ジェノスラの銀色の体が涙で歪む。
よく来てくれた。本当によく来てくれた。
俺はその包容力の権化ともいえる体に縋りながらむせび泣いた。
ジェノスラと戯れる俺の背中を刺すような八つの目。足元から纏わりつくような怨嗟の声が上ってくる。
「これが奥さん? 無脚の魔物がタイプなんだね」
俺は聞こえないフリをした。
しかし俺の代わりに異を唱える魔物が一匹。悪魔神官である。
「違うぞ。あれは魔族じゃないからな」
おい余計なことを言うな。
「ご家庭がありながら随分自由にされてるんですね。死ねばいいのに」
俺はジェノスラを強く強く抱きしめた。
やっぱり頼れるのはお前だけだ。
俺は辺りを見回す。ここはとても良い場所だ。バケモノだらけの世界なのにフェーゲフォイアーよりもよほど人間らしい生活が送れていた。
でもやっぱりダメなんだ。ここは俺の生きるべき場所じゃない。俺にはもっと大事な使命があるはずだ。そうだよなジェノスラ。あと色々言っても蜘蛛は無理だ。
だから……だから。
「私、フェーゲフォイアーに帰ります」
どんな危険な道のりだろうと、きっとジェノスラに乗っていけば安全に帰ることができる。
ジェノスラの体がぷるぷると波打つ。その仕草は俺の決断を肯定してくれているようで。心の底から安堵しながら銀色の低反発ゲルに体を預けて目を閉じた。纏わりつくような怨嗟の声を振り払うように。
「都合悪くなると逃げるんだ。死ねばいいのに」
語尾が「死ねばいいのに」になってしまった年頃の蜘蛛娘はもう無視するとして。
「え!? 話が違うじゃないか。なにがどうなってるんだ」
ジェノスラのゲル状の体に踏まれて身動きが取れない上に状況についてこれていない狼はこの際置いてけぼりにするとして。
「私も行こう」
悪魔神官の思いもよらない言葉に俺は思わず目を見張った。
「観光で行くには危険すぎますよ」
「そのためにお前がいるんだろう。街を案内して、そして人間側のトップと話をさせてほしい」
魔物と人間が対話?
フェーゲフォイアーのトップ……というとロンドになるのだろうか。アイツは腐っても王家の人間だから人間側のトップに近いといえば近い。
が、問題はその理由だ。俺の疑問を察したかのように悪魔神官が続ける。
「我々は本気で人間との共存を目指しているんだ」
は? んなもん無理に決まってんだろ。なぁジェノスラ?
俺はジェノスラの摩擦係数ゼロの体を撫でながらハッとした。
……あれ? 無理でもないか?
「なにを言い出すかと思ったら。そうまでして人間に媚を売りたいのか」
ジェノスラに踏みつけられた狼がギャンギャン吠える。
「機は熟した。世界の半分、人間の領域を我らの手に収める。他の魔王城はもう行動を始めている!」
創造主であり圧倒的戦力差のある魔族を相手どるのは無理なので勝てそうな人間の方へ攻めていく算段。それはとっくのとうに実行され、そして魔物たちは既に手痛い失敗を経験している。
演劇、歌劇、寝物語――ありとあらゆる場所で様々なアレンジを加えられた世界一有名な英雄譚。勇者たちの活躍により魔王軍を退けた人類の栄光の歴史。
魔王はとうに倒され、骨となって小箱に収められているのに。亡霊となり魔物どもの心の中に住まう魔王とリベンジマッチでも挑むつもりか。
「戦争になれば多くの犠牲が出る。悲劇を繰り返してはならない」
「地中に追いやられ、飢えに苦しむ現状こそが悲劇だ。観客は快進撃を待ちわびている」
同じ魔物でも立場や環境が全く違うのだろう。
悪魔神官と狼の議論は平行線のまま。多分何分何時間議論を重ねてもきっと交わることはない。
その不毛な時間に終止符を打ったのは悪魔神官のこんな言葉だった。
「ではお前もついてこい。魔物と人の新しい可能性を見せてやる」
悪魔神官が力強く言い放ち、そしてまっすぐな視線をこちらに向ける。
俺は困惑した。勝手に話を進めるな。勇者だらけの街だぞ。あっという間に一網打尽にされて殺されるに決まっている。初見の勇者だって街に足を踏み入れてすぐなんやかんやで殺されたりするのに。
とはいえ、魔王軍が街に攻めて来られたら困るのは俺だ。
魔物たちが殺されないように上手く立ち回りつつ、ロンドとの対話の場を用意し、魔物と人間の友好と明るいっぽい未来を演出しつつ無事帰らせる――ハイパー難易度のミッションだ。普通に気が重い。え~、マジでついてくるの? 俺はそんな想いを視線に乗せて悪魔神官に送る。俺の視線を受けた悪魔神官は力強く頷いた。なにを思って頷いたんだお前?
