チュンチュンチュンチュン……
小鳥の囀りと口から漏れる己のうめき声を目覚ましがわりに俺は少しだけ目を開く。
頭が割れそうに痛い。喉がヒリヒリと灼ける。ぼんやりした吐き気が体にまとわりついて動けない。
体を起こすこともできず俺は再び枕に顔を埋めた。
ん? 毛布? 枕? 俺はあたりを見回す。いつの間に部屋に戻っていたんだ。魔王城教会にいたはずなのに。
あー、なんでだろう。全然覚えてない。全然覚えてないけど、なんかとんでもない事をした気がする……なんだろう……
地下だからか。妙に寒い。俺は胸で燻るザワザワを抱えながら毛布を首元まで引き上げ、はたと気付いた。
おや? 俺はどうして服を着ていないんだ?
パンイチで寝る習慣はないんだが……
「とんでもないことをしてくれたな」
突然の声にビクリと体が震える。
見ると、例の悪魔が非難がましい視線をこちらに向けていた。
「タノミさんは人妻だ」
チュンチュンチュンチュン……
鳥の囀りがどこか遠くに聞こえる。
聞き覚えのない名前。しかしこの状況。胸のざわつき。
寒いはずなのに背中を汗が伝う。
「あの方の夫君は魔王城の幹部。人事権のほぼ全てを握る気高きミノタウロス族の長だ」
頭痛がする。耳鳴りがする。悪魔の言葉がどこか遠くに聞こえる。
俺は額に手を当て、恐る恐る尋ねる。
「じゃあ、その、タノミさんもミノタウロスですか……?」
「まさか覚えていないのか? ロクでもないヤツだな」
そのとおりだ。まったく覚えていない。覚えていないが……しかし、しかしミノタウロスだろ? ミノタウロスって牛じゃん。牛頭のバケモノじゃん。昨夜、牛頭のバケモノとなにがどうなったと言うんだ。……どうにかなってしまったのか?
産まれたての子牛のように震える俺の顔を悪魔が覗き込む。軽蔑の眼差しが突き刺さる。
「お前の認識はどうあれ事実は変わらない。覚悟はいいな」
ガチガチガチガチ……
猛烈な寒気。吐き気。焦燥。
訴訟、慰謝料、社会的信用の失墜。嫌なワードが頭の中を流星のごとく過ぎっては消えていく。
怯える俺に悪魔がなにやら紙を突きつける。俺は息を呑んだ。まさかそれは……そ、訴状か? 頭の中がぐるぐると回る。きっとこれから裁判所的なところにしょっ引かれて昨夜の詳細な出来事を晒し上げられたあげく旦那のミノタウロスにボコボコにされて子ミノタウロスに泣かれて聴衆からは石を投げられ人々からは陰でモンスターハンターなどと揶揄されるのだ。どうしてこんなことに。いっそ殺してくれ。
俺は力なく顔を上げた。なにも見たくないがかといって眼をつむっていてもなにも進まない。悪魔の差し出す書類を手に取り目を通す。しかし人間と魔物では使用する文字が違うのか。読めそうで読めない。いや、一点だけ読める部分がある。見慣れた筆跡。これは、俺の署名?
俺が顔にクエスチョンマークを浮かべていたからか、悪魔はその書類の正体を端的に述べた。
「雇用契約書だ」
予想外の言葉に頭が真っ白になる。
そんなことはお構いなしとばかりに悪魔は続ける。
「今更怖気づいたってもう遅い。これは控えだ。原本はタノミさんを通して魔王城人事部に提出され、処理された」
悪魔はまだ「人間がここで働けるとは思えない」だの「とはいえ働かざる者食うべからず」だの「お前が食われるかもしれないけどな」だのとグチグチ嫌味を言っているが、ほとんど頭に入ってはこなかった。
「あの、その、タノミさんは……」
悪魔は渋い顔をしてため息混じりに呟く。
「あの方の好奇心にも困ったものだ。こうしてたまに変な人材に目を付けては魔王城に誘い入れている」
「雇用契約書を書いたあとはすぐ戻られたということですよね……?」
「? ああ――」
悪魔が怪訝な顔で頷きながら、なにかに気付いたようにその動きを止める。
目にも止まらぬ速度で俺の頭をひっ叩いた。
「お前なに考えてたんだ! タノミさんは十五児の母だぞ」
「いや貴方が紛らわしい言い方するから! というか服! 私の服はどこいったんですか」
「俺が剥がして洗濯にまわしたに決まってんだろ。あんな調味料まみれの服でベッド入ったら汚れるだろうが!」
うわ凄いまともだ〜!!
俺は脱力し、ベッドに沈みこんだ。安堵が胸に染み渡る。良かった。本当に良かった。俺は潔白だ。人間としての矜持を失ってはいなかった。
と同時にふつふつとやり場のない怒りが湧いてくる。よくも無駄な絶望と焦りを味わわせてくれたな。
俺を嘲笑うように扉の外から声が聞こえてくる。
チュンチュンチュンチュン……
なんなんだよこの囀り!
こんなん聞いたら条件反射でそういう事かなって思っちゃうだろうが。ふざけんなマジで。トリモチで一網打尽にして腹かっ割いて串打って食ってやる。
俺はベッドから飛び起き、小鳥への激しい殺意を胸に扉を開ける。
『チュンチュンチュンチュン……』
小さなくちばしが可愛らしい囀りを上げている。そのすぐ横には牙のついた長い肉食獣の口が舌をだらりと垂らして生臭い息を吐き流している。さらにその上には緑の鱗に縁取られた爬虫類の口。その斜め下には魚類の口。草食獣の口。甲殻類の口。げっ歯類の口。そして鮮やかな紅に彩られた女の口から甲高い悲鳴が上がる。
『助けて! 助けて! 殺さないで――』
俺は扉を閉め、口だらけのバケモノを視界から追い出した。
よくよく考えてみたらここは地下だ。小鳥の囀りが聞こえるはずもなかった。俺は錆びついた歯車のような動きで振り返る。
悪魔はつまらなさそうに答えた。
「お喋りで食いしん坊なヤツだが仲良くしてやってくれ」