俺は自分の脚に誇りを持って生きてきた。
直立二足歩行をする生物は魔物や魔族を除けば人間だけだ。腹部などの弱点を晒し、膝や腰への負担を強いられながらも器用な両腕を手に入れた。人間が道具を扱い、魔法を操り、愛する者と手をつなぐことができるのは二足の脚で大地を踏みしめているからに他ならない。
しかし。俺の人間としての誇りは大きな危機にさらされている。
「二本脚のくせに道の真ん中を歩かないでよ。キモすぎるんだけど」
八本脚の小娘ことアラーニェは顔を合わせるたびに人類の栄光と繁栄を象徴する二足歩行をハチャメチャにディスってくるのだ。
最初は相手にしていなかった俺だが、こう何度も言われると自信が無くなってくる。
「二本脚ってキモいですかね……」
今までまったく意識してこなかった自分の脚の本数について思案していると、クルトさんは悲しげに笑った。
「あれは私への反抗心がそうさせてるだけだ。諦めず気長に接してあげてほしい」
「はぁ……」
生返事しながらハッとする。
あれ? なんか慰められてる?
なんで俺が振られたみたいになってんだおかしいだろ。
とはいえ、これはむしろ好都合だ。八本脚の女など俺の手には余る。できるだけ顔を合わせずにやり過ごそう。
そう思っていたのに。
「おいおい、半端者がいるぞ」
アラーニェが二体の魔物に囲まれ、どうやら絡まれている。
「節足のくせに脊椎あんのかよお前」
「上半身の外骨格はどこにやったんだよ!」
……絡まれてるんだよな? 罵倒が独特でよく分からない。
内容はともかく、声色から察するに魔物と人とのハーフである彼女を馬鹿にした言葉だと推測できる。
クソッ、厄介な場面に出くわしちまった。
大人として止めるべきなのは分かっているが、脚がすくんで動かない。全身の毛が逆立ち、冷汗が滲む。それほど広くない廊下にみっちり並んだ脚の総数にめまいがする。
アラーニェを囲んでいるのはデカいヤスデとデカいムカデ。
蜘蛛って節足動物の中では結構マシなビジュアルだな。生理的嫌悪に苛まれながら俺はぼんやりそんなことを思った。
不意にムカデの方がこちらに頭を向ける。
「あ? お前なに見――」
見つかった!
うわっ、脚めっちゃ動いてる。気持ち悪!
色んな意味で悲鳴を上げそうになったものの、俺が口を開くより早くあちらから悲鳴が上がった。
「うわっ脚二本しかない。気持ち悪!」
そんな言葉を残し、大量の脚を動かしながらムカデとヤスデが逃げていく。
えっ、アイツらが逃げていくほどキモいの? 俺はまた心に深い傷を負った。
さて、残されたのはしなやかで頼りない皮膚を持つ脊椎動物が二体。
しかし彼女は俺を仲間と認めていないらしい。
「余計なことしないでよ」
余計なことっていうか俺はただここにいただけなんだけど。
礼を言うこともなく、アラーニェはこちらに背を向け吐き捨てる。
「こんなの、いつものことだし」
強靭な蜘蛛の脚を素早く動かして音もなく去っていく。しかしその背中は人間の少女のようにか弱く見えた。
年頃の上、彼女の生い立ちは特殊だ。
ああいうことを言われるのも珍しくはないのだろう。周りとは違う父親に反発したくなる気持ちも分からないではない。
俺やクルトさんのように完全な人間だと却ってなにも言われないし、生物としての違いも「そういうもの」として受け入れられるのだが。
ああいったちょっとした小競り合いはあるものの、この場所はフェーゲフォイアーよりずっと平和である。
「ここは楽園だよ」
仕事が午前中で終わるというのは本当なのだろう。
怪我もないのに医務室へやってきたクルトさんは当然のようにベッドに腰かけて気さくに話しかけてくる。そりゃあフェーゲフォイアーに比べれば楽園だろうな。
そう思ったが、どうやらクルトさんは仕事の楽さを言ったわけではないらしい。
「魔王城は長い歴史の中でいくつかに分裂しているが、ここまで平和なのはうちだけだ。食べ物が潤沢にあるからだね」
