『タスケテ! タスケテ!』
ずんぐりした体にくっついた多種多様の口。そのうちの一つ、鮮やかな紅に彩られた女の口から助けを求める悲鳴が上がる。
こうやって他の生物の声を模倣し、寄ってきた生き物をその口でバクりと食うのがこいつらの生存戦略であるらしい。
俺は赤い唇をまじまじと見る。乾燥のせいか、口の端が少し切れている。俺は救急箱に視線を向けた。
「絆創膏ならそちらです」
『タスケテ!』
口だらけのバケモノが不服そうに助けを求める。
しかしその程度で回復魔法をくれてやるわけにはいかない。手荒れだの吹き出物だのでいちいち回復魔法をせびられてたら過労死してしまう。俺はバケモノから顔を背けた。
「そんなの舐めときゃ治ります。口ならたくさんあるでしょう」
『タスケテ!』
うるせ~。
チッ、仕方ねぇな。俺は渋々救急箱からリップクリームを取り出して塗ってやった。なんで口ばっかりたくさんあって手がねぇんだよ。嫌な上司かよ。そんなことを考えていると本当に嫌な上司が来た。
「なんでこんなに馴染んでいるんだ……」
神官服を着た悪魔が去っていく口だらけのバケモノに道を譲りながら医務室へと足を踏み入れる。
酔った勢いで敵対勢力と雇用契約を結んでしまった俺は魔王城の医務室にて回復魔法要員のバイトをしている。勤務時間は十時から十六時。蘇生はしなくて良いし、大怪我して運ばれてくるようなヤツも滅多にいない。こんな超絶ホワイト職場がまさか魔王城にあると誰が予測できただろう。
もう一つ意外だったのは、魔物たちの俺に対する態度である。
「ここの魔物って妙に人に慣れてません?」
魔王城の連中には何度か街で襲われたことがある。
だから人間にさぞ強い恨みがあるのだろうと思っていたが、ここの連中を見ているとそうでもないようだ。たまにオヤツを見る目を向けられることもあるが、今のところ怪我もなく無事に暮らせている。
すると悪魔は眉間に刻まれた皺をますます深くしながらニコリともせず言った。
「魔王城の歴史は長く、もともと様々な魔物が寄り集まってできた集団だ。考え方は様々だが、この辺はことさら特殊で――」
悪魔神官の真面目な魔王城歴史解説に興味が無いわけではないがどうやら授業を受けている暇はなさそうだ。医務室の扉があき、患者の魔物が入ってくる。あと少しで終業だが、まぁわざわざ来た者を追い出すようなことはすまい。俺はジッと患者を眺める。二足歩行。爪はなく、牙もない。肌の色は赤くも青くもなく、頭に角はなく、背中に翼はなく、身長は俺より少しだけ小さく、中年男性の顔をした、ええと……中年男性?
「こうして人間と話すのは久しぶりだ」
男はそう言って笑った。
人間だ。どうして人間が。
「クルトだ。食料や武器の管理を行っている」
俺が呆然としていると、中年男性は人の良さそうな笑みを浮かべてさらりとそう名乗った。
そうか。俺以外にも人間がいたからここの魔物は俺を見ても大して驚かなかったのだ。
クルトさんはにこやかに時計を見ながら言う。
「もう仕事は終わりだろう。これから一緒に来ないか。魔王城を案内してあげよう」
「二人でですか?」
人間一人でウロウロすると腹をすかせた魔物に襲われる可能性があるということで、この小うるさい悪魔は俺に散歩を許可していない。人間が二人に増えたところでそのリスクは大して変わらないだろうと思ったのだが。
「人間同士楽しくやってくれ。コイツ、現役の神官だそうだぞ。クルトも久々に神様に挨拶したらどうだ」
「はは、今更合わす顔がないよ」
クルトさんとそんな言葉を交わして、悪魔はまだ雑務があるとかなんとか言って教会へ戻っていく。「嘘吐け、暇なくせに!」との言葉を飲み込み、俺はクルトさんと医務室を出た。扉にかかった札をひっくり返し、本日の営業が終了したことを告げる。
クルトさんが俺の横でポツリと漏らした。
「こんな札一枚掲げるだけで大人しく帰ってくれるんだからここの魔物はちゃんとしているよね。フェーゲフォイアーならこうはいかない」
そうだな。勇者たちなんか教会の鍵がしまってても深夜でも構わずドア叩きまくって蘇生させようとするからな。
……ん? なんでそんな事情知ってるんだ。
クルトさんがジッと俺を見ている。その顔から人の良さそうな微笑は消えている。
「大司教様に言われてきたの?」
大司教様? どうして大司教様の名前が出てくるんだ。
不穏な気配を感じながらも、俺は魔王城に保護された経緯を話す。言い終えると、今まで静かに話を聞いていたクルトさんは静かに言った。
「ついておいで」
連れられて行ったのは倉庫のような場所だった。食料、武器、ありとあらゆるものが箱に入れられ積み上げられている。
地下に押し込められながら、よくもまぁここまで安定した食料を確保できているものだ。野菜とかどうやって育ててんだろ。日光的な光を照射できる魔物でもいるのかな?
そして隣の箱には肉が入っている。こっちは干し肉か。乾き、皺の寄った骨付きの肉。その先端には五本の指と爪がついている。俺は息を呑んだ。牛の肉ではない。豚の肉でもない。これは。
「安心して良いよ。私たちの食事には入ってない。ヒトの肉は貴重なんだ」
俺はゆっくりとクルトさんを見る。
分かっていたことだ。人は魔物の好物。食うことで強くなる。でも、一体これをどこから。
「ここの物資はすべて王都から運ばれてきたものだ」
俺の疑問をくんだかのようにクルトさんが答える。
……王都から?
俺は弾かれたように辺りを見る。上等な武器、新鮮な食料。確かにどれもこの場所で手に入れるのは難しいものだ。しかし略奪して手に入れたにしては量が多すぎる。
クルトさんを見る。彼も俺をジッと見ていた。
「私はここの情報を売り渡し、代わりに莫大な物資を得ている」
「――スパイってことですか」
「そんなつもりはないよ。ただ、売れるものを売らないとみんなが飢えて死ぬからね」
だからクルトさんは魔物だらけのこの場所で何年にも渡り生きてこられたんだ。金の卵を産むガチョウを殺すような真似を魔物たちはしなかった。そして魔物たちの生活が安定していて、食べ物に飢えていないから俺もむやみに襲われず済んでいる。
「そもそも、それが大司教様に提示された条件だったんだ。神官としての職務を離れ、彼女と歩むための」
クルトさんが遠い目をして言う。
そうか。街の事情を知っていて当然だ。俺の前。マッドが神官をやっていたころよりさらにずっと前。フェーゲフォイアー教会に勤めていた元神官。駆け落ち先が魔王城とは随分思い切ったものだ。
「あっ、ちょうど良いとこに。紹介しよう、妻だ」
彼にそれまでの全て捨てて未知の世界に飛び込む決意をさせた女性。一体どんな魔物なのか。やはりサキュバスか。あるいはオーガとか?
クルトさんの示す方へ俺は弾かれたように振り返り、絶句した。
えっ……?
俺はクルトさんを見る。人生の伴侶を前に、優しく微笑んでいる。マジ? 本当にそうなの?
改めてそれに向き直り、改めて絶句する。
蜘蛛だ。
アラクネなんて生易しいもんじゃない。モンスター娘なんて可愛いもんじゃない。見上げるほどにデカい蜘蛛がそこにいた。