはお気に入りの調味料を手に追いかけてくる。
「お願い、ちょっとだけ。一口だけで良いから~」
冗談じゃねぇよ!
あの人数が一口ずつ食ったら相当の減量に成功するに違いない。そして子供の言う一口は大抵一口では終わらない。くそ、油断していた。ここは敵陣のど真ん中。猛獣の檻の中にぶち込まれたようなものだ。
俺は生命の危機に突き動かされるがまま足を動かす。追手を撒くべく廊下を曲がり、知らない場所なりに必死にあちこち駆けまわる。が、やはり土地勘が無いというのは大きなハンデだ。曲がった廊下の先には大きな扉。後ろからは小悪魔たちの足音。
扉の先がどうなっているのかは分からない。鍵がかかっている可能性だってある。が、扉の先に進まなければ美味しく調味されて食われるだけだ。
俺は祈るような気持ちで扉を押し開け、中に転がり込んだ。
「待ってろって言ったのが分からなかったか」
勢いのまま床に転がった俺を見下ろす金色の瞳。
俺は辺りを見回す。黒い神官服を纏った悪魔の後ろにあるのは祭壇に似た何か。その奥の壁にはめ込まれた光の差し込まないステンドグラス。
それは俺たちの知っている教会にとても良く似ていた。
「そうかお前たちか。つまみ食いは魔王様に叱られるぞ」
隙間から覗く丸い瞳に気付いた悪魔が扉に向かってそう声をかける。扉の向こうから小さな足音が遠ざかっていくのが聞こえる。どうやら危機は去ったらしい。俺はほっと胸をなでおろした。緊張の糸が緩み、思わずヘラリと笑う。
「危うく小悪魔のおやつになるところでしたよ。まぁつまみ食いより人間を匿っていることの方が“魔王様”とやらは怒りそうですが」
「……………………」
悪魔の様子に、俺はハッとして口を閉ざす。
おっと。また余計なことを言ってしまったか。適当な言葉で誤魔化そうと口を開きかけるが、悪魔はそれを遮って言った。
「魔王様に謁見する機会を与えてやろう」