ここは地下。食料を取るなら地上に行くしかないが、外は魔族の領域。
魔族はアリを踏み潰す感覚で人を殺す。眷属でない魔物への扱いもそんなものなのだろう。狩りには多大な危険が伴う。
クルトさんの運ぶ物資はまさに魔王城の生命線。それがなかったとしたら。
「他所の魔王城とうちじゃ随分と雰囲気が違うようだよ」
「へぇ~大変ですね」
他人事ならではの適当な返事をしていると、音を立てて医務室の扉が乱暴に開いた。
嗅いだことのある匂い。殺風景な床を染め上げる鮮やかな赤。
血塗れのアラーニェが悪魔神官に手を引かれて医務室に八本の脚を踏み入れる。
「どうしたんだ!?」
元神官なら血には慣れているはずだが、娘のそれとなると話が別だ。クルトさんは酷く取り乱した様子で立ち上がったと思ったら腰を抜かして座り込んだ。
アラーニェは顔を歪め、肩で息をしながらも頑なな態度を崩さない。
「別に……ちょっとトラブっただけ」
先日、アラーニェがデカいムカデやヤスデに絡まれていたことを思い出す。それがエスカレートして喧嘩にでもなったのか。にしてもこれはやりすぎだろ。
悪魔神官は嫌がるアラーニェを座らせ、緊迫した表情をこちらに向ける。
「手当を頼む。クルトはガーゼでも取ってきてくれ」
「そ、それより誰にやられたんだ。お母さんに言って八つ裂きにしてもらおうな」
しどろもどろで物騒なことを口にする父に、娘は刺すような冷たい視線を向ける。
「自分じゃなにもできないくせに偉そうなこと言わないでよ」
愛する娘が口にしたその一言はあらゆる困難を乗り越えて魔王城へやって来たクルトさんの心をいとも容易く砕いた。
「……クルト。ガーゼを」
血塗れの娘の手を引いて部屋に入って来た悪魔神官が今度は茫然自失の父を連れて部屋を出ていく。
息も絶え絶えになりながらアラーニェは父の背中を睨むような視線を閉じた扉に向ける。
「二本脚の男ってお節介で嫌になる。いいから放っておいてよ、大袈裟なんだから」
この言葉はきっと俺にも向けられているのだろう。
とはいえ黙って見ているわけにはいかない。
今までで一番大きな仕事だ。もし彼女を死なせてしまったらお母さん蜘蛛に八つ裂きにされるのは俺だ。否が応でも緊張感が高まる。
かなりの出血量だ。内臓の構造は人間と同じだろうか。神の加護を受けた勇者に比べて、魔物の傷は治りにくい。本気を出さないと。とにかく止血を――
「ッ!?」
俺はゆっくりと手をおろす。脱力した手から止血用のガーゼがハラリと落ちて床に広がった。床に溜まった血を吸ってガーゼが赤く染まっていく。
俺はアラーニェを見た。
「一体なにがあったんですか。誰に……いや」
生唾を飲み込む。
感情の読めない八つの目がこちらを見ている。
俺は絞り出すように尋ねた。
「誰を殺ったんですか」
その血に染まった体にはどこを探しても傷一つない。
この血。全部返り血だ。
「食物連鎖の頂点が誰なのか分からせてあげたの」
アラーニェが俺の胸ぐらを掴む。母親譲りの捕食者の目に俺の顔が映り込む。
「私が人間に見える?」
俺は激しく首を横に振った。その返答に満足いったのか。アラーニェは胸ぐらから手を離し、俺は床に尻もちをつく羽目になった。
自分の体に流れる人の血がそんなに嫌か。
でも、こんなこと言ったらきっと殺されるから言わないけど。
自らのアイデンティティを確立しようと藻掻くその姿は、すごく人間っぽいと思った。
八つの目がこちらをギロリと見る。
考えがバレたのかと身構えたが、どうやら違うらしい。
「そういえば見慣れない魔物だったけど、人間の神官がどうとか言ってた。気になるなら探してみたら? 何体か逃げていったよ」
魔物? 心当たりがない。一体俺になんの用があるというのだ。
アラーニェは口の端についた血を舐め取り、腹をさすりながら呟いた。
「ま、もう“コイツ”からは話聞けないけど」