えっ、本当に行くの? 本当に行くらしい。
ジェノスラの体に乗り地下坑道を進んでいく。
荒れ地の魔族とその眷属をすり抜けてフランメ火山を超えるのは魔王城の魔物にとっても並大抵のことではない。だから彼らは火山を超えるのではなく地下に人の領域へ行くための道を作ったのだろう。
しかし油断はするな、と俺たちの背後をついてくる悪魔神官が呟いた。手に持ったリードは狼魔物の首輪に繋がっている。一見犬の散歩でもしているようにしか見えないがその表情は真剣そのものだ。
「安全な道というわけではない。迷い込んだ魔族の眷属に襲われることもある。派手な戦闘をすれば坑道が崩れるし――」
なるほど、ヤツの言うとおりだ。
入り組んだ通路から躍り出てきた雑魚魔物。坑道を崩さないよう、ジェノスラは静かにそいつらを踏み潰し、取り込み、消化する。
ジェノスラの貴重なお食事シーンを目の当たりにした悪魔神官が呆然と呟いた。
「俺もスライムを手懐けてみようかな……」
ジェノスラがいればもう安心だ。その辺の雑魚魔物など相手にならない。
それより問題は。
「なにかの間違いなんだろうユリウス君? 君がそんな不誠実な人間とは思えないんだ」
ジェノスラのすぐ横を歩くクルトさんが縋るような視線を向けてくる。
クルトさんの言う通り俺は極めて誠実な人間であり、魔族と結婚もしていなければ蜘蛛と婚約もしていない。
しかしクルトさんはまだ諦めていないらしい。
「色々と片付けないといけない問題もあるんだろう。それが終わってからで良いんだ。ぜひ戻ってきてくれ」
その言葉に胸がチクチクと痛む。
娘婿に相応しいという評価。それは子煩悩なクルトさんにとって最大の賛辞。
クルトさんは間違いなく良い人だ。しかし。
俺は背中に刺すような視線を感じながらうつむいた。少しだけ体を捻って、横目でそれを見る。クルトさんとはジェノスラを挟んだ逆側。八つの脚で音もなく歩くアラーニェが絡みつくような視線を投げかけている。
人間と魔物の友好を演出しなきゃならないのにこんなに殺気撒き散らしたヤツがいたらダメだろ。
俺は笑顔を浮かべ、できるかぎりの明るい声で言う。
「き、危険な旅路ですし無理についてこなくても良かったんですよ?」
アラーニェは八つの目をスッと細めた。粘っこく絡みつく蜘蛛の糸のような視線。
すぐに飛びかかってくるような爆発的な怒りは感じない。しかし種類の違う、ジワジワと頬を焦がすようなそれが確かに存在している。
地獄の底から響いてくるような声。
「奥さんにご挨拶しなくちゃ」
……マジで言ってる?
俺はジェノスラに強く強く縋りついた。絶対に降ろさないでくれ。絶対にだ。いっそ今後の人生をジェノスラの上で過ごそうか。そんなバカげた考えが頭をよぎるくらいには追い詰められていた。
「見えてきた。ここを抜けたら火山の麓だ」
クルトさんの言葉がどこか遠くに聞こえる。
これから待ち受けているであろう惨劇を想像し、体の震えが止まらない。
どうにかならないか。いっそこのまま逃げ出してしまえたら。
しかしそれは叶わない。色々な人間の色々な企みが逃げても逃げても追いかけてくる。
坑道を抜け、射し込む久々の日差しに目を細める。
銀色の飛沫が光を受けて輝く。ジェノスラの体が大きく波打ち、ぐらりと揺れた。
「え?」
久々に見る青い空が視界いっぱいに広がる。それを楽しむ暇もなく背中に走る衝撃。
ジェノスラの体から滑り落ち、地面に叩き付けられた俺は目の前に広がる光景に呆然とした。
はためく白い神官服。ズラリと並ぶ教会の紋章。
弓を構えた教会直属の兵士を背中に従えながら、自ら杖を振るう男。神官には過剰なほどの仰々しい杖から放たれた強力な一撃は銀色の飛沫を撒き散らしながらジェノスラの体を穿った。
「だ、大司教様――」
切り立つ崖の上に立った大司教様は、俺を見下ろして「久しぶり」とばかりに手を上げた。
物々しい様子に見合わぬ気安い笑顔を浮かべる。
「おかえりユリウス君。休暇は楽しめましたか?」